佐藤 誠也 Seiya Sato

ひっそりと社会で生きていたい変わり者。1978年生。

佐藤 誠也 Seiya Sato

ひっそりと社会で生きていたい変わり者。1978年生。

最近の記事

最終的に病気が判明し、何故か安心した話。(精神科)

「我々としては最大でも3か月迄しか、面倒は看れませんよ」と言われた精神科病棟には、結果として2か月間、御世話になった。今にして思えば「自動車みたいな巨大な機械が修理に出されていた」程の感覚でしかないが、自分から入院した癖に、比較的に症状が落ち着いたら「もう自分は大丈夫です!タクシーを呼んで下さい!帰る!」と散々勝手を言い、駄々をこねて看護師を困らせたり、まぁ申し訳ない事ばっかりだったと思う。あの時に御世話になった病棟の看護師さんには、唯々感謝しかない。お恥ずかしい限りだが、入

    • 「平服でお越し下さい」という案内に戸惑う中年男

      「就職したらば、祝儀不祝儀の服は用意しておくように。」 こう書いていたのは、向田邦子の随筆だった。向田邦子の御父上からの言葉である。年相応に誰しもが、祝儀不祝儀を経験していくものだ。それだけ大人になったという証拠でもあるのだろう。したがって冠婚葬祭の場での振る舞いは、或る程度、濃淡の差はあっても皆が知っている。 つい最近、お付き合いのある組織の御偉方が鬼籍に入られ、落ち着いたタイミングで偲ぶ会を催すのでと出席の御案内を頂戴した。案内状には「供花などは一切お断り致します、当

      • 夜明けの精神科病棟で茶話会を試みる

        この大量消費社会の中、消耗品はその役割を終えると買い替えの対象となる。衣服も家電も自動車も然りだろう。 でも身体の場合はそうはいかない。「心」ならば余計にである。自分で飛び込んだ海だ。沈むなら沈むだろうし、浮き上がれるのならきっと浮き上がれるだろう。そう思って精神科病棟の海に、自分から飛び込んだ。自死も出来なかったし、運命がドン底ならばこれ以上は落ちる事はないと思ったから。 病棟の朝は早い。7時頃だったと思うが、朝食には院長の総回診がある。夜勤のスタッフも緊張し、院長の後

        • 精神科病院に入院してみた話③

          「貴方がここでやるのは、休む事です。」 鍵の付いた部屋で言われた私は、本当にどうして良いか迷っていた。戸惑ったという方が正確かもしれない。そして入院が決まった段階で、主治医は「3か月以上は面倒を看ませんからね」と言われていた。つまり「入院生活は長くても3か月です」という意味だ。前にも書いたように「入院希望」をしたのは自分。でも患部が見えないのもあって、長期入院も覚悟していた。でも「最大で3か月」という医師の言葉に、疑いを持ったのも正直あった。何故か?・・・3か月で片付かない

        最終的に病気が判明し、何故か安心した話。(精神科)

          「自分を受け入れる」ということ。

          私は精神的な障害というか病を背負っている。だからと言って湿っぽい話もしたくはないし、同情されたいとも思わないので、徒然なるままに淡々と書こうと思う。 発病というのだろうか、初めて病がやって来たのは約20年前。新社会人の時のストレスが引き金だった。誰しもがストレスは持っているし、それを上手にコントロール出来れば良かったのだろうが、私は結果としてそれに失敗。サラリーマン生活にも失敗。どんどん病をこじらせてボロボロになり、最終的には実家へ戻って、地元の精神科病棟へ自ら助けを求めて

          「自分を受け入れる」ということ。

          パリジェンヌが異国で毅然と教えてくれた事

          今でこそそんな熱はないが、「自分探し」という名の熱に侵されていた若い頃に、私は日本から遠く離れた異国の地で、それに熱中していた事があった。日本では得られない経験を積みたい・・・そう思った私はフランス語漬けの日々を当時送っていた。若さ故のエピソードである。 大学時代に勉強はしていたけれど、フランス語の学習は辛いものがあった。何せ日本語とフランス語は「全く違う世界の言語」に感じられたからだ。同級生の中でブラジルやコロンビア・ベネズエラ(当時のベネズエラは裕福な国だった。社会主義

          パリジェンヌが異国で毅然と教えてくれた事

          ミャンマーに着くや否やビックリした話。

          夕暮れのバンコクから1時間あまりでヤンゴン・ミンガラドン国際空港に着陸した。もうすっかり日が暮れていた。涙は乾いていた。他の乗客と共にボーディングブリッジからターミナルビルへ進む。入国審査場では「ミャンマー人と外国人その他」にカウンターが分けられるのだが、日本語を話す大学生位の若者の一行がミャンマー人用の列に並んで係員に咎められていた。見ていて微笑ましい。外国人用の列に並んでカウンターでパスポートのみ差し出す。入国書類は無かった。30秒も経たぬ内にパスポートは返却された。普通

          ミャンマーに着くや否やビックリした話。

          「我が家の戦後」がやっと終わった話①

          今、NHKの朝ドラでは「昭和を代表する作曲家」の戦争時代の話が放送されているらしい。私はTVを観ないのだがネット等で反応は見聞きする。 我が家も実は「戦没者遺族」だ。御先祖様の遺影の中に「軍服姿の若者」が居る。実際に会った事はない。何故ならその若者は日本の遥か彼方で散華してしまったからだ。遺影の中には「当事者の家族」が並んでいる。しかしながら生前、私がその事について全く本人達から聞いた覚えがないのである。逆に学校では「平和教育」と称して、左翼的な先生達が過去の日本の蛮行を、

          「我が家の戦後」がやっと終わった話①

          「気分屋的に生きれば気分は安定する」と諭された話

          入院した末に双極性障害だと診断されて私は心底、ホッとした。病名が分かった以上、服薬を欠かさずに守っていれば、散々悩まされていた症状は、少なからず安定するだろうと思ったからだ。実際に「私の躁の部分」、気分が矢鱈にハッピーになってテンションが爆上がりし、不眠不休になって喋り続けたり、お金を借りまくって使いまくる形ではなく、心の中ではいつも不快で不機嫌で、まるで活火山をいつも持っているような・・・「どのタイミングでマグマが勢いよく噴火するかもしれないという憂い」は、薬の服用で暴風を

          「気分屋的に生きれば気分は安定する」と諭された話

          そ・う・きょ・く・せ・い・しょ・う・が・い??

