見出し画像

あなたの中の迷子に

近所にお気に入りの店を見つけた。
駅から近いビストロは、仕事帰りにふらっと立ち寄って軽い酔いのまま歩いて帰れるのが嬉しい。
都内でフレンチの店をやっていたマスターのアラカルトは味も盛り付けも申し分無く、値段ごとにグラスでサービスされるワインも外れることはない。 空いている時はカウンター席の隅でマスターからレシピを教えてもらうのも楽しみだった。

その日は珍しく隣に居合わせた若い客と話し込んでしまった。
横浜生まれの亮輔は大学卒業後に大手企業に就職し、最初の赴任先がこの近くにある地方工場だったので、平日は工場と下宿を往復するだけの生活では土日の楽しみがこの店だと笑った。
高校時代は伊勢崎町あたりが遊び場だったと言ったはなから、親に叱られるから夜の街をうろついたことは無かったと慌てて付け足す様子に、多分やんちゃもしてたんだろうと笑ってしまった。
仕事のこと、同僚のこと、親より年上の私と不思議に話がはずんだ。

最近私は知り合いの店を手伝っている。
この辺りで代々続く家に育った佳菜子は実家の一部をカフェにしている。
古民家再生を得意とする建築士に頼んだ空間は折しもの古民家ブームに乗って評判だった。それでも、この辺りにはそれなりに時代を経た民家が残っていることもあって、競争相手には事欠かない。
客として通っていた私は佳菜子と気が合って、メニューの相談に乗ったことをきっかけにキッチンを手伝うようになった。 試しに焼き菓子を出してみると思いのほか好評で、今はカフェで出すケーキも焼いている。
娘の一歳の誕生日からずっとケーキを焼いてきたことを特別なことだと思わなかったが、誰かに喜んでもらえるのは嬉しかった。

「典子さんのケーキ食べてみたいな」
もし私にも息子がいたら同じように毎年焼いていただろうなと思いながら、カフェの名前と場所を教えた。 そろそろ閉店の時間となるまで飲んで食べて、すっかりいい気分で一緒に店を出た。
「送っていくよ」
「大丈夫、すぐ近くだし、こんな年寄り誰も襲わないから。」
「そんな事ない、典子さん綺麗だし、このまま一人で帰すのは心配だから。」
時間はそろそろ12時を過ぎようとしていた。
夜が早く人影もない町はもう眠りについている。
肩を並べて歩いていると指を絡ませて手が握られた。 思いもしなかったことに体が固くなる。
マンションの入り口に着くと彼は言った。
「もう少し飲みたいな」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?