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ジュンパ・ラヒリ『思い出すこと』中嶋浩郎訳

見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにするのが、詩だ。

詩人・長田弘のこの言葉が、真っ先に思い浮かぶ。

インド系アメリカ人でピューリッツァー賞作家でもあるジュンパ・ラヒリが、イタリア語への憧れを満たすために40代でイタリアに移住する。その動機やことばへの接し方をイタリア語で執筆したのがエッセイ集『べつの言葉で』。イタリア語への習熟と生活への親しみを、孤独を愛する女性を主人公にして著したのが長篇小説『わたしのいるところ』。3年のイタリア生活に一区切りをつけ、1年の半分はアメリカ、半分はイタリアという2拠点生活を送ることになった彼女が次にイタリア語で書いたのは、「詩集」だった。

ジュンパ・ラヒリがイタリアに移住しローマで暮らすことになった家具付きアパート。古く大きな書き物机のなかに数冊のノートが残されていた。表紙に「ネリーナ」と書かれたノートには、たくさんの詩が書かれている。どうやらネリーナとは20世紀半ばから21世紀にかけてローマで暮らした女性のようだ。母語はおそらくベンガル語であり、インドに旅したこともあれば、アメリカで暮らした経験もあるらしい。詩はイタリア語で書かれているが、イタリア人であれば考えられないスペルや文法の間違いがあったり、古典に由来するような語彙が用いられたりしているという。そこでジュンパ・ラヒリはアメリカにいる親しいイタリア詩の研究者であるヴェルネ・マッジョに、ネリーナの詩に対する註釈と評論を依頼する。

そんなジュンパ・ラヒリ『思い出すこと』を「読む」。

本書は、ジュンパ・ラヒリの導入と、ネリーナの詩、そしてヴェルネ・マッジョの註釈でなりたっている。ネリーナの人となりや家族構成はジュンパ・ラヒリ自身に酷似していることから、本書はあくまでも創作で、ネリーナの詩はジュンパ・ラヒリの自伝的要素が強い。ヴェルネ・マッジョがつけた註釈もジュンパ・ラヒリが考えたものだ。

初読は、ネリーナの詩の部分をすべて音読する。2回目は、かなりゆっくり黙読する。それぞれに感じること、考えることが異なり、3日間で2度「読む」という経験は、とても満たされた読書となった。

詩は、題名があるものとないものがある。テーマを示した題名に、さらに連番がつくものもある。本のなかでは、あくまでもネリーナが書いた詩。しかし、ローマにおける外国人として暮らすうえでのトラブル、幼い頃にインドに旅行し手放してしまった人形のこと、アメリカで暮らす母親が急病となり帰国して目の当たりにした父親の弱さなど、ああ、こうやってジュンパ・ラヒリという人間が形作られているのだなあと、ちょっと親しみもわく。

ただのつぶやきとして、ノートに走り書きしたのであろう詩もよい。

わたしの世話をするだけで
ほかのことはせず、
面倒をぜんぶ片づけてくれる
わたしだけの
妖精がいるなら、
必要なときに限って
逃げてしまう
ベッド脇のペンに
気を配ってほしい。

無題、p188

人は言葉なしでは思考ができない。秋になり、日々強まる朝の冷気すら、「さむい」「ひえる」といった言葉なしで感じることができない。過去20年ほど独学していたといっても、45歳で移住したイタリアで感じる朝の気配を、すぐにイタリア語で脳裏に思い浮かべるのは難しいはず。だから前作『わたしのいるところ』で主人公は、ひたすら人間を観察し、情景を見つめ、自然から受けとめたものを抽象化し、短く、素朴だが力強い言葉でつづった。見えてはいるが、誰も見ていないものを言葉で見えるようにする。ジュンパ・ラヒリがイタリア語第3作で、詩にたどりついたのは、必然だった。

第1作のエッセイ『べつの言葉で』において、ジュンパ・ラヒリは小説であれ詩であれ、現代の文学であれ古典であれ、自分が知らなかったり、こんな表現があるのかと驚いたりした言葉は、必ず辞書を引き、ノートに書き取ったという。さまざまな心情や状況を表わすための形容詞や、どう使うのかは分からないけれども気になる名詞なども、次から次へとノートに抜き書きしていく。定義集は自分で手づくりするものだという、哲学者・鶴見俊輔の言葉を思い出す。

というのも本書『思い出すこと』では、「語義」と題された、イタリア語の単語をタイトルにした詩が28篇おさめられている。そのなかの「《Perché 'P'iace》好きな理由」というのがいい。彼女がおそらく偏愛しているPのつく35の単語を用いて書いた詩で、うまいなあと感心する一方で、やっぱりイタリア語も勉強したいという気持ちにしてくれる。

《Perché 'P'iace》好きな理由

考えたり(pensare)、話したり(parlare)、
揺れたり(pendolare)、
詩を書いたりすることさえも(persino poetare)
できる(potere)から。
まさに(propria)ペソア(Pessoa)風に。
……

p83

ヴェルネ・マッジョがつけたとする註釈も、アメリカに戻ってから、ローマにいたときに書いたイタリア語の詩をみずから読み直すときに、どのような気持ちでこの詩を書いたのか、この言葉を選んだのか、元となった文献ではどう書かれていたのか、読み直して初めて気づいた綴りの間違い方など、別の外国語を使うための繊細で神経質な筋肉にしたがって、読み解いたのではないか。

詩に、真実が書かれているとは限らない。大いに虚構と演劇性を含んだ「文学」である。これまで自分の出自や「言語的な亡命」状態をテーマに物語を紡いできたジュンパ・ラヒリのことだ。茶目っ気なのか、念入りに練られた企みなのかは分からない。あらゆる表現が自画像である以上、ジュンパ・ラヒリ自身、ネリーナという謎の女性、そして研究者ヴェルネ・マッジョという3者を演じることで、イタリア語で詩を書くという営みがひとつの形をなしたのだろう。

個人全集を通読するというのは、その作家の人生をたどり、ともに生きて、ともに旅をすることだ、と信じている。しかしエッセイ集『べつの言葉で』、長編小説『わたしのいるところ』、そして詩集『思い出すこと』の3作品を通読することで、イタリア語に憧れ、学び、移住して生活のなかで触れ、アメリカに戻ってからの視点も含めてイタリア語を観る、使う、書く、というジュンパ・ラヒリの生き方を一緒にたどり、歩いているような気持ちになる。いまのところ、英語で書かれた作品を手に取るつもりはない。現在、翻訳が進んでいるというイタリア語で書かれた次の短編集が待ち遠しい。どんな表現形式であっても、見えてはいるが、誰も見ていないものを見えるようにしてくれる。


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