見出し画像

音楽の役割 in BLM&Civil Rights Movement

画像1

Black Lives Matterという言葉を耳にしたことがあるという人はここ最近のアメリカを知らせるニュースを通してではないだろうか

コロナ禍にあるアメリカで、エッセンシャルワーカーと言われる社会を回すために必要な労働者に黒人やヒスパニック系の人が多く、コロナ感染率や重症、死亡率が圧倒的に多いと言われている。

橋下元大阪知事がよくテレビやウェブニュースなどでいう、「無責任な解説者」によると、こういったいわゆる、労働者階級の人たちにしてみると健康保険など高くて払えないのが理由だとされている。果たしてそうだろうか?
わたしの友達でシングルマザーの人たちは決して裕福だとは言えない生活を毎日一生懸命暮らしている。彼女たちは子供が病気になればすぐに病院に連れて行くし、自分の健康診断も毎年のように受けていた。風邪を引いたらすぐに病院で診てもらっている。メディケアとか申請していた。

わたしの友達でミュージシャンでそこそこ名前が売れている人は保険がない、と言ってなかなか病院には行かない。
超有名人ミュージシャンはレーベル会社やマネージャーらが連れて行く場合もあったが基本的に一人で病院通いしているイメージがある。私も何度か数名のミュージシャンの病院通いに同行した。

わたしがNYに住んでいた時にはオバマが大統領でまだオバマケアは法案が通ってなかった。NY生活後半になってオバマケアが適用されることになったが、わたしの周りのそこそこ稼ぎがある人たちは困っていた。ある程度の金額を毎月払わないとオバマケアは受けれなかったからだ。普段から健康で病院にもそんなに行く必要がない私にしたらかなりの高額を支払う必要があった。それだと、日本からの長期旅行保険の方が安かったり、結果として年に一回の医療費をそのまま支払う方が安かったりした。
NYで風邪をこじらせて死ぬかと思ったことが2度ほどあった。大げさに言ってるのではなく、本当に死ぬかと思った。
一人暮らしの天井からぶら下がったシーリングファンが一定のリズムで回るのを見ながらベッドに横たわり、何をするにもしんどくてずっと寝ていた。幼いころから喉をやられやすく、歌を歌っていた私としては致命傷だった。NYでも例外ではなく、冬の雪がひどくなるころになると、喉がまずやられた。不動産エージェントだった私としては外回りで物件を見せてなんぼの世界なんで雪でも雨でも嵐でも外を歩き回った。喉がおかしくても喋り続けた。するとものの見事に、数日後には声が出ず、水を飲むのもつらいほど真っ赤に腫れ上がり、ご飯も食べれず息をするのも唾を飲むのもしんどくなる。そうなると何もできない。それでも仕事には行っていた。音楽の仕事にも精を出して顔を出すと、帰れと言われる始末。彼らも風邪を移されても高い医療費が払えないので困るので、とにかく病気にはなるな、というのが暗黙の了解だった。

今回、コロナでその暗黙の了解は断たれた。

いくら自分が我慢して、気をつけていてもかかる人はいたし、家族にしらないうちに移してしまってる人もいた。数名のミュージシャン友達やそのご家族がなくなって私もかなり辛い思いをした。
外出禁止令がしばらく続いたアメリカの各都市では経済を回せ、というトランプ大統領に従った州知事がマスク装着を促すことなく社会を再開させた。その結果、今、アメリカの地方都市ではえらいことになってしまっている。トランプ自身もマスクをずっと拒否していたにも関わらず、マスクをするようにアピールする始末だ。

画像9

国民にしたら何を信じて何をどう動けばいいのかわからない状況が続く。これは日本も一緒。感染者数が多くなっているにも関わらずゴートゥーなんちゃらとかを始めるが、果たしてそれが経済再開につながるのだろうか。

とにかく新型コロナウィルスで予定していた企画もプロジェクトも延期という名のキャンセルになりこの夏は私も時間が思っていたよりできた。
そうなると人は今まで気にもしなかったことに興味を持ち始める。
マニアックな人はディグってもっと深堀するだろうし、さわりだけ知りたいという人もいるだろう。

画像3

BLMはそんな中から知れることになった

きっかけはジョージ・フロイドという黒人が白人警官により殺害されたということからだ。これが、黒人だから白人警官にこういう扱いを受けたということで、黒人の人権運動へとつながる。

