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シリア, ダマスカス 〜 括弧付きながら「平和」だった, 1983年9月12-19日

1983年4月26日に日本を発ち, ソ連・ヨーロッパ・トルコを旅した後, 9月5日からはシリア・アラブ共和国(アレッポ, パルミラ)

ソ連・ヨーロッパ・トルコ 旅 notes に関しては, 以下リンク先 note *1 の最後から3番目の章 1983年4月26日に日本を発ってから, 初めてのアラブの国 シリア を訪れる前までの日々 (ソ連, ヨーロッパ, トルコ) にて。*1 はアレッポ 旅 note, *2, *3 はここでは脱線 notes(同年9月11日にシリアで23歳の誕生日を迎えたってことで!), *4 は 2015年に IS「イスラム国」が歴史的に極めて重要で「人類の遺産」と見做されるような建造物を破壊してしまった古代ローマ時代のパルミラの都市遺跡, その在りし日のパルミラ, いや古代都市パルミラは疾うの昔に廃墟と化していたので(「とうの昔」と言えば中国の「唐」の昔よりも更に前!), 要するに 2,000年以上の歴史を持つパルミラの都市/廃墟/遺跡が 1,300年の歴史を持つ「宗教」のその狂信者, 頭のイカれた連中に破壊される前の, 在りし日の姿。

*1 アレッポ

*2 911 を振り返る 〜 1960年, 1965年, 1973年, 1983年, 2001年, 2019年, 2020年, そして 2021年

*3 911 誕生日記念, トム・ウェイツ登場 ♫

*4 パルミラ

さて, ローマ帝国時代の「古代」都市パルミラの次に向かったのは, 「現代」のシリア・アラブ共和国の首都ダマスカス。

ダマスカスのスーク(市場), 1983年9月13日 〜 写真6枚

本 note 後段で掲載する当日の旅日記殴り書きメモより。トルコの「イスタンブールのグランド・バザール」についての表現はご容赦(誰に言ってんだか, 笑)。

スークは広く, イスタンブールのグランド・バザール(あれは要するに ただの商店街)などと違って, フンイキあり。コントンとしていて, 雑踏で, なかなか良し。

写真に写ってる人たち, 28年後の2011年から始まったシリア内戦もきっと生き抜いていてほしい, と言葉にすると安っぽくなるけれど, しかし本当に, 切に, 心から願う。

写真 1)

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写真 6)

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とにかく, 今のシリア・アラブ共和国独裁政権の大統領バッシャール・ハーフィズ・アル=アサド(2000年7月から大統領, 先代大統領の実父並みの長期独裁を目指してんのか早21年経過!)の親父ハーフィズ・アル=アサドが独裁大統領をしていた時代だったけれど(彼は 1971年2月から自身が心臓発作で他界する 2000年6月まで 29年間の長期政権!), 2011年以降の「シリア内戦」を思えば, 括弧付きながら「平和」だった時代のシリアの首都, ダマスカス。

ウマイヤ・モスク(ダマスカス旧市街, 世界最古のモスクのひとつ), 1983年9月13日 〜 写真4枚

本 note 後段で掲載する当日の旅日記殴り書きメモには「オマイヤド・モスク」と書いてあるが, このモスクは英語アルファベットでは The Umayyad Mosque, 日本語カタカナでは普通 ウマイヤド・モスク もしくは ウマイヤ・モスク と表記されるもので, 世界最古かつ最大のイスラームの礼拝所のひとつ。先にキリスト教の教会, 聖ヨハネ聖堂があったところを改築し, モスクとしての完成はイスラームという宗教が生まれてから約100年後の西暦715年。 

アブラハムの宗教のうち, ユダヤ教, 続くキリスト教の後から生まれたイスラーム。無神論者である自分はそのどれにもシンパシーなど感じないが, 歴史的な背景からどうしても元はその前の代のアブラハムの宗教の施設だったところをイスラームのモスクにしてるところとかあるわけで。これって, その元の施設の宗教の信者にとってはどう映るものなのかな, と思ったりもする。まぁ歴史は歴史, 割り切って受け入れたりするのかな。シリアではないけれど, トルコのイスタンブールで元は 1,500年ほど前に建設されたキリスト教・東方正教会の教会だったアヤソフィア, 1453年にオスマン帝国によって改修されてイスラームのモスクとして使われるようになり, それが世俗主義のトルコ共和国の建国の父ムスタファ・ケマル・アタテュルクによって文字通り世俗化されて 1935年からは博物館となっていたのが, 昨年2020年に現在のイスラーム化傾向が見えるガンコオヤジなおっさん大統領エルドアンによって再びモスクにされ.. あれはなかなかにして, キリスト教圏からだいぶネガティヴな反応があったわけで.. 隣の国の話題に入ってしまって脱線か?

