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私の中の迷子7

「先に食事を済ませておいた方がいいからね」
祭りの喧騒がまだ遠い町外れで車を停めた。
店はカウンター席とテーブル掛けが3席だけで、何を食べても美味しいというのが伝わってくる。
顔馴染みらしいやりとりのうちに二人は奥のテーブル席に案内されて、予想を違えない料理とお酒にすっかりいい気分になった。
店に車を置かせてもらい配車を頼んだタクシーに乗り込むと、すぐにいくつもの山車が夜の闇に浮かんでいるのが見えた。

一つ一つの山車は総漆塗りに豪華な装飾が施され、小さな舞台の上では着飾った少女が芝居や踊りを披露していた。聞けば各町内で選ばれて一年は稽古に励むのだそうで、秩父が豊かな文化を持つ街だということが見て取れる。
「秩父は昔から絹織物とセメントで栄えたんだ。うちは明仙染めの工場をやってたのが戦後傾いて今は誰も継いでいない。僕も高校で都内に下宿してからずっと東京暮らしなんだけど、最近になって無性に帰りたくなるのはやっぱり年のせいなのかな〜」
各町の山車を巡りながら私に故郷の思い出話をしてくれる優しさが、何故か胸苦しい。
その時夜空に花火が上がり爆音と共に6基の山車と笹鉾を明るく照らし出した。 
人波が続く祭りの只中にいるのにスクリーン越しに見ているようで現実とは思えない、夢の中を漂っているようだった。

「明日は山車の引き廻しがあるからそろそろ引き上げよう。」車は代行サービスに頼んだからと、またタクシーを拾って旅館に向かった。
秩父温泉の中でもH旅館はよほどの伝手でも無ければこの時期の予約は難しいとわかる老舗旅館だった。 祭りの興奮を連れて次々と到着する客に対しても丁寧に心配りできるスタッフが揃っているのは、建物だけでは測れないこの宿の格のようなものが感じられる。 案内されたのは広々とした和室にツインベットの洋室がついているスタンダードな部屋だったが、寝具や備品はいきとどいて気持ちがいい。
衝立で仕切られた小さな庭にある露天風呂で、圭一の体に背中を預けたまま夜空を見上げると、先程までの祭りの喧騒がウソのようにあたりは静まりかえっていた。

風呂上がりに頼んだビールを待つ間も、打ち消そうとしても不安ばかりが積み重なっていく。 心の準備だけはしておこう、私は小さく息を吐いた。

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