          「倉田さんはうつ病じゃないですね。・・・双極性障害です。」 私が休んでいる間に主治医が見抜いた、私を長年にわたって苦しめていた本物の病巣。皆さんならば病気を宣告されて、如何思われるだろうか?正直な所を言うと、「双極性障害って何?」という疑問もあったが、取り敢えずは長年の懸案が払拭されて安心した。今までは「重度のうつ病です」と言われて、抗うつ剤を飲んでいるにも関わらず、全く薬の効果が出なかったからだ。ハッキリ言って「通っている医者が藪医者か?」とも思った。うつ病の薬を飲んで症

          そ・う・きょ・く・せ・い・しょ・う・が・い??

          「休む事」を「鍵のかかった部屋」で改めて考えてみた話

          窓の外には山が見える。でもここは旅館ではない。窓には格子が付いている。2月だと言うのに温かい毛布がある訳でもなく、洋服で調整してセーターを着込んでいる。御丁寧にここは夜の10時が消灯時間。冷え冷えする部屋だ。 「倉田さんの目標はしっかり休息する事です。」 そう主治医から言われてしまい、禅問答のようでただ、困惑するしかなかった。枕元の私の名札には「睡眠チェックシート」と「入院目標」とやらが書き込まれている。毎日、前日はどの位、眠れたか?を色付のマーカーで塗っていく。「休息に

          「休む事」を「鍵のかかった部屋」で改めて考えてみた話

          鍵の奥の部屋の心優しき人の話

          病院に行けば沢山の科があるが、「精神科」と聞いて一般の方は、どんな印象を抱くのだろう?「神経科」「心療内科」「メンタルヘルス科」など色々と呼び名はあるけれど、やっぱりネガティヴな印象なのだろうか。 自分も発症する迄はそうだった。だから世間の印象は多少分かる。ただ時代が進むにつれて、ストレス過多な時代がずっと続いてきた。ただ他科と違って患部が見えない。大概の治療では患部はレントゲンなりCTなり内視鏡で見える。しかし精神科はそうはいかない。精神科医は「診察室での何気ない会話や患

          鍵の奥の部屋の心優しき人の話

          入ってきて人生と叫び、出ていって死と叫ぶ。

          精神科病棟の話を続けようと思って、あれこれと頭の中で考えていたら、或る有名な若手俳優の訃報が飛び込んで来た。色々と物申す御仁もいらっしゃるだろう。色々と物申すのは勝手ではあるが、一端に物申すにも礼儀作法は守らねばならないし、同時に品位をも欠いてはならないと思う。 誰しもが「自分の人生に嫌気が差す事」は絶対にある。人生が順風満帆では決して無いし、むしろ「苦労が絶えない人生」が多かったりする。勿論、隣の芝生がより一層青く見える事もある。しかし隣の芝生の青さが「本当か?」と言われ

          入ってきて人生と叫び、出ていって死と叫ぶ。

          精神科病院に入院してみた話②

          他科での入院と違って精神科での入院は、簡単に言って3つのパターンがある。任意入院、医療保護入院、措置入院だ。私の場合は「任意入院」だった。もはや自宅に居てもどうしようもない、家族も私の扱いに疲れてしまってどうしようもなかった。横になって死ぬ事ばかりを考えていた。ここまで行けば何処に居ようがドン詰まっている。追い詰められた私も家族も、切る最終カードは「入院治療」しかないと、入院出来る精神科病院を紹介して貰ったのだ。だから「自分の意思で入院した側」になるので、形式上は「任意入院」

          精神科病院に入院してみた話②

          精神科病院に入院してみた話①

          「倉田さぁ~ん!御飯ですよ!」 ウトウトしかかっていた。でも看護師さんの言葉にふと我に返る。・・ここは我が家じゃないんだ。目の前には御飯、焼き鮭、モヤシの和え物、味噌汁の御膳が運ばれて来た。食欲はあまり無い。でも子供時分からの性分からか全て頂く。病院食にしては美味しいのだが、あまり美味さや有難みは感じられない。否、感じる余裕すらない。 「私、何したら良いんですかね?」 御膳を運んで来た看護師さんに訊いてみた。すると・・・ 「何をしたらって言われてもねぇ。ただゆっくりし

          精神科病院に入院してみた話①

          「自分探し」をそれなりに考えてみる

          カナダの西海岸、バンクーバーという街がある。太平洋を隔てて遥か向こう側には、この日本がある。その近郊のバーナビーという町で、暮らしていた事があった。バンクーバーという街は魅力的だが不思議な街で、半分以上は「アジアに浸かっているような街」だった。実際に香港からの移民が多くて「ホンクーバー」とも言われていたし、バンクーバーの中心街には韓国や日本の食材屋やスーパーがあった。今はなくなったそうだが日本の本屋まであった。 日本から沢山の若者が来ていた。英語が話せない!なんていう子も結

          「自分探し」をそれなりに考えてみる