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インド, ヴァーラーナシー, ガンジス川を眺めながら過ごしていた, 38年前の年末年始 1週間

ガンガー

ガンガー(ヒンディー語やサンスクリットではヒンドゥー教の川の女神の名ガンガーがこの川の呼び名, 英語でのこの川の呼称 the Ganges が日本語の「ガンジス川」の由来)と書こうかなと思ったけれど, 日本では今も「ガンジス川」の方が通りがいいかなと思い, やや迷った末にあのようなタイトル表記に。相変わらず面倒くさい人間だ, 拙者は,

健さんに, 今日も合掌 🙏

さてさて, 

ガンジス川(ガンガー)の前に, インダス川 あり

川ができた歴史ではなくて, 「文明」と呼ばれるものの歴史の話。

インダス文明末期の紀元前1900年から紀元前1300年ごろに、インダス川流域からの植民者がガンジス川とヤムナー川の河間地方(ドアーブ)へとすみついた。やがてインダス文明が崩壊すると、インドの文明の中心はインダス川流域からガンジス川流域へと移動した。紀元前1000年ごろに先住のドラヴィダ人にかわってアーリア人がガンジス川流域に住み着いた。

そういうわけで, ガンジス川(ガンガー)の前に, インダス川あり なのであります。懐かしの インダス文明

しっかし, こんな大仰な見出しをつけた章ながら, ここで自分の過去 note の宣伝をやってしまうのだった。 

上掲 note の第4章 パキスタン 〜 ラホール, 1983年11月26-29日(旅日記5ページ), 29日はインドに向かった日(国境の役人, その一人はカスだった) からの写し。インダス川 への言及がある, その 旅日記 2/5 より。

1983年11月27日, まだまだ続くパキスタンの, 同国では1等車両がインドの2等車両と同程度らしいという, そのパキスタン「1等車両」のグレードより当然ながら劣る, パキスタンでの 2等列車の旅

今日も今日とて, 列車のなかを こじきが歩く。手が足のようにはれてる男もいた。何人かが バクシーシを出す。たまにオレも出した。

旅日記前頁にもある通り, 前日もこの日も, 物乞いの集団が車両から車両を渡り歩いていた。多くの人がいわゆる「身体障がい者」だった。身体の何処かの部分が変形している人が多かった。そして誰かが歌っている。日記にそれを書いてなくてあれ?と思ったが, 記憶にははっきり残っていて, それがおそろしく上手い歌だった。記憶というものは長い歳月の経過のなかで見聞した実際より大袈裟なものになったり誇大なものになったり, あるいは美化されたりもする(一方でネガティヴな印象を残したものなら逆にマイナス方向に肥大化する場合もあるだろう)。ということは他のことにも, 要するに究極的には全ての事象にそうした可能性があるのだと思うが, だからこれも同じで, 38年前に自分の眼で見たパキスタンの列車の車両を渡り歩く物乞いたちの歌の印象も, 実態より過大なものになっているかもしれない。それを一応は書いておくけれど(長々と書いたなぁ!), しかしあの時に見た, 物乞いたちが車内をゆっくり進みながら歌う様, かつその歌から伝わってくるものは文字通り「神々しい」ものだったと思う。世間の宗教の側が言う「神」なるものを信じない無神論者が感じた「神々しさ」!

彼らの人生はこれしかないのだろうか。窓の外をながめると, 貧しそうな家並み。どんなにここの旅が楽しかろうと, この貧困の現実から 眼をそらしてはなるまい。

1983-84年の旅で, 世界の様々な国・地域を訪ね, 自分なりに「何でも見てやろう」をして, 上に引用したような想いを抱いたことは何度かあった。だからこそのその後の自分の人生があったのだと思う。その後, 紆余曲折があったり「人生のポケット」に嵌まり込んだりして, 自分の人生は全然一筋縄でいかなくなってしまったけれど, あの旅で得たものは, 今の自分にもずっと影響を残し続けていると思っている。