シリア・アラブ共和国の首都ダマスカスにある, ウマイヤ・モスクについては

とウィキペディアの和英で大方済ませ, あとは当日の旅日記殴り書きメモより。

モスクも かなり立派なもの。ステンド・グラス, モザイク絵(広場側), 柱など すばらしい。ビザンチン風の部分あり。教会を改修したかんじ。 

写真 1) 右下の方に写ってる親子連れ, 子どもがなんだか愛らしい。

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写真 2) イスラームの女性のこの種の服装にシンパシーは感じないけれど(まぁこっちは信者でもないわけで, でも何というか「宗教」云々でなく「民族」衣装的なもの, 要するに民族の「伝統」衣装的なものと思えばまた感じ方も変わってくるのだった, 括弧長いな!), しかしこの写真はわりと好きな写真なのであった。 

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写真 3) 何気に昔々は元キリスト教会だった雰囲気を感じさせる姿。一緒に写ってるのは昔々ほどではないが昔ではある 1960年911 生まれ, 前々日にパルミラで23歳の誕生日を迎えたばかりの, 昔々からクリスチャンでもムスリムでもそしてもちろんユダヤ教徒でも何でもない, 要するにアブラハムの宗教とは何の関係もない筆者。  

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写真 4) やっぱ何気に元キリスト教会だった感あり。

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さてさて。

ダマスカス市街で何となく(?)撮った, 1983年9月14日 〜 写真1枚

何を思って, これを撮ったのでありましょう。

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ほんと, どうしてここでこれ撮ったんだっけ?それは "さあ 不思議な夢と遠い昔が好きなら, さあ そのスヰッチを遠い昔に廻せば, ジュラ期の世界が拡がり, はるかな化石の時代よ" ♫ とまぁ ジュラ期 は正しくは ジュラ紀 だけど, とにかく "タイムマシンにおねがい" でもして 1983年9月14日 ダマスカス に戻ってみないと分かりません .. かな?

さてさて, ここでの脱線音楽はこれに留め, 

次章からは, いま 2021年9月 に, 1983年9月の旅日記を覗く旅。

ダマスカス, 1983年秋 〜 パルミラからダマスへ(9月12日)

旅日記殴り書き, 9月12日の前の8行ほどは前日, 9月11日の旅日記殴り書きの最後の方のメモ。これについてはパルミラ旅 note に掲載済み。前の頁から続いていて, 最初のところを前頁の最後から補って引用すると, 

ドイツ人学生も, パレスチナ人は パレスチナ で ユダヤ人 とともに住みたいと言ってる と言った。たぶん 彼の会った パレスチナ人 がそう言ったのだろう。

となって, この部分は, パルミラ(の遺跡の直ぐ近くの街タドモル)の宿で親しくなったドイツ人学生との会話メモ。実際その後, シリアとヨルダンの次に旅したパレスチナで, 同様にユダヤ人との共存について語る多くのパレスチナ人と会った。

さて話を進めて, 1983年9月12日, その日の朝, 宿を出て,

小さいが 若干小ぎれいなローカルバスに乗って ダマスへ。

ダマスカスのことを「ダマス」と省略して言ってたけれど, そういう言い方は旅人の間で普通にあったと思う。トルコのイスタンブールは「イスタン」だったし。

「政府, 政治について みだらにしゃべるな!! NEVER! for friends & for me」とのメモは, アレッポで親しくなった学生たちから得た教訓。彼らと話す分には問題なかったが, 要するに相手の素性・政治的背景など知らないままシリア政府批判など語ってしまうと極端な話, 自分だけでなく親しくなった別のシリア人にまで危険が及ぶことが有り得るということ(大学にはシークレットポリス, 秘密警察も紛れ込んでいたくらいで)。

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あの頃 日記でしばしば「パラフェル」と書いていたようだけど, 普通カタカナ表記は ファラフェル だと思う。これは中東(西アジアから北アフリカ)諸国の伝統的な食べ物(後にパレスチナでもよく食べたけど美味かった)。

