楢 乃梨子

楢 乃梨子

最近の記事

迷子の時代に3

ダムに堰き止められた人造湖は、湖面の間際まで緑に囲まれている。 カヤックを借りて二人で漕ぎ出すとオールから広がる波が煌めいて、水面を漕ぐ水音に誘われるように森の気配に同化していった。 康二が遠くの山を指して言った。 「あの周りより緑が濃い山が見えるでしょう。 あれは人が手入れをしなくなって荒れてしまった山なんですよ。 あの中には花も咲かない、動物もいない、人の手が入った山はもう自然のままでは維持できない、それが里山なんです。 この辺りの山も安い輸入木材に押されて採算が取れずに

    • 迷子の時代に2

      住宅地にあってそこだけオアシスのように残された雑木林にあるログハウスは、店内で焼くパンと食べ応えのあるスープ、サラダが看板メニューだった。 広々と高い天井が開放感となってゆったりとした空気を漂わせている。 何より声が反響しないのが居心地の良さにつながっていた。 「前はここが一番気に入ってたんだけど、最近ちょっと足が遠のいていたんだ。」と笑う。 「ご贔屓にしていただき有難うございます」と私も笑った。 康二と名乗った彼は何年か前に奥様と離別し、定年後の再雇用を終えて今は無職と笑

      • 迷子の時代を

        毎年のことながら、ゆっくりと桜を愛でる間もなく春は駆け足で過ぎていく。 SNSで取り上げられたこともあって、最近は遠くから佳菜子の店を目指した来店が目立ってきた。 繁盛するのは有難いのだが悪い噂も瞬く間に拡散する昨今、顔の見えない評価に踊らされたくないというのが私の本音だった。 とにかく自分達のやり方を貫くだけよと淡々と店に立つ佳菜子は私より肝が据わっている。  開店準備の1時間、二人忙しく立ち働きながらあれこれ話が弾む。 最近店に出し始めたシフォンケーキが好評で、私は生地

        • あなたの中の迷子に7

          3月、まだ冬の名残の軽井沢に出かけた。 季節外れの避暑地は人も少なく、それでもうららかな日差しがまもなく来る春を告げていた。  あれから私達はそれまでと変わらずに駅前のお店で美味しい食事とワインを楽しみ、週末をうちで過ごして、残り時間はあっという間に過ぎていった。 「最後に何処かに行かない?」と思い立って 雲場池の岸辺に二人立っていた。 新緑にはまだ早く木々は寒々と身をすくめているようでも、目をこらせば小さな新芽が芽吹き始めていた。 自然は神様との約束通りに季節を巡り、

        迷子の時代に3

          あなたの中の迷子に6

          早々と太陽が落ちた冬の夕刻、寒さに震えながら平日には珍しく店に亮輔が顔を出した。 「もうすぐ閉店だけれど、何か食べる?」 「うん、お腹空いた」 熱いカフェ・オ・レとタルト・タタンの最後の一切れを出して、私は明日の用意をしながら片付けをする。 「今日はもう帰っていいわよ、もうお客様も来ないから」佳菜子の言葉に甘えて二人で店を出た。 一緒に車に乗り込むとぽつりと言った 「3月に転勤が決まったんだ。」 移動先は東海で一番の大都会、工場での現場経験を終えて次は営業を経験させるという

          あなたの中の迷子に6

          あなたの中の迷子に5

          SNSで見つけた古民家カフェは日光街道の宿場町として栄えた町にあった。 商家の趣を残した店は自家焙煎のコーヒーに、季節の果物を焼き込んだタルトも味わい深い。 古民家カフェは店構えだけでなくドリンクやフードにもストーリーを求められる。 そろばん勘定だけでは割り切れないが、佳菜子はそのあたりの匙加減を冷静に判断できる人だ。 「ちょっと甘さが気になる、僕は典子さんのケーキの方が好きだな」亮輔が小声で言う。 確かに果物のキャラメリゼは甜菜糖あたりでさっぱり仕上げてあるが、アーモンド

          あなたの中の迷子に5

          あなたの中の迷子に4

          「本当は毎日でも会いたいんだけど」 「そんなことしたら私死んでしまうわ」と笑う。 週末をうちで過ごすようになって、金曜日の夜からのこともあれば日曜だけの時もあった。  時々は駅前の店で待ち合わせることもあったが、 週末の楽しみにと亮輔はケーキをねだる。 育ち盛りの息子がいるみたいに作り甲斐さえ覚て、最近ではあれこれと感想を聞くのを参考にしていた。 190世帯もあるマンションでは玄関ホールで顔を合わせても互いに干渉することはない。 悪びれずに二人で出入りしているためか管理人にも

          あなたの中の迷子に4

          あなたの中の迷子に3

          圭一と比べてはいけない。 そう思いながら私の体は応えていく。 若い彼は最初は遠慮がちに、やがて抑えきれない力のままに私の中であっけなく果てた。 思わずクスッと笑った私に 「ごめん」 とまた彼は言った。 「許してあげるから手伝ってね。」 私は果ててしまった彼の体を口に含んだ。 やがて若い体は幾分抜けはしても力を取り戻し、私はもう一度彼を迎え入れた。 ゆっくりと私の体は彼を包み、そのまま永遠が続くかのように幾度も刹那を超えていく。 その度に走馬灯のように記憶がよぎる。 それは圭一