さて, 列車は東へ東へと進み,

かなり緑が多くなった。インダス川のせいだ。
列車はインダス川を渡った。それほど広くはない。

学校で習ったよね, 古代文明の発祥地。そういう意味では, 初めて見るのに懐かしの「インダス川」。思ったより川幅は広くなかったけれど, 中学校の歴史の教科書に出ていて当時はテストの為にも覚えなくちゃいけなかった(笑)あの「インダス川」, その時代はどんなだったのかな。兎にも角にも, 頭の中では懐かしい語感になっているインダス川を見た, 渡った, 1983年11月27日

..... 以降は略, 以上で 上掲の過去 note からの引用は終わり。

残念ながら インダス川 の写真は撮ってなかったんだよね。なんかバックパックからカメラ取り出そうって気は起きなかったのかな。列車の中がかなりぎゅうぎゅう詰めというかカオスな状態だったということもあったかな。今のスマホ時代なら確実に撮っているわけだけど。

それはさておき, インダス文明 は紀元前2500年頃~前1500年頃, (しかし紀元後の世界はや2021年の今は紀元7世紀に始まった人類の長い歴史では新参の宗教であるイスラームのしかし21世紀にしてなお「神政国家」であり続ける「パキスタン・イスラム共和国」という名の国があったりする, 長ぇ括弧になったな, 要するに今でなく当時のインドであるところの)インド北西部の インダス川 流域に興った都市文明。あらためてググって見つけた文をアレンジする程度で書いておくと, インダス川 の上流域に当たるパンジャーブ地方においてモンスーンを利用して米や麦など栽培したドラヴィダ人による農耕社会で形成された文明が, インダス文明, だということであります。

そういうわけで, 紀元1世紀から3世紀にかけて花開いたガンダーラ美術は, だいぶ歳月が経過してからのもの, ということになるけれど, インダス川の写真を撮ってない拙者, 上掲 note リンクを掲載した折角の機会に, あの note に載せていた, 1983年に旅した当時撮った, ガンダーラ美術の傑作, 古代ギリシャ系の顔をした「断食する釈迦」の像の写真を, ここにあらためて掲載することに!

ところでその前に, 俺は「面倒くさい人間」であるぞ の面目躍如しておくと(笑), 近年, いや近頃も パリコレ

じゃなかった, 略称 PC

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いや, そっちの PC じゃなくて, Political Correctness, つまり ポリティカル・コレクトネス, カタカナ略称 ポリコレ の勢い衰えを知らず, つい先日は以前 日本語(漢字)タトゥーに絡んでもそこまで手厳しく批判・非難されなくてはならない?と俺なんかは想う程に随分と批判・非難された過去がある アリアナ・グランデ(上の写真の人はもちろんアリアナ・グランデではない, 念の為)の顔がここのところ(というかしばらく前からではと思うが)「東洋人」顔 化していること(特にファンではないのでフォローしておらずメイクアップなのか整形なのか知らないけれど)が, 少なくとも一部でかなりの非難の対象になっている現象を見た(SNS上でたまたま目にした英語投稿)。コメントにも英語で「本当にアリアナなの? 日本人の女性かと思った」「K-pop のシンガーかと思ったぜ」などとどかどか書かれまくり, 「最低!」とか野次られていた。自分はそれ見て, まぁメイクとしてもまして整形であるならば尚のことそうかな, 俺の趣味ではないなとは感じたものの, でもさぁ, 別に彼女がそういう容貌になってみたくてそんな容姿にしてるんなら, そこで アリアナが自分がアリアナ・グランデであることを隠して「私は有村蔵美です」とか名乗って完全に日本人のフリして騙し芸能活動してるわけでもないし(笑), そこまでとやかく言わなくていいじゃん, と思った。少なくともあそこまでけちょんけちょんに貶さなくてもいいじゃん, と想う。

一応, 念の為に書いておくと, 例えばアメリカ合州国の例えばアングロサクソン系(くどいけど「例えば」)のモデルがアメリカ大陸の先住民族の伝統的な衣装類をそのままファッションに取り入れて尚且つ彼なり彼女なりが先住民族の文化や被抑圧の問題に関して無頓着であるケースとか, あるいは, 例えばイスラエルのモデルがパレスチナ人の伝統的な衣装類(実際にあった例, クーフィーヤ)をファッションに取り込んで尚且つ彼なり彼女なりがパレスチナ人の文化やイスラエルによるパレスチナ人に対する抑圧や彼らの土地の占領の問題に関して無頓着であったり, ましてや「これはイスラエルのカルチャーです」と詐称するケースなどに関しては, 筆者は思い切り批判者です。要するに, そこに当人の意識や意図はどうあれ明確な抑圧・被抑圧, 差別・被差別, 占領・被占領の問題が絡む背景がある場合は, 全くの別問題。