ダマスカスの初日はとりあえずユースホステルに宿をとったが, ユースについては以下に引用するように旅日記に書いていた通りで(旅日記の当該箇所は次章), より「現地」体験したい旅人にとっては, 安いこと以外にさしたるメリットはない。実際, 北欧など物価が高い国ではユースホステルのお世話になったが, ヨーロッパを南下するにつれあまり使わなくなり, 中東・アジア諸国ではほぼ使わなかった。宿代もユースより安いところはわりと容易に見つかるし, ユースより多少高い場合でも, ローカルの雰囲気を味わえる現地の宿の方がよい。

tourist office によってから ユースホステルへ。(アパートか何かの地下にある)
夕寝して, 街で羊肉入りのサンドイッチ(これもパラフェルかねぇ)1コ2SPを2コ食う。もどって同室のオランダ人としゃべって。take shower。おしまい。
泊ってるのは ヨーロッパ人と少しアラブ人。ユースは安いこと以外 大したメリットなし。他の方が, 現地の人と交流できると思う。
ダマスは大都会です。

ダマスカスでも3日目以降は他の宿に引越し。

ダマスカス, 1983年秋 〜 日本大使館でシリア人の日本留学希望者に威張りくさっていた一人の日本人「外交」官, その日本大使館のライブラリーの蔵書の中身が興味深かった, ほか(9月13日)

「政府, 政治について みだらにしゃべるな! NEVER! for friends & for me」とのメモについては, 前章に書いた通り。 

ダマスカス 2日目, 1983年9月13日。次の滞在国 ヨルダン のヴィザ申請のため, 在ダマスカスのヨルダン大使館へ。行ってみたら, ヨルダン大使館の大使館員に,

日本大使かん へ行って書類を, と言われて 日本大使かん へ。待たされる間, 日本へ行ってエンジニアリングの勉強をしたいというシリア人青年と日本人大使かん職員の会話。シリア人は英語があまりできない。日本人はわりとできるが ヒドイ発音。そのうち 日本人の方が相手にあまり話が通じないのに業をにやし, 

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You can't understand me at all. そのうえ, あなたのように英語がダメなら とても日本で勉強などできないと言い出した。ここはシリアだ。少なくともここでは, 日本人職員の方がアラビア語で話をしてむしろ自然なのだ。それはムリにしても, 相手の英語がまずいからと言って あんな非礼な態度をとるとは。
彼が席をはずしてから, オレはシリア人に He is not a good man. Sorry. と言っておいた。(彼は Thanks)
そのうち アラビア語のできる職員が出てきて, 話になり, 最後は握手して一件落着。まぁヨカッタ。 

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待ってるうちに, イエニペンションにいた「師匠」(ししょう)が入ってきてビックリ。

「イエニペンション」とは, 8月11日から3週間ほど滞在した, トルコの安宿(1泊, 日本円にして200円ほどだったのをよく憶えてる)。『師匠』(漢字が微妙に間違ってるかもと思って日記では「ししょう」と括弧書きしたらしい, 笑)はその宿にいた, 筆者が中東巡った後で向かうインド方面から来ていた日本人の旅人で, カメラマン。誰が何を切っ掛けにそう呼ぶようになったのか憶えていないのだが, 風貌が「師匠」という呼び名に相応しかったのは確か。 

日記にある通りで, その後ヨルダン大使館に戻って無事ヨルダンのヴィザを取得したが, かかった費用はドイツ人の場合の倍以上だった(なんと日本人だと高くついたわけで)。

この日は「師匠」とダマスカス市内の スーク や モスク を見物。日記では「オマイヤド・モスク」と書いてあるが, これは英語アルファベットでは The Umayyad Mosque, 日本語カタカナでは普通 ウマイヤド・モスク もしくは ウマイヤ・モスク と表記されるモスク。世界最古かつ最大のイスラームの礼拝所のひとつで(先にキリスト教の教会, 聖ヨハネ聖堂があったところを改築し, モスクとしての完成はイスラームという宗教が生まれてから約100年後の西暦715年), ダマスカスの旧市街にある。 

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日本大使かんのライブラリーには おもしろい本あり。
「右」の本も もちろんあるが, 「ボクラ少国民」とか「わが愛はパレスチナへ」(ライラ・カリド著, 番町書房, 序文に ピーエフエルピー の元スポークスマン, ガッサン・カナファーニ ーーーー 暗殺された, シオニストに ーーーー の文あり)などある。どういうことでしょうか。

