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母と娘。

「天才には、99パーセントの努力と1パーセントの才能が必要なのよ!一に努力、二に努力、三四がなくて、五に努力よ!」

 
母は私や姉が小学生の頃、よくこう言っていた。
耳たこの私や姉は「はいはい。」といつも受け流していた。
受け流されても懲りない母は、声色を変え、言い方を変え、笑いに変えながらこの台詞をよく言っていた。

母よ…
言い方を変えればいいってもんじゃないのだよ。

 
 
 
 
私の母は五人兄弟の末っ子として、東北地方に生まれた。

元々は母の両親は東京在中だったが、戦争中に空襲を避けて田舎に移住し、土地を開拓して生活したらしい。
戦争に行きたくなかった祖父は、身体検査でひっかかるように醤油をたらふく飲んで
戦地行きをまねがれたらしい。

醤油のお陰で祖父の命は助かり、やがて母が産まれ、私が産まれたのだから
醤油様々である。

 
母の実家は酪農家である。
野菜も作っているが、メイン収入は牛の乳である。
まだ搾乳機がなかった時代
酪農家は大人と子どもが家業を手伝うのは当たり前で
乳搾りや牛の出産も母は経験している。
だから大人になった今も、牧場の乳搾り体験なんかわざわざやらない。
手つきが違うプロがやってしまっては場が白けてしまう。

  
母は小学生の頃から料理を担当していたらしく
なるほど、今でも料理は上手いし、美味い。
段取りが良く、手際が良い。
調理師の資格も持っているので、飲食店で働いたり、飲食店を始めることも可能だ。
だが、今のところは仕事にはせず、家族や親戚に
手料理を振る舞っているだけである。

 
 
母は進学を希望していたが、祖父から「女に学問は必要ない。」と言われて学費援助を受けられず
母は他県(我が県)に一人でやって来て
学校に通いながら、生活費や学費を稼いだそうだ。
かなり過酷な生活だったらしく
この辺の話を母はほとんどしない。

父から軽く聞いた時も、「ともかからはお母さんに聞くな。」と言われたので
私から母に聞いたことはない。
母が話す時だけ、私は耳を傾ける。

 
 
母はやがて進学先の先生との縁で、某幼稚園に働き出し
そこの幼稚園関係者の知り合いに、父を紹介され、結婚するに至った。
のちに私や姉が通う幼稚園もそこであり、姉に至っては新卒で働き出して15年以上が経過している。

 
母は姉を保育園に預けられる年齢になるとすぐにまたフルで働き出したが
父の親戚が会社を立ち上げたので 
そちらで働くようになる。
だから、私が物心ついた時は会社員の母の姿しか見ていない。
なお、その時に仕事の都合で、危険物取扱やヘルパー、調理師の免許を取得したらしい。
母の所持する資格は多岐に渡る。

 
私や姉が成人した後に母はその会社を退職し、保育園で働くようになった。
今でも保育園でバリバリ働いている。
親戚曰く、「他のクラスは子どもがわぁわぁ騒いでいても、母のクラスはピシッと座っていた。遊ぶ時は思い切り遊ぶし、まとめる時はまとめる。かなりやり手だよ。」とのこと。
親戚は、母の保育園に子どもを預けていた時期があったのだ。

 
母の趣味は畑と庭の植物の手入れで
月~金曜日(場合によっては土曜日)までフルで働いた後
庭の植物を愛でる。
祖父母がまだ生きていた頃は畑作業は祖父母の管轄だったが
祖父母が介護状態になり、亡くなってからは
母が畑作業を行うようになった。

 
土日は基本、畑か庭で何らかのことをやっていて
あまり家にいない。
ジッとしていられない質なのだろう。

ママ友とランチにも行かない。
だから、「ママ友とランチ」をする人の話を実際に聞いた時に驚いた。
なんとなく、都会のイメージがあったが
田舎の我が県でもママ友とランチは普通にしている人がいらっしゃった。
そうか、通常は土いじりをしないでママ友とランチをしたりするのか、と新鮮だった。

  
ミーハーで、家族の中で一番芸能通で
ドラマをよく見ており、俳優に詳しい。
保育園の仕事と畑(農家)と二足のわらじに近い働きをしていても
家族の誰よりも遅くまでテレビを見ている。