しかし一方で, アリアナ・グランデの以前のタトゥーの時といい, 今回の彼女の顔の見え方・見せ方の問題といい, 批判の理由はおおよそ冊子が, じゃなかった, 察しがつくけれど, なんかなぁ, 

ナン

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かなぁ, 

ああいう論調はもう何年も前から「当たり前」になっていて, 理屈とか背景もおおよそ分かっているけれど, 何処かで線引きしたい感じはある。自分はああいうものとか, パリコレ,

じゃなかった, ポリコレ 全般に言えるんだけど, 何処か浅めのところで線を引きたいと考えるケースの方が多い気がする。

さて, ガンダーラ美術の彫刻の「人の顔」って, 俺が 1983年11月にパキスタン・ラホールで観たあれなんか 仏陀, つまり 釈迦牟尼, ガウタマ・シッダールタ の像のことだけど, そもそも 釈迦 が属した人種については諸説ありそうだし, まぁ仏像が作られ始めたこと自体にヘレニズム文化の影響があったという背景はあって, だから ガンダーラ美術の仏像は 古代ギリシャの文化の影響を受けているということなわけだけど, しかしまぁ釈迦, ガウタマ・シッダールタ の顔が当時の「ギリシャ人」顔ってのはどうですか。あれはあれでいいよなぁ。あれは素晴らしいよなぁ。え? 背景も時代もあまりに違う?

まぁガンダーラの釈迦の像の「ギリシャ人」顔で アリアナ・グランデの「日本人」顔, 「韓国人」顔の「問題モンダイどんなもんだい!?」を想起する俺は, 相当に

あ, 間違えた, これは Wired

俺が言いたかったのは Weird 😁

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かもしれないけれど ... いいかげんにしてくれ?

じゃなかった, いいかげんに載せてくれ, ガンダーラ美術 釈迦 の像?

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え〜い, もう一枚, 斜め横から撮った「断食する釈迦牟尼」「苦行する釈迦」の像。

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というわけで, ガンダーラ

ナンと何と, あの懐かしのゴダイゴ, ガンダーラ ♫ でありました。

ナン 😋

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何処から何処までが オヤジギャグ で, ドコからどこまでが 真面目なのか, 

俺は知らない(笑)。

インダス川 と言えば, ナイル川

ナイル の賜物, 古代エジプト文明

掲載写真34枚中, ギザのピラミッドを観に行って撮った写真が19枚, お暇ある方はご覧あれ。喧騒と混乱の大都会, カイロの街で撮った残りの写真15枚の中に, これもあり, ナイル, あるのに ナイル, 

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上掲の過去の note を今日また取り上げられたのも, ナイル の賜物 .. そうだったのか?(笑)

ナイル川 と言えば, ティグリス・ユーフラテス川

ティグリス・ユーフラテス川 ってまとめて称して学校で習ってますね。なんかこういう名前の一つの川だと勘違いしてしまいそう。ああいう教え方で大丈夫だったのかなぁ。まぁ俺は学校教師やったことないからガキのころ「教わった」方だけど。

兎にも角にも, 兎に角が生えてた時代もあったかもしれないと思えるくらいに(何だそりゃ)やはり遥か古(いにしえ)の文明, メソポタミア文明 を生んだ川, 

それが ティグリス川ユーフラテス川 であります。まぁ「文明を生んだ」その主語・主体は「人間」だけど, しかしあの川々(川の複数形, いま造った, 笑)が無ければ生まれなかった文明だと想えば, あの文明の主(ぬし, あるじ)は川の方かも。ティグリス川ユーフラテス川 は擬人法で語ると「主人」で, 人間の方は「家来」。

川が人間に命じて作らせたとさ, 文明を。しかしそれから 5,000年ぐらいの後には, その文明の後継の文明が, というか「家来」の後継者である現代人の文明が, 「主人」であったはずの川, 自然の方を壊しつつあるのさ,  