『ボクラ少国民』は, 児童文学作家・ノンフィクション作家の山中恒(1931年7月20日生まれ, 今年2021年で御年, おんとし90歳, 健在, すばらしい)の著作で, 『ボクラ少国民』, 『御民ワレ - ボクラ少国民第二部』, 『撃チテシ止マム - ボクラ少国民第三部』, 『欲シガリマセン勝ツマデハ - ボクラ少国民第四部』, 『勝利ノ日マデ - ボクラ少国民第五部』などのシリーズもの。学生時代, 読んだので懐かしい。

「ライラ・カリド」は, 当時は「ピーエフエルピー」つまり PFLP, パレスチナ解放人民戦線(英語表記は Popular Front for the Liberation of Palestine, 元々クリスチャンのパレスチナ人で医学博士であったジョージ・ハバシュがマルクス・レーニン主義を掲げて設立した, PLO 内にあった対イスラエル抵抗組織の一つ)("PFLP" と日記には書かなかったのは, 後に旅するイスラエルでの "万が一" "もしも" の官憲による所持品検査で面倒なことにならないようにとまぁとにかく出来る限りの神経は使ってのこと, 実際上は大した意味なかっただろうけれど)に所属していたパレスチナ人女性で, 1969年以降の PFLP によるハイジャック闘争で名を馳せた人物。 

「ガッサン・カナファーニ」(ガッサーン・カナファーニー)は, 『太陽の男たち』『ハイファに戻って』などの著作で有名なパレスチナ人の小説家・ジャーナリストで, PFLP の活動家でもあったが, 1972年にレバノンの首都ベイルートで自身の姪とともに自分の車にイスラエルの特殊部隊が仕掛けていた爆弾により暗殺された人物。

その種の書物がシリアの首都ダマスカスの日本大使館のライブラリーに置いてあった, というのは「どういうことでしょうか」。まぁ大した意味もなく, 大使館職員が参考に読んだ後に図書室に寄贈したのか(マジで?), あるいは訪れる日本人旅行者の動向を知りたくて "仕掛けた" のか(マジで?), なんというか, 謎といえば謎。

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YH に ピーエフエルピー の機関紙アルハダフがある。YH のものか, 誰かがもってきたのか 知らんが。そのなかに, 鈴木清順(明らかに彼だ)の写真みつけてビックリ! 文はもちろんアラビア語でわからん。英語版も出してるかもしれんが。

おお, なんと何とナンと(ナンとはインドの美味しいパン!意味不明), PFLP(と英語アルファベット表記せずに日記では日本語カタカナ表記していた事情は先述)のアラビア語機関紙に, なんと「鈴木清順(明らかに彼だ)の写真」! ... ほんと, 何が書いてあったのかね。 

鈴木清順 翁 でっせ!鈴木清順(1923年5月24日生まれ, 2017年2月13日他界)は, 『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)を監督した, あの人。1983年9月当時は還暦, 現代では 翁 と呼ぶには早いかな。タイトル写真はあの映画の主な出演者4人のうちのふたり, 原田芳雄(1940年2月29日生まれ, 2011年7月19日他界)と 大谷直子(1950年4月3日生まれ)。

脱線した。話を戻して, 1983年9月のシリアの首都ダマスカスへ。

ダマスカス, 1983年秋 〜 宿を変える, ダマスカス大学前でパレスチナ人学生たちと話す, ほか(9月14日)

最初の5行は 9月13日のメモ。

さて, 1983年9月14日。2泊したユースホステルを出て, 「師匠」滞在中のホテルに引っ越した(「師匠」については前章)。 

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アンマンに行くバスの便を確かめに行った後, ダマスカス大学前に行って, 「学生をつかまえては Dr. Sad についてきく」。Dr. Sad とは, ギリシア・アテネに滞在していた時に知り合った日本人から聞いていた, レバノンでパレスチナ人の支援をしている日本人女性医師のことだったはず。

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どの学生も 英語はあまりできない。初めて上手に(オレなんかよりずっと, つまりまともに)英語をしゃべったのは パレスチナ学生たちだった。

以下も, 旅日記(の次の頁)からの引用。

彼らは ウェストバンク出身で, 行ったら You can see how people live アンダー オキュペイション オブ イスラエル とか ビルゼット大学へ行ってみてくれとか行った。

最後の「行った」は「言った」を誤植ってか誤字してたようで, なんと。しかしまぁ殴り書きだからなぁ, こういうことも時にある!

