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迷子の時代に3

ダムに堰き止められた人造湖は、湖面の間際まで緑に囲まれている。 カヤックを借りて二人で漕ぎ出すとオールから広がる波が煌めいて、水面を漕ぐ水音に誘われるように森の気配に同化していった。 康二が遠くの山を指して言った。
「あの周りより緑が濃い山が見えるでしょう。 あれは人が手入れをしなくなって荒れてしまった山なんですよ。 あの中には花も咲かない、動物もいない、人の手が入った山はもう自然のままでは維持できない、それが里山なんです。
この辺りの山も安い輸入木材に押されて採算が取れずに放置されたんだけど、この円安で国産木材も見直され始めてね。 これから山を守る仕組みが必要なんだけど、まあ、一人でできることじゃないんだけどね。」
以前に管理された杉林に入ったことがある。見上げれば枝は綺麗にはらわれて、まっすぐ空に伸びた幹が美しかった。日が差し込む地面にはシダが生い茂っていたっけ。

「半年かけてまだこれくらいだけど」
笑いながら作りかけのカヤックを見せてくれた。
骨組みが船底から緩やかな膨らみを描いて立ち上がる曲線に沿って、幅数センチの薄い板を貼っていく。 目視ではわからないくらいの誤差を確認しながら一枚一枚貼っていく作業はかなりの根気と集中力が必要だった。
「1ミリの違いが後で数センチの誤差になって取り返しがつかなくなることもある。 まあビルもカヤックも同じさ。」
人生もそうだ、毎日の選択が予想もしなかった今につながっていく。
「私も手伝える?」
「それは有難い、接着剤が乾くまで一緒に板の端を押さえていてくれるかな?」
それから黙々と二人で作業を続け、気が付けばすっかり日が傾いていた。
「今日は助かった。嫌でなければまた手伝ってもらってもいいかな。」
「そうね、それもいいかもね。」
近くに美味いそばの店があるからとご馳走になったのを差し引いても、もの作りは楽しい。

それから店の定休日に時々組み立てを手伝うようになった。 時間をかけただけカヤックは形をあらわしていく。 来年の春には完成させたいんだと言う顔には、自分のためだけにやりたい事ができる喜びがある。 年を重ねてもまだ残された年月は、社会で働き続けた後の束の間のご褒美かもしれない。 それは人生の冬にやがて消えてしまう雪のように煌めくかけがえのない時間。

ある日時間を忘れて作業に熱中してしまい、隣のロッジで泊まることになった。 その日は新月に近く、目を凝らしても何も見えないほどあたりの闇は深い。 それでもお互いに眠れないでいたのは気配で分かった。
「そっちに行ってもいいかな」
それは穏やかな声だった。
「どうぞ」体をずらして場所を空けた。


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