さてさて, SDGs, Sustainable Development Goals, 持続可能な開発目標, なんとか止められますか「家来」どもの横暴を。

ナン

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て 大きな話はさておき, 

そんな「文明」の「主人」であった ティグリス川ユーフラテス川 も, その源流はともに大雑把に言うと, 「家来」の後継者の人間が造ってしまった厄介な世界宗教の源流, つまりアブラハムの宗教が世界宗教になる前の宗教による所謂「聖書」世界宗教キリスト教側が言うところの「旧約聖書」の御伽噺の中で所謂「ノアの方舟」が着いたとされる, あのアララト山がある現代のトルコ共和国東部の山岳地帯にあるようで, 

更に言えば,  ティグリス川ユーフラテス川 も, その流域にある国を挙げるなら, トルコ以外には シリア(でもティグリス川の方はちょっと掠ってる程度)と イラク であります。

ダマスカスは ユーフラテス川からもだいぶ離れてるけど,

残念ながら, イラクには行ってない。1983年当時にイラクにただの旅人が入るのはほぼ無理。

インダス川だの, ナイル川だの, ティグリス川・ユーフラテス川だの取り上げてこれ出さなかったら, 中華人民共和国のあのいつも 苦虫を噛み潰したような顔の 報道官(正確に言うと「副報道局長」の趙立堅氏, 笑 .. たまには笑えよ!) に怒られるかな 〜 黄河

昔は, といっても古代文明ほど昔じゃなくて, 俺の人生の中での昔の話だけど .. すまん, 俺は面倒くさい人間なのだ, 俺は

「不器用ですから」

 でも皆さん, 「どうか幸せで」。そして 健さんに合掌 🙏

それはそうと, 昔は インダス文明, エジプト文明, メソポタミア文明, これに 中国文明 を加えて, (古代の)四大文明と呼んでいた。しかし考古学が他の様々な, 多くの地域における古(いにしえ)の文明を「発掘」したために, 今ではこうした言い方はあまりしなくなっているようだ。

中華人民共和国というところに関しては, 確か 1989年だったと思うけれど, 仕事の出張で 大連市に行ったことがあるのみ。大連市は遼寧省にあって, 黄河の流域があるのはいまウィキってみたのでそこからコピペすると 青海省, 四川省, 甘粛省, 寧夏回族自治区, 内モンゴル自治区, 山西省, 陝西省, 河南省, 山東省なので, 要は大連市は「黄河」さんと近しい関係にはないのだ。

というわけで, 当然ながら何も嫌ったことなどないけれど, 黄河は見たことないし, 近づいたことないし, となれば写真も撮ったことない。何やらさして書けることがない(まぁ調べればあるけれど, 笑)。

趙立堅副報道局長, 怒るかな。

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趙立堅君が怒ったら, 香港から一撃を加えよう。

1973年の映画 "Enter the Dragon"「燃えよドラゴン」「龍爭虎鬥」で主演したブルース・リー, 李 小龍, Bruce Lee こと, 李 振藩(Lee Jun-fan, 1940年11月27日生まれ - 1973年7月20日他界)は, 香港の中国武術家・武道家・俳優・映画監督・武術指導者・哲学者 .. まぁこの肩書の列挙含め, 細かいことはウィキ使っちまいましたがね。それと, 更に細かいこと言うと, ブルース・リーが生まれたのはアメリカ合州国サンフランシスコの中華街の病院。ただ間もなく家族は当時イギリス(大英帝国主義帝国, あ, 間違えた, 大英帝国)植民地下の香港に帰国, しかし直ぐに当時の大日本帝国主義帝国, あ, 間違えた, 大日本帝国が米英に宣戦布告, 香港は日本軍の占領下におかれてしまい, その間は映画の製作も停止, しかし1945年8月の第二次世界大戦終了後, 以降 量産されるようになった香港映画においてブルース・リーは子役として活躍していた。その後, 彼は18歳で単身渡米, 現代もかなりの「帝国主義」国, アメリカ合州国に移住することになるんだけど.. 