ウェストバンク」は West Bank, 通常, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区のこと。1948年のイスラエル建国の前は, イギリス委任統治領パレスチナ(1920年 - 1948年)の領内。イギリスはその地の占領統治を1918年に開始しているが, その前は16世紀以降はオスマン帝国の領土内(同帝国は第一次世界大戦で敗戦)。1948年のイスラエル建国に伴う第一次中東戦争の後, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区はヨルダンが統治(ただし国際社会のほとんどはその領有を公式に認めなかった)。その後, 1967年にイスラエルが侵攻し, ガザ地区(もイギリス委任統治領パレスチナの領内にあったが, 第一次中東戦争後は事実上エジプトが占領統治していた, しかしこれも国際社会のほとんどは公式に認めなかった)やエジプトのシナイ半島, シリアのゴラン高原の一部とともに, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を占領, 以降, 半世紀以上経過した2021年の今もイスラエルによる軍事占領が続いている(この間にイスラエルが手放したのはエジプトに返還したシナイ半島のみ)。このイスラエルによる占領についても, 国際社会のほとんどは承認しておらず, 1967年11月の国連安保理決議242号はこの年の占領地からのイスラエルの撤退を要求している

話を戻して, 1983年9月14日 にダマスカス大学の前で会ったパレスチナ人たちが「ウェストバンク」出身と言ったのは, 彼らが自身はまだ5歳前後であった1967年のイスラエルによる侵攻で自分たちの親と共に土地を追われたパレスチナ難民であるか, もしくは1948年のイスラエル建国に伴って自らの土地を追われた「ウェストバンク」出身であるパレスチナ難民の二世であることを意味していたのではないかと思う。

「ビルゼット大学」と日記に書いてあるのは, 通常カタカナ書きでは ビルゼイト大学で, 英語では Birzeit University, パレスチナにある有名な大学の一つ(シリア, ヨルダンを旅した後, パレスチナも旅し, その際, この大学も訪問した)。

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「政府, 政治についてみだらに NEVERにしゃべるな! for friends & for me」との殴り書きメモは, 既に本 note でも書いてきた通り, アレッポにいた時に親しくなったシリア人の若者たちのアドバイスを受けてのこと(当時は今のシリアの独裁政権の大統領バッシャール・アル=アサドの親父であるハーフィズ・アル=アサドが独裁大統領をしていた時代, 今もそうだろうが, 当時のシリアもシークレット・ポリスが暗躍していたりした)。

同室にイラクから出てきたクルド人。もうもどれないらしい。

クルド人はイラクにもシリアにもトルコにもいる。国を持たず, どの国においても抑圧されている例が多い。

以下, 旅日記の次の頁より一部引用。

街(特に旧市街側)にわりとホメイニの写真あり。もちろん好きではってるのでしょう。コマッタもんです。

ホメイニはもちろんあのジイさん, 1979年のイランの(結果として)イスラーム革命の立役者の一人。シリア, ヨルダン, パレスチナとイスラエル, エジプト, 2度目のトルコを旅した後, イラン革命4年後のイランも旅したが, その前, シリアの旅の前の 1度目のトルコにて, イスタンブールの宿で革命後のイランを出てきたイラン人の若者たち(兄弟)と知り合って, イラン事情を詳しく聞いたりしていた。

話を戻して, ダマスカスの街には当然ながら, 

アサドの写真はもちろんたくさん。

上述の通りで, この「アサド」は, 今のシリアの独裁政権の大統領バッシャール・アル=アサドの親父であるハーフィズ・アル=アサド(当時のシリアの独裁大統領)のこと。以下の写真の左が バッシャール・アル=アサド, 右がその親父, ハーフィズ・アル=アサド。ハーフィズ・アル=アサドは1971年から2000年に心臓発作で他界するまで29年間, 大統領。息子のバッシャール・アル=アサドは 2000年に親父を引き継いで大統領になってから21年経過, 今も大統領! そんなに長くやっていたいのかね, よっ, 大統領!!

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昨年, 2020年911 note, その第7章 55年前の 911 は、 シリアの現独裁者・大統領、バッシャール・アル=アサドが生まれた日

今年, 2021年911 note, その第2章 1965年9月11日 〜 シリア・アラブ共和国の現大統領バッシャール・アル=アサドの誕生日

話を 1983年9月14日のシリア, ダマスカスに戻して。

パレスチナの病院のあったあたり, 国連(UN)の車がずいぶんとあった。もちろん病院とは無関係だろうけど。

「もちろん病院とは無関係だろうけど」と日記には書いていたが, パレスチナ難民のための病院だと思えば, そこに「国連(UN)の車」が何台かあったとして不思議はないかも(ダマスカスにある「パレスチナの病院」を訪ねた経緯は, 日記の少し前の頁で言及)。

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師匠はむかし, バイトで 渡辺かつみ とバンド組んでたことあり。

「師匠」については上述。カメラマンだが, ベース弾きでもあった。渡辺香津美とはもちろん, 何とナンとあの有名な, 日本のスーパー・ギタリスト!

