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私の中の迷子10

二人が出会ってから三つ季節が過ぎて、街は初夏の空気に満たされていた。 
銀座は相変わらず華やかに彩られている。
テラス席にキラキラ降り注ぐ光の中でランチのサラダを食べながら
「そろそろ入院できることになったよ。」
まるで旅行に行くように圭一が言った。
緩和ケアで有名なA病院のベットが空いたのだ。
それは誰かが召されて、圭一の番がきたということでもある。
次の段階に進んでしまったという悲しさと共に、やっと安心して体と心を委ねる場所に圭一が行けることに少しほっとする。 最近は痛みが増していること、眠れない夜が続いていることを知っていた。

入院するまでの約束で、圭一のマンションで一緒に過ごしていた。 
何ができるわけで無くても、残った時間を一人で過ごしてほしくなかった。
仕事の引き継ぎに出掛ける送り迎えではいつのまにかハンドルを握って、右腕と信頼している浩輔や他の仲間とも知り合った。
そしてこの期間限定の生活に慣れるより前に、終わりが来た。 思っていたより心は静かだった。

初めて診察した内科医の紹介で通院してきたA病院は、主治医と連携して申し分なくいき届いた緩和ケアを受けられる。
やがて投薬で痛みを抑えるには限界を迎えて、モルヒネの投薬が始まる頃、圭一は静かに言った。
「もう来てくれなくていいよ」
どうして⁉︎と食い下がる私に、
「これからは眠っている時間が増えていくんだ。
そんな僕の横で泣いている君を残しては行けないよ。たとえそばにいなくても、眠ったままでいても君がいることを感じて僕は安心して逝ける。
だから、ここで別れよう。」
圭一の言う通りだった。
これからどんどん侵されていく彼を見て、泣かないでいる自信は無い。 それが彼の心の平安を乱すのなら、私にそんな権利は無い。
「大丈夫、目が覚めている時には電話するから」
うん、と頷く他はなかった。

それからしばらくは、昼間だけで無く深夜にも電話があって、大丈夫?と私のことを心配してくれる。 どっちが病人かわからないわねと笑いあったこともあった。
やがてそれも間遠になり、ふっつりとこなくなってしまった。

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