もともと、BLM運動が言われだしたのはTrayvon Martinという黒人青年が白人自衛団ジマーマンに銃殺されたが無罪になったことに発端する。

私がNYに住んでいた際にも同じような事件が毎年のようにおこっていた。身近なところでは、ヒップホップアーティストと急に連絡が取れなくなったり、ヒップホップ系エージェントらと連絡が取れなくなると、きまって噂が流れた。「あ、また入れられたのかな」「捕まったのかな」
そんな話が日常会話の挨拶のように話されていた。
ある意味、当たり前に日常化されている世界に私たちは住んでいた。

高校時代にカトリックの学校へ行き、マーティン・ルーサーキング牧師に傾倒してからというもの、ずっと公民権運動には興味を持っていた。
アメリカ南部へ一人旅に出てからというもの、一人の人間が出身国や肌の色によりこうも差別されるのか、と目の当たりにした。(①参照)

アフリカから奴隷としてキッドナップ(誘拐)され、鎖に何人も同時に繋がれたまま何日も船に押し込められ汚物もそのまま共にカリブ海へ。
奴隷船を覚えている人の話では遠くから奴隷船が来たと分かるほど、汚物の匂いがひどかったと言っていた。
船の中で亡くなった人も多くいた。生き残った人は強靭だとされ、健康であればあるほど高く売られたらしい。家族、友達バラバラにされ自らの文化や言葉、信仰や慣習を捨てさせられ白人オーナーに従った。奴隷貿易はニューオリンズのコンゴ広場はじめ、南部の数カ所で行われていた。

画像10

(アラバマ州にあるリンチミュージアムには是非とも訪問してもらいたい)

これが400年ほど前のはなし。そして、400年経った今でもなぜ黒人への人種差別が問題視されているのか。

奴隷制度のもと、17世紀から19世紀にかけて、およそ1,200万人のアフリカ人が、政府とその委託を受けた業者により誘拐された上に取引されて、アメリカ大陸に強制的に連れて行かれ[2][3]、そのうち5.4%(645,000人)が現在のアメリカ合衆国に連れて行かれた[4]。1860年のアメリカ合衆国の国勢調査では、奴隷人口は400万人に達していた。
人種分離法は一般に「ジム・クロウ法」と呼ばれ、アパルトヘイト政策下の南アフリカにおけるのと同様、交通機関や水飲み場、トイレ、学校や図書館などの公共機関、さらにホテルやレストラン、バーやスケート場などにおいても、白人が有色人種すべてを分離することを合法とするものだった。さらに「ジム・クロウ法」の下では、黒人と白人の結婚を事実上違法とする州法の存在が認められたほか、教育の機会が与えられなかったことから識字率の低い黒人の投票権を事実上制限したり、住宅を制限することも合法とされてきた。
これらの州においては、クー・クラックス・クラン(KKK)などの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや、黒人の営む商店や店舗、住居への放火、さらにこれらの白人至上主義団体と同じような志向を持つ警察による不当逮捕や裁判所などによる冤罪判決などが南部を中心に多発した(アメリカは自治体警察なので、警察長や保安官など責任者の意向が活動方針に強い影響を及ぼす。行き過ぎたと判断された場合はFBIが乗り出す)。またこれに関連し、1914年から1950年までに100万人以上のアフリカ系アメリカ人が南部から北部に大移動した。
その一方で、1930年8月にトーマス・シップとエイブラム・スミスのリンチ殺人事件(英語版)が新聞報道されたことをきっかけに、ユダヤ人教師エイベル・ミーアポル(英語版)(ペンネームのルイス・アレン名義で有名)は事件をモチーフに『奇妙な果実』を作詞作曲し、ビリー・ホリデイの代表的なレパートリーとしてリンチ殺人事件が世に知られることになった。これらの1950年代から1960年代にかけて起こった人種差別を元にした事件と、それに対する世論の反発や多くの政治家による支援は、これまで孤独な戦いを強いられていた多くの公民権運動家を力づけた。そして公民権運動はキング牧師らの呼びかけに応じて、人種差別や人種隔離の撤廃を求める20万人以上の参加者を集めた1963年8月28日のワシントンD.C.における「ワシントン大行進」で最高潮に達した。「ワシントン大行進」には、キング牧師やその理念に賛同するアメリカ国内の各団体のみならず、公民権運動に協力するシドニー・ポワチエやマーロン・ブランド、ハリー・ベラフォンテやチャールトン・ヘストン、ジョセフィン・ベーカーやボブ・ディランなどの様々な人種の世界的スターも数多く参加するなど、アメリカ国内のみならず世界各国から注目を浴び、その模様は世界各国に報じられた。
1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%B3%BB%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BA%BA%E5%85%AC%E6%B0%91%E6%A8%A9%E9%81%8B%E5%8B%95