母は非常にタフである。

 
 
 
 
幼い頃から、私は母が大好きだった。

物心ついた時から正職員で働いていた母に代わり、私の面倒を見てくれたのは
主に祖母だった。
おばあちゃんはおばあちゃんで好きだが
母親が帰ってくると、「おかえりなさい。」と言いながら
私は母親の元へ行った。

 
母の帰りは遅い。
父よりも仕事帰りが遅い。

姉はマイペースだし、あまり幼稚園や学校のことを話すことは好まない性格だ。
私は母が大好きで話を聞いて欲しかったタイプなので
母がご飯を食べている横で、幼稚園や学校であったあれこれを話していた。

「ともかちゃんは友達や先生のことをたくさん話してくれるから学校生活が分かりやすいけど、お姉ちゃんはあまり話さないからよく分からないわ。」

と、母が私に漏らすほどであった。
姉は私には学校の話を多少はしたが、主な話は趣味のことだった。
姉は人間関係や組織にこだわりがないというか
心に占めている割合が少なかった。
 
二歳違いでも
私と姉は性格が違う。

 
 
 
母親はサザエさんに似ていた。

小柄でアグレッシブで明るくて面白くて、笑顔を絶やさない人だった。
愚痴を言ったり、泣いたりする姿は見たことがない。
後に私が大きくなった際、農家の本家に嫁ぐことは不本意で、結婚式当日も泣いて悩んだ話をしてくれたし
実際様子を見ていると、色々大変そうだったが
そんな姿は子どもの前では一切出さなかった。

 
 
私の母は、学校や友達の間ではかなり有名だった。

 
友達が運動会の日に、我が家に集合した時
庭掃きをしていた母は

「行ってらっしー!頑張るんだどぉどぉどぉ~!」

と、レレレのおじさんの真似をしながら
振り付きで私達を見送った。

 
「ともかちゃんのお母さんって面白いよね!」

と言われて、私は顔が赤くなった。
恥ずかしかった。
小学生の頃まで内向的だった私は、目立つことが嫌いだった。
私は地味で暗い子で身長も高いのに
母親は真逆すぎた。

 
 
母の伝説は続く。

授業参観の時、私はいつもと違う雰囲気で緊張していた。小学校三年生くらいである。
母はおそらくそんな私に気がついて、緊張をほぐそうとしたのだろう。
教卓にいる先生にバレないように、教室前側の扉からひょっこりはんのごとく、上半身を斜めだけだし、変顔をした。
それに気づいたクラスメートがクスクス笑い、先生が後ろを振り向く前に、母はサッと姿を隠して、何食わぬ顔をして他のお母さん方の群れに紛れた。

 
母は私と違って要領がいい。
バレないように上手くやり、親や先生に怒られないように振る舞うことにずば抜けていた。

 
私「お母さん!今日の授業参観何やってるの!!みんな笑ってたじゃない!!」

  
母「あ~ら?サービスよ。みんな、緊張してるからね~。お母さんくらいしか、あんな役できないでしょ?」

 
私「お母さんだけしかあんなことしないんだよ!恥ずかしいじゃん。」

 
 
私はムキー!となった。
当時の私は典型的A型で、母は典型的O型だった。
私にはあり得ない行動ばかりだった。

 
いつしかクラスメートの中で、「真咲のお母さんは学校行事で何かしら笑いをとる人」と期待されるようになり
母は期待に応じてどや顔をしながら調子に乗る。

 
 
小学校5年生の時、親子参加のスポーツ大会があった。
確かケッチをやったのだと思う。
母はキャッチャーに煽る。

母「キャッチャーくん!思い切りやってごらんなさい!!30代の力を見せてあ・げ・る・わ・よ♡」

 
クラスメート「俺を舐めるなよ!」

 
母「あーら!舐めるのはキャンディだけよ?ペロペロ~♪」

 
 
……この調子である。

クラスメートはやりとりに爆笑し、私は下を向いて赤面した。

なんでこうも違うのだろう。
私は母のようになれないのだろう。
母は運動神経も抜群だった。
スポーツ大会の時、母は場を和ませるだけでなく
チーム勝利に貢献していた。

 
私は運動神経も悪いし、ウジウジしていて
スポーツ大会ではいつも足を引っ張った。

 
「本当、真咲とかぁちゃんって全然似てないな。」

 
よく男子から言われていた。
私は胸がズキンとした。

なんで私は母に似なかったのだろう?