          あなたの中の迷子に3

          あなたの中の迷子に2

          最初は何を言っているのか理解できてなかった。  冷蔵庫にはいつもの白のワインが冷えているし、高級スーパーで奮発したチーズもあったっけ。 まるで久しぶりに帰ってきた息子のために、みたいな思考が回りはじめた。 いや、それでもこのシチュエーションはちょっとおかしいかもと見返した顔には、ちょっと緊張したような表情が浮かんでいる。 親より年上の私を?といぶかると同時に、勇気を振り絞った若さが可愛く思えた。 「ちょうど冷蔵庫にワインが冷えているから、ちょっと飲んでいく?」 私はオートロッ

          あなたの中の迷子に2

          あなたの中の迷子に

          近所にお気に入りの店を見つけた。 駅から近いビストロは、仕事帰りにふらっと立ち寄って軽い酔いのまま歩いて帰れるのが嬉しい。 都内でフレンチの店をやっていたマスターのアラカルトは味も盛り付けも申し分無く、値段ごとにグラスでサービスされるワインも外れることはない。 空いている時はカウンター席の隅でマスターからレシピを教えてもらうのも楽しみだった。 その日は珍しく隣に居合わせた若い客と話し込んでしまった。 横浜生まれの亮輔は大学卒業後に大手企業に就職し、最初の赴任先がこの近くにあ

          あなたの中の迷子に

          私の中の迷子12

          どんなに泣いて悲しみに壊れてしまいそうな日が続いても、私は死ななかった。   一日泣き続ければ、やがて空腹感に気がつく。 何かあるものでお腹を満たしてベットに潜り込むと、過ぎた日がもう取り戻せないことに押しつぶされそうになってもいつのまにか眠りに落ちた。 そしてカーテンの隙間からは光が差し込んで、 いつものように朝が来る。 ドアのインターホンが来客を知らせて、娘の姿がモニターに映っていた。 「お母さん、生きてる?」 ドアを開けるなり私の顔を見て言った。 「なんだか半分死んで

          私の中の迷子12

          私の中の迷子11

          鳴らない携帯を握りしめて、再び鳴るのを待っているのか恐れているのかもわからない時間が過ぎていく。 5日目に耳慣れた受信音が鳴った。 すぐに携帯をとって耳をそばだてた瞬間 時間が止まった。 浩輔の声だった。 「今朝、眠ったまま逝きました。 あいつが最後まで穏やかでいれたのは典子さんのおかげです。有難うございました。」 病院のそばにある小さな葬儀場で仲間内だけの式にするからと日時と場所を伝えて電話は切れた。 そのまま声も出ず携帯を握りしめていた。 高い空に薄くはいたように雲が

          私の中の迷子11

          私の中の迷子10

          二人が出会ってから三つ季節が過ぎて、街は初夏の空気に満たされていた。  銀座は相変わらず華やかに彩られている。 テラス席にキラキラ降り注ぐ光の中でランチのサラダを食べながら 「そろそろ入院できることになったよ。」 まるで旅行に行くように圭一が言った。 緩和ケアで有名なA病院のベットが空いたのだ。 それは誰かが召されて、圭一の番がきたということでもある。 次の段階に進んでしまったという悲しさと共に、やっと安心して体と心を委ねる場所に圭一が行けることに少しほっとする。 最近は痛み

          私の中の迷子10

          私が中の迷子9

          時間はゆっくり、確実に過ぎていく。 少しづつ変わっていく圭一を丸ごと受け入れると覚悟していたはずなのに、会うたびどこかに兆しが始まっていないかと無意識に探してしまう。 それは誰のための恐れなのか、ただ失いたくないというエゴだけではないのか、その苦しさに押しつぶされそうになっても逢いたい思いは真実だと思いたかった。 いつものレストランで食事をしながら二人の日常の話で他愛もなく笑う時間。 いつものホテルで残された時間を惜しむように求め合い慈しみあう時間。 二人にとってかけがえのな

          私が中の迷子9

          私の中の迷子8

          冷たく冷えたビールが沁みるより早く、胸に広がる不安が湯上がりの火照りを冷ましてしまった。 窓際の藤椅子に座りビールを一気に飲み干す圭一を見ながら、私は待っていた。 視線を感じているはずなのに、窓の外を見たまま沈黙が続く。 思い切ったようにこちらを見直して静かに告げた。 「癌なんだ…最初に話さなくてごめん…」 華奢に思えた体がここのところ少しずつ痩せてきていると気づいてはいた。 「この病気は治ったように体調が良くなる時期があるらしくて、君と会ったのはちょうどそんな時でね。 先月

          私の中の迷子8

          私の中の迷子7

          「先に食事を済ませておいた方がいいからね」 祭りの喧騒がまだ遠い町外れで車を停めた。 店はカウンター席とテーブル掛けが3席だけで、何を食べても美味しいというのが伝わってくる。 顔馴染みらしいやりとりのうちに二人は奥のテーブル席に案内されて、予想を違えない料理とお酒にすっかりいい気分になった。 店に車を置かせてもらい配車を頼んだタクシーに乗り込むと、すぐにいくつもの山車が夜の闇に浮かんでいるのが見えた。 一つ一つの山車は総漆塗りに豪華な装飾が施され、小さな舞台の上では着飾った

          私の中の迷子7