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道は無窮なり 根源的無知あるいは原罪の彼方 増補決定版

究極的に「この私の持続」を保証するものは存在しない。だからこそ道元は「道は無窮なり(始まりも終わりもない)」「修証一等」(修行と悟りは一つ)と言った。 

There is nothing that guarantees the ultimate or permanent "continuation of this I. That's why Dogen said "the way is infinite" (there is no beginning and no end) and "修証一等" (practice and enlightenment are one). 

「無窮」つまり窮め尽くせない。また道元は「自己の自己にある、模索及ばず。(自己が自己であることはどんなに模索しても窮め尽くせない)」とも言った。

まさにそれこそが仏陀の端緒の洞察=出発点。無明(根源的な無知)とも言われる。ソクラテスの端緒の洞察=出発点(無知の知)でもある。そしてまさにこれが「原罪」なのだ。

私はこの事態を90年代以降<Zero-α>(ゼロ-アルファ)と表記している。「-」は「隙間=裂け目」に「アルファ(=α)」は「1」に対応する。 <私>は0と1の間(隙間=裂け目)で不断に振動(言わば量子揺らぎ)している。

附記1 哲学と思想の決定的な差異 デカルトの『省察』

ほぼ思考実験の過程のみで書かれたデカルトの『省察』は西洋哲学史上類例なく稀有。真の哲学書かもしれない。思想哲学の決定的な違いをここまで鮮やかに示していると生涯忘れられない出来事になる。 

この思想と哲学の決定的な違いは言葉にすると単なる(行為それ自体ではなく対象化された)思想になってしまうから言語化不可能なはずではないか? それが言葉または言語の恐るべき力。つまりデカルトが『省察』を「書いた」ということそのものが一種の奇跡なのだ。

かつて私が大学院で実川敏夫氏のラテン語原書ゼミ受講時に読んだデカルト『省察』の三木清訳がまだ存在していた。2022年09月22日朝方、25歳以来実に久々に『省察』の全体を通読し読了した。やはり「連続創造説」(あるいはその土台の公理的レベル)が決定的に枢要な問題だ。永遠の探究課題だろう。

デカルトの「連続創造説」

以下を参照。
デカルト『省察』(三木清訳)「公理あるいは共通概念」から引用。
「現在の時は最近接的に先行する時に依存しない、従ってものを維持するためには、それを初めて作り出すためによりもいっそう小さい原因が要求せられるのではない。」

デカルト『省察』第三省察から
「私の生涯の全時間は、そのいずれの個々の部分も余の部分にまったく依存しないところの無数の部分に分たれ得るゆえに、私が少し前に存したということから私が今存しなくてはならぬということは、この瞬間に或る原因がいわばもう一度私を創造する、言い換えると私を保存する、のでない限りは、帰結しない。」

承前 『省察』から
「時間の本性に注意する者にとっては、何らかのものがその持続する個々の瞬間において保存せられるためには、そのものが未だ存在しなかったとした場合、それを新たに創造するために必要であったのとまったく同じだけの力と働きが必要であることは、明白である。」


附記2 言語 数 線――この私の持続を巡るツイートアーカイブ

@bDPDRBcbp5aTwZ4 この数学の3大潮流は現代では代数学と解析学(デカルトによる解析幾何学創出以降幾何学を統合してリーマン幾何学等へと至る)の2大潮流になっていることはご存知だと思いますがこれに関して長沼伸一郎氏の著作に関する私の過去ツイートをご参照ください。

このスレッドです。

さらにこれが元スレッドです。

言語と数(代数学へ)と線(解析学へ)という三者関係は3体問題で究極的問題ですので例えばカントは直観と概念の2領域を峻別した上で超越論的図式機能という媒介する「力のレベル」を考えました。しかし「この私の持続の根拠」という基底問題は上記3体問題と本質は同じ究極問題です。

代数学(線形代数に発展)はイスラム文明が担い解析学はキリスト教文明が担いましたが長沼伸一郎氏は両者のより高次な統合の必要を提唱し自ら目指しています。なお長沼氏は線形代数の作用マトリクスの「2行2列化」という「特殊化=2体問題化」が解析学を創出させたという唯一無二の天才的洞察を述べています。

この創出はもちろん時系列的な事態という意味ではなく先取り的にデカルト座標と微積分以降の解析学が2行2列化という特殊な自己限定=2体問題化を遂げることで成功したと長沼氏により洞察されたということです。

プラトンの(典型的には円・三角形・正多面体=プラトン立体等の幾何学図形の)「想起」は図式化機能です。概念的言語的理解を先導しますがカントによればモノグラム=組合せ文字も図式です。空海は梵語の阿字瞑想等に見られる様に図式化の決定的な枢要性に気づいていました。

また日蓮は「南無妙法蓮華経」を自ら様々なスタイルで図式化つまり曼荼羅というグラフィックアートにして描き大衆に広めました。彼も図式化機能の枢要性への洞察という点で実は空海(やはりその起源は梵我一如)の系譜です。

参考 日蓮 大曼荼羅 引用「日蓮門下の諸派に於ける法華曼荼羅は、日蓮が末法の時代に対応するために、法華経後半十四品(本門)に登場する、如来、菩薩、明王、天などを漢字や梵字で書き表した文字曼荼羅である。」

参考 空海 阿字観 

∫⅁ʎo→E𓉡f(RJBMSs𓄁ⅣZフI<北/𓆉𓃌)#LoveSongを探して#超界戦@ps62next
@XlGjfmYpCchopJ6 全然わからないですが、(ええです。
宇宙は無から始まったとしても概念は、無より前にありますよね?
例えば数とか。

@ps62next それこそ究極の問いですね。素晴らしいです。リーマン予想での素数分布がなんと量子揺らぎのエネルギー分布に対応するという驚異的な予想(オドリズコモンゴメリー予想)があります。


上記記事から引用
<私>を唯一絶対的始原点とするかという特異点の問題と実は切り離せない特異点の扱いを巡る物理学(量子重力理論)も形而上学。ホーキングは虚時間の導入により特異点=宇宙開闢点を回避しペンローズは宇宙の開闢点と終局点を循環的に繋げている。問題発見は永井哲学の方が早いと思われる。

ホーキングとペンローズ(彼はより問題に鋭敏だったと思いますが)はそれぞれ「特異点」を処理し得たと考えていただろうから結局「問題発見」したとは言い難いという意味で。ここに永井均氏の先駆性が見られる。ただペンローズは上記の様に別かもしれない。つまり入不二基義氏の哲学とかなりアナロジカルである。

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