いつの間にか, ブルース・リーの話になってしまった。まぁともかくですね, ブルース・リーが香港から趙立堅に一撃, いやこの際, 太っちょ習近平もやっつけてくれ。

😡 

😂 😂

さて, この後, ようやく 1983年12月のインドへ ... しかしまぁここまで, ナンてこった 😁

ナン 😋

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てこった 😁

1983年4月26日に日本を発って, ソ連・ヨーロッパ諸国・トルコ・シリア・ヨルダン・パレスチナ/イスラエル・エジプトを旅し, カイロからイスタンに飛んだ後は2度目のトルコを東へ東へ 〜 そのまま陸路イラン入国, さらにパキスタンを旅し, そして インド に入って, アムリトサル, ダラムサラ, デリーに滞在, デリーからは日帰りの旅で タージ・マハル 拝みに アグラ にも..

見出し, 長ぇ。以下は, ここまでの インド 旅, それと, ソ連からパキスタン, つまり インドに入る前までの道のり, その各国各都市・街・遺跡などの旅 note へのリンクに関しては 以下 note *1 アムリトサル 旅 note 第1章に。

note *1 インド入国, まずは シク教「黄金寺院」の街 アムリトサル へ 〜 1983年11月29日-12月3日

note *2 ダラムサラ(インド北部) 〜 チベット難民が住む標高2,000m超の山中で暮らした, 1983年12月の10日間

note *3 インドでは市井の人に「哲人」顔の人がいたりする 〜 デリー 1983年12月12日から25日

note *4 タージ・マハル は確かに美しかった, インド・アグラ 〜 1983年12月23日

さてさて, 

デリー から ヴァーラーナシー へ(1983年12月25-26日) 〜 其処彼処で垣間見える, インドの巨大な貧富の格差

ヴァーラーナシー には 1983年12月26日の朝に着いて, 翌1984年1月2日の夕刻まで, 7泊8日滞在した。

因みに章見出しに書いた「其処彼処」, 本章でちらっと載せる例の「其処彼処」は何処かというと(この例に関しては)デリーの方だけど。

今年 4月から note 上に連載を続けている(と思っている人が自分以外にいるかどうかはさておき, 笑)、38年前のユーラシア大陸(エジプトも行ったからアフリカ大陸の北東端にも触ってはいるんだけど)「ほぼ」一周の旅を「ほぼ」アニヴァーサリーってか「ほぼ」38周年記念的な各国各都市・街・遺跡などの旅 note で繋ぐシリーズ, 先月のパキスタン旅 note 辺りまではわりと詳しく書いていたんだけど(しかも確かシリア, ヨルダン, パレスチナ/イスラエルなどは当時の旅日記も相当なページ数分を掲載しつつ書いていたんだけど), 

インドの旅は極めて濃厚だったにもかかわらず, 年の瀬が迫ってきて note 活動家(笑)以外の日常の活動が慌ただしくなってくるにしたがって, 旅 note の中身は徐々に写真と音楽プラスα 程度 note と化してしまった ... しかし他のことで忙しいにしては, 今日のこの note の前々章までの展開は一体どういうことだ?

不器用ですから ... そして健さんに合掌 🙏

今日はとりあえず以下に, デリー から ヴァーラーナシー に移動する際の, 当時の旅日記, 1983年12月25日付の分の最後の 1 頁分だけ貼り付け。

行きしなの道(や), バスターミナル(では), too many インド人が布にくるまって寝てた。バスターミナルにて, 彼らの横を 金持ちインド人が歩いて通り過ぎる様は 興味深かった。何も見えてない。空気だ。

インドの旅は強烈で濃密・濃厚で, それはそれは面白かったけれど, 所謂「インドかぶれ」にはならない。上に引用した当時の旅日記に書かれている風景, さらっと書いてあるそれはもちろん単なる一例。そういうところが日常に, 其処彼処に, そこらじゅうにあるのが インドだった。貧富の差は 2021年の今や, 38年前の1983-84年に自分が観たインドのそれとは比較にならないほどに, 更に大きく大きく広がっていることだろう。カースト制だって生きている。法律で禁止した? いや, 現代の法律で禁止したって, 悠久の歴史を持つカースト制とそれに基づき根付いてきた差別意識が, そう易々となくなることなどあるはずがないじゃないか。

