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新潟さまに完敗

私の家は米農家である。

周りの家もみんな田畑を持っていたし
お米を作ることは当たり前だと思っていた。
我が家はコシヒカリとササニシキを作っていた。

 
 
春に近づくと
網袋に入った種もみを、水を張った浴槽に沈めた。
大人が両手で抱えるほどのその塊は
複数あった。
それを何日か繰り返す。
発芽を促すためだ。

この光景を見ると
お米作りが始まったんだなと思った。

 
 
水を吸った種もみはやがて発芽する。
ニョキニョキと根っこが出て、芽を出す。
黒い長方形型の容器に土を入れ
一定の間隔ごとに植えられた種もみは
土に根を張り、空に向かって芽を出す。

 
 
その容器はいくつもいくつもあり
晴れの日は庭に並べられ
祖父母や両親が丹念に水をかけていた。
日差しよけで上にビニールをかけたりもしていたと思う。

 
  
 
そんなことを繰り返し
すくすくと芽が大きくなったら、田植えである。

私の家の田畑は車で5分のところにあった。

 
田植えの日は一大行事だ。

お弁当や飲み物をたくさん持って
家族みんなで移動する。
せっせせっせと田植えをし
昼休みにはみんなで木陰に座りながら
おにぎりやお新香などを頬張るのだ。
これが実に美味しい。

 
幼かった私はほとんど田植えには参加していないが
初めて田んぼに足を踏み入れた瞬間は忘れない。
田んぼはグニュッとして
足の指の隙間という隙間から
土が下から上に突き上げてくるような間隔だ。
爽快というよりは
足が変な感じがする。気持ち悪い。

 
それでも足を一歩、また一歩と踏みしめて
大体の間隔ごとに田植えをするのは面白かった。
左手に束を持ち、腰をかがめて右手で植えていくのだ。
足りなくなったらまた束を取りに行き
また順番に植えてを繰り返し
気づいたら我が家の田んぼは爽やかな緑で彩られていた。

 
田植えをする時期は大体同じで、我が家と同じように
近隣の家でもほぼ同時期に田植えを行っていた。
田植えの日は天候にも左右されるが
戌の日は行ってはいけないというルールがあるため
自動的に田植えの日はかぶる。

カレンダーに書いてある戌の日を意識したのは
農家の娘ならではだろう。 

 
親から戌の日のことを聞くまでは
カレンダーでは祝日や大安や仏滅を気にするくらいだった。
カレンダーによっては何故干支の何かしらの動物が毎日書いてあるのだろうと不思議に思っていたが
とりあえず戌の日は種まきを避けることだけは私の胸に刻まれた。

 
 
私の中学校は田んぼの真ん中にある。

だから、どこの学校も田んぼの中にあるのが当時は普通だと思っていた。

春に田植えを終えたばかりの田んぼを見ながら自転車を漕ぎ
やがて田んぼが青々とした様子に変わっていくのを
通学途中に何度も何度も見た。

私はその光景が好きだった。

 
真っ青な空と太陽と青々とした緑は生命力に溢れていた。
風に揺れる光景もまた
田舎ならではの美しさを感じた。

 
 
青々とした稲はやがて秋になって黄金色に変わり
それもまた春とは違う美しさを放った。
ジブリ大好きな私はナウシカの気分である。

 
「青き衣をまといて 金色の野に降り立つべし」

 
中学時代の私は青いジャージを着ていたので
ジャージ姿で稲を見つめる私は誰がなんと言おうとナウシカなのだ。
ナウシカのように美人じゃないし姫でもないし
稲の上をウフフフ…なんて笑いながら歩くことは不可能だ。

だが、私は稲を見ながらいつもナウシカに思いを馳せた。
決して中学生が帰り道にぼんやり田んぼを見ながら
ニヤニヤしているわけでは決してない。 
ナウシカといったら、ナウシカなのだ。

 
 
 
田植えと同じように、稲刈りもまた大行事である。
稲刈り専用機で稲を刈り
刈られた稲は脱穀をされた。
それは何日間何時間にも渡った。

私の家には脱穀機があった。
祖父母を中心に
大人の手によって脱穀が行われた。
脱穀機は理科の実験のようで見ていて面白い。

 
脱穀をした後は、するすを使って籾殻を取った。
それは自宅の庭の作業スペースで行われた。
夕飯を食べた後、電気をつけて
夜遅くまで祖父母が行っていた姿が印象的だった。
籾殻を取り、お米を良い物悪い物に分け
その後は更に乾燥させる………といった具合に
米作りは大変な大変なことである。

 
  
祖母はよくティッシュボックスより小さな形の機械にお米をいれていた。
確かその機械は灰色で、ボタンを押すと電子版に数字が表示された。
祖母が何をやっているかは分からなかったが
理科みたいで面白かったので
私はよく見学したし、やらせてもらったりもした。