キング牧師が公民権運動で立ち上がったのがつい先日のようだ。
そしてキング牧師はメンフィスで暗殺される。
同時期に戦っていたマルコムXも暗殺される。

「JaZZ Japan vol. 120」

画像2

これらについて、音楽や文化の役割やあり方を考えてみた。
それを今、発売中の「ジャズジャパン vol. 120」に掲載してもらった。
7ページにも渡る私の長年のリサーチによるものだ。
元Verve record副社長であるホリスキング氏による写真付きである。
これは是非とも読んでもらいたい。そして何が起こっているのかを知ってもらい、そこから何が私たちにできるのか、私たちも日本に居ながらにして同じような問題を抱えていないかをかんがえてもらえたら嬉しい。

日本の中でもそう。

私は日本人の女として京都で生まれ、育ち、守られた環境にいたと思う。ただ、一人旅を始めてから世界が日本人を見る目が日本にいるときに持っていた印象とは明らかに違うことを経験し、あくまで私たちはアジア人女性なのだ、と切に思わされることが多々あった。

あまり言いたくないが、昭和世代どっぷりの人たちに私たちの世代は良い意味でも悪い意味でも使われてきた感がある。
今の若い子らは嫌なものは嫌だといえる、自由や余裕を教えてもらえたと思う。
私たちの時代は自分が嫌でもやるのが根気で根性でやる気だと教わった。
自らの意思を通すより周りに流されるのが当たり前で、周りに同調しないと変わり者だとかのレッテルを貼られた。

学生時代に飲み会に呼ばれコンパたるものに参加しないと仲間は出来にくい世の中だった。社会人になって上司や先輩らのお誘いに付き合わされ、今でいうセクハラ発言をふんだんに浴びせられ、体を触られてもニコニコしているような女がもてはやされていた。私も酔っ払ったバイト先の上司にいきなり胸を触れらたりエロい言葉を何度も浴びせられ今だにトラウマになっている。でもそのときは何も言えなかった、仕事が首になるのが嫌だったから。

私は女性の立場向上についてカナダのおばちゃんに教わった気がする。あんだけソリが合わなかった同居人のおばちゃんだが、親身にはなしを聞いてくれたことがあった。
それが、アジア人女性の世界における立場やイメージについてだった。
ユダヤ系白人のカナダ人であるおばちゃんは、とにかく女性向上について熱かった。

画像8

(Hiphop group-Public Enemyの特別Tshirt着てワシントンD.C.のMLKの前で決意を固めた写真)

人種や肌の色だけの問題ではなく、国籍、宗教、仕事、住む場所、性別、年齢、様々な差別は社会にある。それらはブラックだけの問題ではない。

では、BLMとはなにか。一番よくわかる映画が「13TH」無料配信されているので是非とも見て欲しい。

『自由』とはなにか。

バックパッカーをして、好きなことを書いて好きなときに仕事して好きな人たちと仕事ができる私を『自由でいいね』と人はよく言う。

本当に奴隷解放で『自由』になった人たちは幸せだったか。教育も受けさせてもらえず手に職もなく、経済的に独り立ちするのも難しかった彼らが生き延びるには『自由』だけで十分だったろうか?

