「気分屋的に生きれば気分は安定する」と諭された話

入院した末に双極性障害だと診断されて私は心底、ホッとした。病名が分かった以上、服薬を欠かさずに守っていれば、散々悩まされていた症状は、少なからず安定するだろうと思ったからだ。実際に「私の躁の部分」、気分が矢鱈にハッピーになってテンションが爆上がりし、不眠不休になって喋り続けたり、お金を借りまくって使いまくる形ではなく、心の中ではいつも不快で不機嫌で、まるで活火山をいつも持っているような・・・「どのタイミングでマグマが勢いよく噴火するかもしれないという憂い」は、薬の服用で暴風を伴った大荒れだったのが、ピタッと収まった。勿論、ゼロではないにせよ、そのリスクは大幅に軽減されたと思う。つまり薬が私の身体に明確にヒットしている証左だろう。

主治医からは2つの事をアドバイスとして貰った。1つ目は「この病気を病気としてではなく、遺伝から来る体質だと思った方が良い」という事、2つ目は「物事に取り組む時に半分でも手を付けられたら上出来だと自分を褒めてあげる」事。

うつ病と躁うつ病(今では双極性障害と呼ばれているが)は、「うつ」という観点では同じなのだが、精神科では「治療のアプローチや扱い方が全く異なる病気」だそうな。うつ病になる人は「頑張り屋さん」がなる病気で、躁うつ病は「根っからの気分屋さん」がなる病気らしい。

うつ病はいつか治る事もある。しかし躁うつ病の場合は「生涯にわたって服薬をしておいた方が良い」という。「うつ病を克服した!」という「壮絶で貴重な成功体験」を持つ方が個人的に非常に羨ましいのは、今はもう薬は飲んでいないという事ではないかと思う。対して躁うつ病の場合は生涯にわたって服薬した方が良いそうで、断薬してしまって症状が再びぶり返してしまった時に、薬が効きにくい可能性すらあるという。私は発病から入院まで7~8年程、苦しめられたので自分の寿命はいつ迄あるのか分からないが、薬を飲み続けねばならない覚悟はしなければならないようだ。だから主治医は「体質だと思って欲しい」と言ったのだろう。一時的な病ならば「もう薬は飲まなくて結構ですよ」と言えるタイミングがある訳だが、この病はそうは言えないのである。またこの病は「自殺率が極めて高い」そうで、衝動的にそんな極端な手段を択ばぬように、服薬は欠かせないという事でもあるらしい。自殺する行為は一瞬だろうが、行為の取消はやってからでは効かない。

2つ目の「物事に取り組む時に半分でも出来たら上出来だと自分を褒める」、これは1つの事をコツコツやるのが出来ない訳ではなく、苦手な人が躁うつ病患者には総じて多いのが特徴だからだと言う。つまり極端な事を言ってしまえば、新社会人になって「会社勤め」をするのも、性に合っていない事になる。しかし「気持ちにムラがある気分屋」なのだから「会社行こうかな?行くの止めようかな?」位のメンタリティーな訳で、自分の気持ちを押し殺して「ただ只管にコツコツと頑張る精神」を発揮すれば発揮する程、元々ある心の中のふり幅が更に大きくなって体調も崩すし、精神的にも悪化するようだ。振り返ってみれば私も実は、新社会人は知らず知らずのうちにそうだった。社会通念上は「一生懸命に自己犠牲も厭わずに働く」のがこの国の美学であり当然の道理な訳だが、躁うつ病患者には「体調と精神を悪化させる原因」でしかなかった訳だ。勿論、物事を半分しかやり遂げていない人間に対しては、社会からの信用度は限りなく低かろう。しかし精神医学の観点から躁うつ病の患者を見れば「よくそこまで出来ましたね!」と評価される程の事だろう。1つの事をコツコツ地道にやって行くと、ふと隣の事も気になりだす。そちらにも手を出そうとする。元々、気分のふり幅があるのだから仕方ない。メカニズムとしては「不自由な環境」に身を置くと、更にふり幅が大きくなって体調が悪化する。私が飲んでいる薬は要は「気分の感情を小さくする薬」なのだ。

「気分屋的に生きれば気分は安定する」、これは日本の精神科で有名な名医の双極性障害の患者や、それを診る臨床医に対しての言葉だそうな。躁うつ病の有名人は昔から数多く、並行して幾つかの絵を描いていたパブロ・ピカソや、英国の宰相だったウィンストン・チャーチルなどは有名だろうと思う。

ここで腹を括った。服薬を欠かさず無理をしなければ、多少の体調の波はあるけれども、点滴をしたり入院したり迄の体調悪化は防げる。

「無理はしないように。ギリギリまで頑張らないように。」

社会通念上は極めて邪道なのは承知の上。でも「気分屋的に」生きようじゃないか・・・そう私は決めたのだ。自分を護るためにも。

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