チューインガムのような長方形型のものの先が
なだらかな谷型になっており
そこにお米を適量入れ
セットして操作をする。

 
私がそれをお米の水分量を測るものと理解したのは 
しばらく後の話である。

 
 
祖父母と両親が作った新米は
非常に美味しかった。
米粒がツヤツヤと光り、ピンと立ち 
まず明らかに見た目が美しい。
口に入れた瞬間の美味しさといったら!
絶品オブ絶品である。

 
農家の娘と言っても 
新米ばかり食べてはいない。
基本的には古米を食べたし、古米に慣れていた。
新米を炊く時は水分量を若干少なめにするのだが
古米を炊くことに慣れていた私には違和感があった。

私が高校生の頃、食器洗いと米研ぎは私の役割だった。

 
 
 
私が中学校三年生の時に祖父が倒れ
それを機にお米作りからは手を引くことになった。

田んぼは人に貸すことになった。

もともと両親は共働きだし
祖父も会社員で
米作りに携わっていた人達は
祖母を抜かして全員が二足のわらじだった。

 
農業のみの祖母にしても
共働きの両親に代わって私や姉の面倒を見たり
料理を作ったりと
農業以外にもやることはたくさんあったし
体を壊す前は
両親が休みの日はパートで働いてもいた。

 
田畑は祖父母中心だ。
祖母だけでなく、祖父も体の調子を壊したのは致命的であった。

 
 
 
  
私が大学生の頃、新潟出身の子と仲良くなった。

私は彼女が一人暮らしをしていたので家まで遊びに行った。
彼女はカレーを振る舞ってくれた。
私はそのカレーを見た時に驚いた。

米のツヤがズバ抜けていた。
ツヤツヤとまばゆいばかりに光り、きめ細かい粒だ。
お米のレベルが高いことは一目で分かる。

 
あまりにお米が美しすぎたので
カレーと白米をスプーンですくわず、まずはお米だけを口に運んだ。

 
!!!!!!!

 
な……なにこれ………………

 
  
私は驚いた。
お米と言ったら新潟だと聞いていたが
米農家で生まれ育った私は、我が家の米こそ一番美味しいと自負していた。
実際、舌は肥えていた。
米の良し悪しについて、私はちょっと自信があった。

だが、完敗であった。

 
我が家の新米の米よりも、友達がこの日出したカレーの、新米ではない新潟産のお米の方が美味しかった。
新潟で生まれ育った友達は「え~?そんなに美味しいかな?ただのカレーだよ。」とコメントした。
彼女は農家ではなかった。

 
その言葉やその事実は、私を完膚なきまでに打ちのめし
私は自宅に帰ってから家族に
新潟産のコシヒカリの破壊力を力説した。

我が家の家族は、まだ全員新潟県に行ったことがなかった。

 
 
 
 
  
後輩「新潟産のコシヒカリ、ヤバイですよね。」 

 
私「ヤバイ。ビックリした。」

 
後輩「うちの米が一番だと思ってましたけど」

 
私「そうそう、思っていたけど」

 
後輩&私「新潟産コシヒカリには、勝てない。」

 
 
料理サークルの後輩の家は私と同じ関東にあり
彼女の家は専業農業だった。
中学以降、周りには農家の子がいなかったので
サークルで彼女と知り合い
お互いに家が農業をやっていると知って嬉しかった。

農家の娘は誇りがあり、我が家の米や野菜は一番美味しいと自負している。
それが普通だし、当たり前だ。
そんな私と後輩が二人して、新潟産コシヒカリはヤバイと意気投合した。
やはり非農家の人達はそこまでお米にこだわらず、「新潟のお米も美味しいけど、関東のお米も美味しいじゃん。」等と呑気なことを言っている。

 
私と後輩は落ち込んだ。

自分達が今まで信じていた、家族が精魂込めて作ったお米が
新潟コシヒカリには勝てなかったのだ。

 
 
世界は広い。
日本も広い。

同じコシヒカリでも、同じコシヒカリだからこそ
我が家のコシヒカリと新潟のコシヒカリは
差が歴然だった。

 
 
 

 
あれから10年以上が経ったが
いまだにあの日の新潟産コシヒカリを超えるものは食べたことがない。

いつか新潟に行ったら、たらふく白米を頬張りたいと夢を見ている。
コロナが落ち着いたら行きたい場所ややりたいことが溢れている。

 
 
私は白米を一日一回は食べないとパワーが出ない。
毎日必ず白米を食べている。
 
 
白米はなんと美味しいことだろう。

 
今日も白米を食べられて
美味しいと感じられるのは幸せそのものだ。 


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