夜明けの精神科病棟で茶話会を試みる
この大量消費社会の中、消耗品はその役割を終えると買い替えの対象となる。衣服も家電も自動車も然りだろう。
でも身体の場合はそうはいかない。「心」ならば余計にである。自分で飛び込んだ海だ。沈むなら沈むだろうし、浮き上がれるのならきっと浮き上がれるだろう。そう思って精神科病棟の海に、自分から飛び込んだ。自死も出来なかったし、運命がドン底ならばこれ以上は落ちる事はないと思ったから。
病棟の朝は早い。7時頃だったと思うが、朝食には院長の総回診がある。夜勤のスタッフも緊張し、院長の後を付いていきながら、患者の状況を説明する。院長はそれぞれの部屋を回り、「おはよう!どう?眠れた?」と一人一人に声を掛けて、患者の状態を確認し別の病棟の回診へ去って行く。時間差で副院長から、各医師まで総回診へやって来る。
今にしてみれば有難いのだが、入院している当初は「勘弁してくれ」という感じだった。理由は至極簡単で、朝は抑うつが酷くて起きられなかったのだ。ロクに朝の挨拶が出来る状態ではなかったのも恥ずかしい事だが、病院としては「コイツを蝕んでいる病巣は何だろうか?」と、物凄い専門的なチェックアップが進んでいたのだろうと思う。
「すみません、朝、起こさないで下さい。」
ビジネスホテルの部屋のドアではないが、紙にマジックでこう書いて貼り付けていた事もあった。毎日、回診があるのに。冷静に思い返せば、変な話だが。
朝、自然に起きられない・・・これも立派な謎を解くカギではあったようだ。入院したての頃は睡眠も安定せず、夜明け前に目が覚めてしまった時もあったのだが・・・。
寝静まった病棟の中で、患者が皆で集まって食事をしたり、昼間を過ごすリビングのような空間にボーッと立っていると、ヒソヒソ声で・・・
「アンタ、寝られないの?」
同じ患者仲間の老婆に声を掛けられた。「はい」と囁き声で返すと・・・
「アタシもそうなんだよ。ちょっと待ってな。」
そう言うと老婆は自分の部屋に戻って、インスタントコーヒーの瓶を持って戻って来た。私もマイカップを持って来る。
ヒソヒソと話をしながら茶話会を始めたのだが、夜勤の当直スタッフに見つかってしまい、烈火の如くに怒られて茶話会は強制終了となった。主治医には直ちに報告が上がったようで、「コーヒーは昼間にゆっくりとどうぞ」と笑顔で釘を刺された。
今でもインスタントコーヒーの瓶をスーパーで見かけると、眠れない者同士の未遂に終わった茶話会を、ふと懐かしく思い返すのだ。
「アムステルダムの朝は早い」とは某コーヒーメーカーのCMでのキャッチコピーだったが、アムステルダムに負けず劣らず、精神的に傷付いた人たちの朝も早かったのだ。
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