以上, 1983年から3年戻って, 1980年の渡辺香津美でした ... 「師匠」は確か, 高校の母校が, 渡辺香津美と同窓, 暁星だった。

脱線した。話を再び 1983年9月のシリア, ダマスカスに戻す。

ダマスカス, 1983年秋 〜 スークに行ったり, モスクに行ったり, 宿の同室のイラク人と話したりして, まったりと過ごした 9月15日

最初の5行は, 前日 9月14日に書いた, アレッポ「思い出し記」。

さて, 1983年9月15日。まったりと過ごした一日。モスクに入って「アフガンか, イランか」と言われたのは, まぁシリアのモスクにやってくる日本人なんて珍しかっただろうからなぁと思うものの, しかしアフガン人には少し似ていたかもしれないが, イラン人にはあまり似てないと思う, オレの容姿は(当時も今も, 笑)。

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「テルアビブ → カイロの直行バス あり」なんてメモがあるが, 仕入れた情報を一応参考まで書いておいたようで, 実際には, シリアとヨルダンを旅した後にパレスチナ/イスラエルを旅した後は, イスラエルによる軍事占領下のパレスチナのガザ地区から, 陸路, ローカルバスで エジプト・カイロに行った。

同室のイラク人。7年前にイラクを出て, スイスで 7年間 work。シリアに来て 2ヶ月。もうパスポートが切れてしまっていて, イラクと仲のわるいシリアにしかいれないとか。ここで仕事をみつけなきゃいかんが むずかしいとのこと。 

(「ここで仕事を」の続きは次章に載せた次頁) ... 中東での生活は当時も今も, 厳しい。と書いたらまぁシンプルに言い過ぎだけど!

ダマスカス, 1983年秋 〜 身体 絶不調 に陥りつつ, 中東情勢を "観察", ほか(9月16日, 17日)

最初の3行は前日 9月15日に書いたメモ。

オマイヤド モスク にて 集団礼拝 の last 部分を見た。(前で祈ってるのは男ばっかし)

「オマイヤド モスク」とは, ウマイヤド・モスク もしくは ウマイヤ・モスク, 英語表記は The Umayyad Mosque, このモスクについては 本 note 前段にて(写真の章や旅日記の章)。

さて, 1983年9月16日。突如, 身体, 絶不調に陥る。

明け方, まだ暗いうち, 全身脱力症状
苦しかった。ほとんど 1日中 ねてた。

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夜, TV で アメリカ映画 をやってた。どういうわけか 日本が なつかしくなる。

「TV で アメリカ映画」, それが視界に入って, 「日本が」懐かしくなる。「どういうわけか」と書いたものの, 理由は分かっていたかも。いや, 全身脱力症状の絶不調の健康状態の時だから, 頭もぼやっとしてたか。まぁ思うに, 母国「日本」は「アメリカ」が溢れていたのであって, やや大袈裟に言えば「アメリカ」のカルチャーが充満した国, その社会で育った日本人としては, シリア・アラブ共和国あたりを旅していて突如, 身体が謎の絶不調状態に陥り, その夜の宿のテレビでは「アメリカ映画」, そんな環境の中で「日本」を懐かしく思い出したりしたのは, 自然な感情の流れだったのかもしれない。

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「ホテルで働いてる2人」の「クルド人」「モスレム」(ムスリム, つまりイスラム教徒)が言った「マスジド, ノー, ウィスキー グッド」の "マスジド" とはモスクのこと。彼らはモスクは好きでなく, 「ウィスキーが好き」だった!

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ところで この日, 1983年9月16日 は, 

今日は, サブラ・シャティーラ虐殺 1周年。

サブラ・シャティーラ」とは, レバノンの首都ベイルートにあるパレスチナ難民キャンプ。「アテネでは集会やってるのだろうか」と日記に書いてあるのは, ギリシャの首都アテネに滞在中に知り合った日本人複数から, その予定を聞いていたから。

サブラ・シャティーラ虐殺 1周年」とは, 前年1982年9月16-18日に, 同年6月からのイスラエルによるレバノン侵攻の最中, イスラエル軍が包囲したベイルートの「サブラ・シャティーラ」難民キャンプにおいて起きた虐殺事件(3,000人を超えるとされる犠牲者の大半はパレスチナ難民, 他にレバノン市民。首謀者は同地におけるイスラエルの同盟者であったキリスト教右派民兵たち。キャンプを包囲していたイスラエル軍の協力なしでは起き得なかった)。

その直後に恥さらしなイスラエル支持ソングを書いたのが, ボブ・ディラン!