* 1行目にある「教授」とは, イスタンの宿で会ったトルコ語ペラペラで文字通り「教授」風の風貌だった日本人バックパッカーのこと。デリー でたまたま再会して, またまた, じゃなくてたまたま, デリー から ヴァーラーナシー への移動を共にすることになった。

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「ターバンのシィク教徒」とあるのは, 特にアムリトサルに大勢いるシク教の信徒のこと。「金持ちが多いことも確か」と旅日記に書いてあるが, 上に引用した「金持ちインド人が歩いて通り過ぎる様」の「金持ち」とはイコールの意味でない, 念の為。

「シラズ で 公開処刑」の シラズ は, 当時も今も「イラン・イスラム共和国」南西部の都市 シーラーズ のこと。1750年から1794年までは, ザンド朝ペルシアの首都だった場所。自分は シーラーズ には行ってなくて, 

イランでは テヘラン,

そして エスファハン と ザヘダン を旅した。

さて,

ヴァーラーナシー で ガンガー を眺める 〜 1983年12月29日

年の瀬です, 「師走」です(今, 2021年12月の日本の話), 前章までで疲れてしまって, 以下に写真だけ 4枚。最初の 2枚は, ヴァーラーナシー の街で撮った写真。

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ヴァーラーナシー で ガンガー を眺める 〜 1983年12月30日

前章に続いて 写真だけ(6枚)。

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ヴァーラーナシー, ガンガー で 「初日の出」 を拝む 〜 1984年1月1日

これは今日は投稿しない(笑)。たぶん, 年明けてからのインド旅 note 次回の分で掲載 ... という, これは note 新年号の予告・宣伝・番宣みたいな章でありました。しかもたったこれだけのテキストという。だから 本章に関しては,

さてさて, 

今日の note の最後は, 

ヴァーラーナシー の街で ガンチャラッシー を飲んだことを思い出して "Lucy in the Sky with Diamonds" by the Beatles ♫

あの歌の 頭文字 3文字のあれはもちろん(自分にとっては「もちろん」)やったことなど一度もない。それにガンチャ(少なくとも当時のインドの多くの地域では合法だった, その後インドで新たに法律が作られ, そこそこ事情は変わってると思う)の類にしたって, 日本帰国後にやりたいと思ったことなど一度もなかったし, 実際, 日本国内でやったことは一度もない。念のため, 書いておきます。

去年の12月30日にこれを note 投稿した時も, 

最後は "Lucy in the Sky with Diamonds" by the Beatles ♫ だった。もう横着して, そこから転載してしまう。

ガンチャラッシーを飲んだのは後にも先にもこの時だけ(それも 1回)。ヴァーラーナシー滞在中を含め、他の機会は全て、吸っただけ。吸ったのも、インドにいた 1ヶ月半だけのこと。それ以来、全くのご無沙汰。
たまたまガンチャラッシーを飲んだ時はワケあって酷いバッド・トリップになったけれど、その他はほぼ全てグッド・トリップ。
ただ、筆者個人は、あれに「常習」性があるとは思えない。インドを経って以降、またやりたいと思ったことなど一度もない。人それぞれかな。
さて、よく言われることだけれど(たぶん!)、この歌のタイトルは略して LSD, しかし LSD なんてのは、日本国内ではもちろん、海外においても、一度たりともやったことない、筆者の場合。だけどまぁ、ガンチャラッシーの思い出から、なんとなく連想ゲーム的にこの歌のタイトルとメロディと歌詞が浮かんできたのだった。
.. 何処に? ガンガーに(笑)。グッドトリップの時は、人間、なぜか笑いだしたりするのだった(ははは)。ガンチャラッシーの時はたまたまバッドトリップだったというのに、奇妙な開になってしまった今日の投稿テキストのび。
ガンガーで起して結、起承転結。あ、「床」と「承」、「展」と「転」、それぞれ漢字が違った。無茶苦茶や。ま、いいでしょ、ルーシーさん!

Lucy in the Sky with Diamonds 〜 written by John Lennon (October 9, 1940 – December 8, 1980), included on the eighth studio album by the Beatles, released on May 26, 1967 ♫

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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