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迷子の時代を

毎年のことながら、ゆっくりと桜を愛でる間もなく春は駆け足で過ぎていく。
SNSで取り上げられたこともあって、最近は遠くから佳菜子の店を目指した来店が目立ってきた。
繁盛するのは有難いのだが悪い噂も瞬く間に拡散する昨今、顔の見えない評価に踊らされたくないというのが私の本音だった。
とにかく自分達のやり方を貫くだけよと淡々と店に立つ佳菜子は私より肝が据わっている。 
開店準備の1時間、二人忙しく立ち働きながらあれこれ話が弾む。

最近店に出し始めたシフォンケーキが好評で、私は生地とクリームの組み合わせにハマっている。 昔から数えきれないほど焼いてきたが、今でもケーキ生地をオーブンに入れる時はドキドキする。
卵、粉、砂糖とオイル、ほぼこれだけのシンプルなケーキは材料本来の香りとふんわりとした口溶けが命で、それを楽しみに来てくれるお客様が増えてきたことも嬉しい。

そんな中、最近よく通ってくれる初老の紳士がいた。 グレンチェックのパンツ、フードパーカーにネイビージャケットを重ねるといったこなれたアイビースタイルにグレーヘアが彼を若く見せていた。 ある時スタジアムジャンパーの懐かしいロゴに思わずブランドのVANを口にするとパッと顔が輝いた。 
「ひょっとすると同じ時代を知ってるのかな」
「私はその頃ロペ派だったんです」と言って笑った、少し背伸びをしていた若い頃を思い出した。

それからは仕事の合間に話をするようになった。
どんどん変わっていく世界にワクワクしたあの頃、まわりには少しずつ歪みが見えはじめていても、明日を疑うことも無かった若い日。
あれこれと記憶を呼び起こして話が弾むのを、佳菜子に睨まれる時もあった。

ある日彼は午前中にやって来ていつものようにコーヒーとシフォンケーキを食べたあと、そのまま昼時になってしまってランチを注文した。
その日はいつもより忙しく、私もキッチンに篭ってホールに顔を出せずにいた。
佳菜子から「お会計をお願い」と声をかけられてレジに行くと彼が立っていた。
「よかったら今度のお休みの日にお昼ご飯をご一緒いただけませんか。 美味しい店があるんです。」

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