話, 変わって, 以下も上掲の頁の旅日記からの引用。

師匠のきいた話。パキスタン国境近くにも ソ連兵 いる。

インド方面から旅してきて(インドの後はパキスタン, イラン), トルコ・イスタンブールの宿で, ソ連・ヨーロッパを旅してギリシャからトルコにやってきた筆者と知り合った, やはり日本人のバックパッカーでカメラマンの「師匠」が, パキスタンで聞いた話。

当時, 1979年からアフガニスタンはソ連が侵攻中だった。アフガニスタンではその後, アメリカ合州国が軍事援助・資金援助したウサーマ・ビン・ラーディンなどの国際的なイスラーム原理主義の武装勢力(後のアルカーイダ)等がソ連を追い出し, その後はアフガニスタン人のイスラーム原理主義勢力ターリバーン(ターリバーンはパキスタンにもあるが, ここではアフガニスタンのターリバーン)が統治, アルカーイダによる2001年911 "アメリカ同時多発テロ" の後はアメリカ合州国がアフガニスタンを攻撃しターリバーンの政府は崩壊, 以降はアメリカ合州国の傀儡政権もどきの政府がアフガニスタンを統治, しかしこの夏つまり2021年8月, アフガニスタンはまたまた, 例えば女性が教育を受ける権利をほとんど認めないような, まるで紀元7世紀に戻したいかのようなターリバーンによる統治に戻ったのだった。嵐のような40年余。いやその前にも遡れば.. 

しかし遡ってたら, 話題がシリア旅 note からどんどん離れるので深入りはやめ, 旅日記の次の頁へ。

TV で バカラが歌ってた。ボニーM とか アバ も人気あるそうです。

Baccara, Boney M., ABBA ♫

プーチン, じゃなかった, 怪僧ラスプーチンは帝政ロシア末期の祈祷僧。シベリア, トボリスク県ポクロフスコエ村出身。

ラスプーチン じゃなくて プーチン のおっさんなら, 今ここの主(1983年当時は主はソ連共産党のユーリ・アンドロポフだった)。

ABBA にいこう ♫

違った(笑), こっち ♫

ABBA - Gimme! Gimme! Gimme! (A Man After Midnight) ♫

シリア・アラブ共和国の首都ダマスカスの宿で 1983年9月16日の「明け方, まだ暗いうち, 全身脱力症状」に陥った日本人バックパッカーはその夜も過ぎ, After Midnight

になってから, 徐々に回復に向かっていったようで, 

1983年9月17日 になって,

だるさはなくなったが, 腹の調子は良くない。

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「人間をとれ!!」は, 人間を撮れ。建物とかより人の表情の方が面白いので(しかし旅していて, そこに住む人を撮るのはそう容易でもない, とりわけイスラーム圏ではその傾向ありだったかも)。また, シリア旅日記にしばしば出てくる「政治, 政府のことは みだらに NEVER しゃべるな! for friends & for me」のメモの背景については既述。

旅日記には, 同じ宿に「バカンス」(!)で来ていた「リビヤ人」が語った話も。リビアのことですね。当時はまだ絶大な権勢を誇っていたリビアのカダフィ(カッザーフィー), 今はもう歴史の中の人物(調べると殺害されたのは 2011年10月20日だから, この世を去ってからもうじき10年になる)。

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さて, 原因不明の全身脱力症状に陥っていた身体も徐々に回復し.. ダマスカス, というか, シリアを発つ日も近づいてきた。

ダマスカス, 1983年秋 〜 絶不調の健康状態がほぼ回復, 気晴らしに映画館へ, ほか(9月18日)

最初の6行は, 前日 9月17日に書いたメモ。「思い出し記」は, ダマスカスの前のパルミラの前, アレッポにいた時の「思い出し記」。

『毛唐』は勿論, いわゆる差別語。他意なく, というか他人が巫山戯て使った言葉を耳にしたまま書いた, 他意ない, というか, 旅日記の中の巫山戯た表記!(もちろん差別意識なんかないよ, どの外国の人にも!)