『自由』には自己での責任が伴う。『自由』でいるのが難しい場合が多い。どこかに属している方がよっぽど楽だと思うことも多々有る。
ただ、『自由』を選択した限りはそこに自己の責任能力と維持能力が必要になる。いつまでも『自由』でいることはそれほど実はたやすくない。ただ、『幸福度』はどうだろう。束縛よりは『自由』がいいに決まっている。だけどそれとイコールとされない『幸福度』。

音楽や文化の役割はそれぞれの時代にあると信じている。

ヒップホップがアメリカ黒人文化をダメにしたという人も実はアメリカ黒人の中に多くいる。
これは賛否両論で私もヒップホップ世代としては信じたくはないが、公民権運動などで黒人の地位向上を真に必死にやってきたジャズのbebop世代の人やそれより昔の人たちにそう言われると何もいえなくなる。
たしかに、昨今は特に「にがー」とか黒人差別する言葉を平気で発して自らギャングスタラップでギャングの世界をアピールして抗争の果てに殺されたり妬みから強盗に入られ殺されたりしている。歌詞の内容も昔のオールドスクール系ヒップホップとは少し変わってきたものが多いようにも感じる。聞いていて不快になるビートも多い。

公民権運動が一旦終焉したあとの時代の産物であるヒップホップ文化。
ジャズやソウル、ファンクのサンプリングはどこへいったのやら・・・

ニュースクールばかりを非難するつもりはない。
それも時代にあった音楽の変革なのだろう。

私の知り合いミュージシャンらがケンドリック・ラマーのグラミー賞総なめしたアルバムのプロドゥースなどをしていた。「Alright」が大学生の間でシュプレヒコールに使われ、BLMの抗議活動でチャントされていた。

画像5

その辺りのこともJaZZ Japan vol 120に書かせてもらっているので是非ご参照いただきたい。

同時期にコモンやジョン・レジェンドらが黒人解放映画などへの楽曲提供や自らの楽曲で差別を訴えた。ロバート・グラスパーらもしかり、仲良しでバンドメイトであるテレス・マーティンはケンドリック・ラマーのプロドゥーサーでもありコンプトンから差別を訴えてケンドリックとグラミー賞を受賞した。エリカ・バドゥも語る。モスデフ、タリブクウェリ、ファロアモンチ…しかりである。

画像8

(ロバート・グラスパーとテレス・マーティン in Brooklyn NY)

The Rootsのアルバムカバーでリンチにあってる人が木からぶら下がっているのがあった。

画像6

画像7

これらは私が応援してきた仲間達だ。本当に彼らと一緒に音楽を作ることで学ぶことが多かった。たくさん、プライベートでも話した。黒人音楽のあり方、歴史と事実、本来あるべき姿など。

 チャイルディッシュ・ガンビーノという名でシンガーとしても活躍するドナルド・グローヴァーが2018年にリリースした楽曲「ディス・イズ・アメリカ」。この楽曲は、銃乱射事件や、黒人に対する人種差別などの社会問題を色濃く反映させた楽曲。MVは、2015年に米サウスカロライナ州の教会で白人男性が9人の黒人を射殺した銃乱射事件がモチーフになったり、命より銃が大切と言わんばかりのパフォーマンスが行われたりとその内容が話題を呼び、1週間で再生回数8,500万回を突破。当時の最多再生回数の記録を更新した。

コロナ禍で世界は変わるだろう、
特にエンタメ業界は。

そしてその時に音楽や文化はこの変革期にどう対応していくのか、それと同時に人の意識改革も起こっているはず。
世界で起こる歴史は日々刻々と流れている。新型コロナというウィルスにより活動を制限されている今でも歴史は流れている。
その中で、私たちが生きのびるためにするべきことは何なのか、文化が革命期に何ができるのか、ぜひ皆さんの意見も聞いてみたいところだ。

内容を面白いと感じていただけましたら、記事のシェアやドネーションなどご協力をいただければ励みになります。そして活動を広く続けていく支えになります❤️ どうぞよろしくお願いいたします!

✴︎フォロー登録&サポートよろしくお願いします🎶

ちなみに,講演会やオンラインレッスン,プライベートコンサルティングなども受け付けてますのでご興味ある方はまたご連絡くださいませ!

✴︎[YouTube Channel] こちらもチャンネル登録よろしくお願いします〜❤️ (https://www.youtube.com/user/Dangerica7/about?view_as=subscriber)

✴ 英語でのブログもやってますので良かったら登録してご参照くださいませ〜🎶 👉 https://dangerica.blogspot.com/



この記事が参加している募集

スキしてみて

おうち時間を工夫で楽しく

是非サポートをよろしくお願い致します。プロドゥーサー兼journalistとしてこれからも音楽やアート支援に大切に使わせて頂きます🎶皆様にいいものを提供できるよう頑張ります✊どうぞサポートお願いします🎵