入ってきて人生と叫び、出ていって死と叫ぶ。

精神科病棟の話を続けようと思って、あれこれと頭の中で考えていたら、或る有名な若手俳優の訃報が飛び込んで来た。色々と物申す御仁もいらっしゃるだろう。色々と物申すのは勝手ではあるが、一端に物申すにも礼儀作法は守らねばならないし、同時に品位をも欠いてはならないと思う。

誰しもが「自分の人生に嫌気が差す事」は絶対にある。人生が順風満帆では決して無いし、むしろ「苦労が絶えない人生」が多かったりする。勿論、隣の芝生がより一層青く見える事もある。しかし隣の芝生の青さが「本当か?」と言われたら、そうでなかったりも往々にしてある。平家物語や方丈記が書いている様に「世の中も人生も諸行無常」なのは21世紀に突入し、テクノロジーが世界中で権勢を振るう令和の時代も同じだ。所詮は人生なんぞ儚いものだ。

禅僧である南直哉氏は「死にたい事と生きているのが嫌だという事は別」「死にたい人の本音は生きているのが嫌だという事だ」と説く。そして「自裁を選ぶ人は全て分かってやっている」とも仰っている。どれだけ残された人が自責の念に駆られて嘆き悲しむのか、或いは仏教やキリスト教やイスラム教の世界では、それぞれ自裁をこう説いている・・・それでもその手段を選ぶ人は選んでしまう。絶対にその方便は「自裁する本人」へは効かないし届かないのだと。

仕方がないとは申せ私も、実際に生きていて年相応に沢山の身近な人を、哀しみと共にあの世とやらへ送って来た。病気や不慮の事故、そして自裁の人も。そして自分自身が「死にたい衝動」に幾度も悩まされて来た事もあった。「心の隙間」を一気に突けば、衝動的にその恐ろしい行動が、実行可能な事も重々分かっていた。計画的ではなく「心の隙間」に乗じて、衝動的にやってしまったとすれば、当事者たる本人も実際にあの世とやらで驚いているのではないか?と、いつも思う。率直に申して「つい魔が差した瞬間の唐突な行動」が、一番危険なのだ。

私が精神科病棟を退院しリハビリ活動をする中、仲良くなった方が居た。歳は親よりも上の世代、だが馬がよく合った。色々な事を語り合って、人生の話を沢山した。私も症状が軽快し会う機会が減って来て、暫くして久し振りに連絡を取ろうとしたが、一向に連絡が取れなくなった。

・・・おかしい!

よくよく調べてみると、その方は数カ月前に亡くなっていて、間もなく初盆を迎えるという。慌てて御家族に連絡を取って、後日、背広姿に黒ネクタイを締めて弔問へ伺った。夏の暑い午後だった。出迎えてくれたのは遺影になったその方だった。香典をお渡しして挨拶して失礼する積りが、長居をしてしまい亡くなる迄の経緯を聞く事が出来た。結論から言うと、自裁での人生の終幕。言葉が見つからなかった。あれだけ仲良くさせて貰った人が、あれだけ常識も知識も礼儀作法も心得ている方が、自分で人生を「強制終了」させてしまったのか!と。自分も自分を激しく責め立てた。「あれだけ助けて貰って世話になった人じゃないか!何でお前はみすみす、その人を助けられなかったのか!」と。

「ソクラテスの弁明」という歴史的な本を御存じだろうか?ソクラテスではなくプラトンが書いた本なのだが、ソクラテスが「悪法もまた法なり」の言葉を遺して、自ら服毒してその人生を終えたとする逸話は有名だろう。「悪法も法だから守らねばならぬ」ではなく、本意としては「悪法も法だから悪しき為政者が執行するだろうが、私は悪法から逃げようと脱獄するのは面倒だ。その悪法を適用してサッサと私を殺してくれ。自分はあの世とやらで先に旅立った旧友と語らいたいのだ!」という事のようだ。

私は霊感も無いし、神仏や御先祖様に対しての信心はあるが、オカルト的なものには興味がない。しかしあの世とやらには私も必ず行く時が来るし、御先祖様をはじめ愛する家族や旧友も、向こうの世界には確実に居る。

生きているという事、死ぬという事は表裏一体だ。金が大事、名誉が大事、女(男)が大事、仕事が大事・・・「何が大事か?」は色々といらっしゃるだろう。そこは十人十色で結構だが、何とか生かされている実感が凄くする私には、生きている事が一番大事だと個人的には身に沁みて思うのだ。そして「ソクラテスの弁明」の真意を思い出す。

私が自分の人生が終わる時、愛する家族や旧友と再会出来るだろう。人生の一番底だった時を、一緒に過ごした方ともきっと会える。その時に私は自分の言葉で相手にしっかりと言おうと思っている。

「私は貴方の分まで一生懸命、生きたんですからね!見てたでしょ!」

人生には「死にたい」と思う時もある。心が折れそうな時もある。それはその人が悪いのではなくて、「元気を出せ!」と必死にハッパをかけて励ますよりも、何も言わずにその人の背中を、優しく摩(さす)ってあげる方が良い事もある。

「目に見えない事だけれど絶対的に重要な事」が死だと、南氏は言う。

大いに「一度しかない自分の人生」を生きて欲しい。それが「生けとし生きる者が背負う業」なのかもしれない。光と陰を抱えて生きながら、キツイ時には休んだって良いのだ。例えそれが無様に見えようとも、一生懸命に乗り越えて走り抜けていれば、きっとそれが「真理」であり「正解」なのだろうと私は思うのだ。

将来を嘱望されていた若手俳優であれ、誰であれ、「心の隙間」の一瞬に自裁の行動を取ったのには、本人なりの言い分や理由はある。誰にも見せられない、生き辛さを他者から見られないようにして、率直にその伝えられない苦しみを抱えていたのも事実だろう。

それでも生きて欲しかった。少なくとも「生きようとする選択」に、全てを賭けて欲しかった。仮にも今が「人生の一番底」だとしても、何れはそこから這い上がれるし、もう一度「新しい人生」を生き直す事だって出来る。

開高健曰く「入ってきて人生と叫び、出ていって死と叫ぶ。」

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