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1983年9月18日, 気晴らしに映画館に行ったけど, 上映してた映画はくだらない映画だった。

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さてさて, 

1983年9月19日朝, シリア・アラブ共和国を発って, ヨルダン・ハシミテ王国へ

旅日記の中のシリア滞在中にかかわる最終頁, その最初の2行は, 前日 9月18日に書いたメモ, その最後の部分。

夜, TV で 去年の イスラエルレバノン侵攻, サブラ・シャティーラの特集をやってた。

この「特集」の中身はつまり, 前々章でも言及した, 1982年6月からのイスラエルによるレバノン侵攻と, その最中の同年9月16-18日に起きた, イスラエル軍が包囲したベイルートの「サブラ・シャティーラ」難民キャンプにおいて起きた虐殺事件。3,000人を超えるとされる犠牲者の大半はパレスチナ難民(他にレバノン市民)。首謀者はレバノンにおけるイスラエルの同盟者であったキリスト教右派民兵たちだったが, キャンプを包囲し, 夜間には照明弾を夜空に打ち上げるなどしたイスラエル軍の協力なしでは, 虐殺は起き得なかったとされる。

当時これらの蛮行は日本でも大きく報道されたが, アラブ諸国だけでなく欧米諸国でもイスラエルに対する批判・非難の声が巻き起こり, イスラエル国内においてすら反戦や同国政府に対する批判の集会やデモがたびたび行なわれた。そんななか, あろうことか, このイスラエルによる1982年のレバノン侵攻, 同年9月のサブラ・シャティーラ難民キャンプ虐殺事件の直後に恥さらしなイスラエル支持ソングを書いたのが, 誰あろう, ボブ・ディラン!(翌1983年4-5月録音, 10月リリースの "Infidels" すなわち "異教徒たち" と題したアルバムに収録) というわけでリンク, もう1回!

さて, 話を再び, 1983年9月 シリア・アラブ共和国 に戻す!

1983年9月19日 は, ダマスカスを発った日。シリア・アラブ共和国の首都ダマスカスを発ち, 同じアラブ世界の, ヨルダン・ハシミテ王国に向かった日。その首都アンマンに向かった日。

ダマスカスを発ったのは 朝。

アンマンへ(7:00発)
シリア側国境, ヨルダン側国境とも わりとらくにすむ。

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いろいろあったシリア, 

23歳の誕生日は シリアで迎えたのだった, 1983年9月11日。

23歳の誕生日は シリアで迎えたのだった, 1983年9月11日, こっちは昨年 note,

23歳の時のトム・ウェイツの曲で, 61歳の誕生日を祝う, 2021年 ♫

23歳の誕生日を迎えた場所, パルミラ(シリア, 古代ローマ帝国の都市遺跡) 〜 1983年9月11日(IS「イスラム国」による破壊の32年前)

そして, シリアの首都ダマスカスの旅も終わり, ってか, ダマスカス旅 note の終わりを迎えるにあたり, 最後は例によって.. かな, まぁとにかく音楽で ♫

Syrian Oud player Kinan Ednawi, "Festival in Damascus" ♫

これは以下の, 前章にもリンクを載せた アレッポ 旅 note にて, 若者たちとの交流, 宗教・イスラームのこと, そして アラブのもてなし 〜 1983年9月9日 という見出しの章で, 一度, 取り上げたもの。

ウード .. (プレクトラムは, ギター演奏の際に使うピックと同意)

ウード (アラビア語: عود‎(ˁūd)、トルコ語: ud、ペルシア語: بربط‎(barbat)、英語: oud、スペイン語: laúd) は、リュート属に分類される撥弦楽器。
プレクトラムを用いて演奏する。中東から(アラビア、イラクなど)北アフリカのモロッコにかけてのアラブ音楽文化圏で使われる。リュートや琵琶と近縁であり、半卵形状の共鳴胴を持ち、ネックの先が大きく反っている。ただし、リュートや琵琶と違いフレットを持たない。弦は一般に6コース11弦で、10本の弦を5対の複弦とし最低音の弦のみ単弦である。
The oud (Arabic: عود‎ ʿūd [ʕuːd]) (Somali: cuud) is a short-neck lute-type, pear-shaped, fretless stringed instrument (a chordophone in the Hornbostel–Sachs classification of instruments), usually with 11 strings grouped in six courses, but some models have 5 or 7 courses, with 10 or 13 strings respectively.

Syrian Oud player Kinan Ednawi, "Festival in Damascus" ♫

Festival と言いつつ, どこか哀愁を感じさせる音楽を聴きながら, 今日はこれにて。

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