見出し画像

国語という大河に生きて、言葉をつかむ

ベルクソンが天才だと思うのは、特定の人や作った本人しか解らないような専門用語を用いず、日常の言葉で哲学している点にある。また、実在をありありと記述するために、直観をもって言葉を尽して語ろうとしている点にあると小林秀雄は言う。

思想と文体とは離せない。その点で、現代の日本の哲学者に小林秀雄は不満を抱いているという。論理は尽すが言葉を尽していない。観念を合理的に述べれば十分だと思い込み、定義付けさえすれば専門用語を勝手に発明しても構わないという姿勢を「思想家にとって極めて安易な道」だと切り捨てる。「私達の日常の言語というものは、長年の間人生の波風に揉まれ、人手から人手を渡り歩いている内に、自らの性格を鍛え上げているもの」だからだという。

詩人は専門語など勝手に発明しやしない。日常の言語を使う。永続する事をねがう詩という「物」を作り上げる為には、こちらの考え一つではどうにもならぬ様な手応えある材料を欲するからです。そこには文体の問題が否応なく現れる。文体を欠いた思想家は、思想という「物」に決して到る事は出来ませぬ。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p188

「物」というのはもちろん、リルケの芸術観にある、美しい物ではなく、ただつくるという「物」のことだ。日常の言葉を用い、徹底的に言葉を尽して、思想を語る。そんなベルクソンに詩人の姿を重ねるのである。

小林秀雄に、娘が国語の試験問題を持ってきて、何だかさっぱり分からないと言う。読んでみたら、なるほど悪文だと思ったが、それは自分の書いた文章だった——そんなエピソードが苦笑いを誘う『国語という大河』という作品がある(「小林秀雄全作品」第21集)。国語教科書に自分の随筆が載ったのは素直にうれしい。しかし教科書を編纂する側は、名文という言葉が過去の遺物となり、文章の体をなしているかどうか、文章の善し悪しをどう見分けるかは難しいだろうと察して言う。

文章の魅力を合点するには、だれでも、いわば内部に或る感覚のごときものに頼るほかはない。この感受力には、文体の在りかを感じとる緩慢だが着実な智慧ちえが宿っている。緩慢な智慧だから、日ごとにかわる意見や見解には応じられぬが、ゆっくりと途切れることなく変って行く文章の姿には、よく応和して歩くのである。国語という大河は、他の河床を選んで流れることはできない。そういう感受力を育てるのが、国語教育の前提であろう。

『国語という大河』「小林秀雄全作品」第21集p282

国語を、母語または日本語と置き換えてもいいし、一般化して「言葉」として読んでもいいだろう。我々は言葉という大河に生きている。言葉を感じとるというより、言葉こそ自分の肉体である。文は人なり。文体と思想は切り離せない。言葉が血や肉である。我々は言葉を生きているのだ。

(つづく)

まずはご遠慮なくコメントをお寄せください。「手紙」も、手書きでなくても大丈夫。あなたの声を聞かせてください。