 
母と同じようになりたかった。

母は小柄だし、顔もかわいいし
明るくて面白くて頑張り屋で
ムードメーカーで
太陽のように輝いている。
もはやO型さえ羨ましい。

 
それに比べて、私は…………。

 
小学生の思春期の頃、私はこういった思いが非常に強かった。
母が眩しかったのである。

 
「ともかちゃんにはともかちゃんのいいところがあるわ。
品のある顔立ちも、長い首もなで肩も身長の高さも、お母さんが欲しくてたまらなかったものよ。
肌も白いし、とっても女性らしいわよ。」

 
「国語も勉強もお母さんは苦手だけど…
ともかちゃんはお母さんより勉強が得意だわ。学力は裏切らない。頭が良ければ色んな道を選べるわ。

作文も得意でお母さんは鼻が高い。お母さんは作文で賞状がもらえなかった。」  

 
「ともかちゃんは優しいわよ。いつも人を大切にして、友達を大事にしている。
お母さんは人間関係広く浅くだから、その情が深いところがいいのよ。」

 
「自慢の娘。ともかちゃんはかわいいかわいい、お母さんの娘なのよ。」  

 
母はよくそう言った。
私の良いところをたくさん挙げて、褒めてくれた。
小学生の頃はコンプレックスだらけだったが
やがて私は中学生になり
母の言葉がすんなり入るようになっていた。

母が褒める場所は私の武器なのだろう。
強みなのだろう。  

 
 
中学生になり、私は新たな友達との出会いでガラッと明るくなり、クラス内で笑いをとるようなポジションになった。
それは中学生以降も続くが
私は母親のようになりたかったのだろうし
母親の血を引いていたからというのもあるだろう。

  
 
私は容姿のハンデがあった。

いくら親がかわいいかわいいと褒めてくれても、周りの女子と比べて私は全然かわいくなかった。
だから私は、笑いでアイデンティティを確立したかった。

男子にはモテないし、女子扱いはされないけれど
面白ければ、認められると思った。
コミュニケーションをはかれると思った。

 
 
「資格は取れるだけとりなさい。資格はあって損はしないわ。」

と母から言われ
私は次から次へと言われるままに習い事をし
資格を取得した。 

水泳、ピアノは習っていたから人並みにはできたし
珠算初段、暗算一級を
小学生の時に取得した。

 
中学校では英検と数検三級を取得した。 

その後も私は次々と資格を取得した。 
もはや履歴書には書ききれないので、求人に合わせて資格を選別して書くようになった。

 
 
 
石橋を叩いて渡るタイプの父親とは真逆で、母親はチャレンジ精神が凄まじかった。

父「ともかはお父さんに似て心配性だし、不器用だ。無理しなくていいんだよ。誰にでも得意不得意はある。」

 
母「あーら?なんでもやってみなきゃ分からないわ!人生は一度きり!チャンスは掴まなきゃ!」

 
父&母「まぁ最終的には、ともかがやりたいと思ったことをやればいい。ともかが決めたことなら、親は応援するわ。お金も惜しまない。」

 
 
私が何かの選択で迷う時は大抵、こんな調子だった。 
父と母は逆の意見を言った。
ただし、二人とも私の意見を尊重した。

父寄りの気持ちの時と母寄りの気持ちが私の中にはあり 
悩んだり、相談した先で
私は考え、選択できた。

 
私は父寄りの性格や能力だった割に
母親の「やってみなきゃ分からない!やるだけやってみよう!」の考えに共感していた。

 
生徒会役員に立候補したり、B判定の倍率の高い難関校を受験したのは  
母親の言葉に後押しされたというのはある。

生徒会役員は落選したし
高校受験は失敗したが
やるだけやってみたので後悔はない。

 
 
 
父も母も、兄弟の末っ子だったし、家業が農家や酪農家だった為
性格が異なる割に、教育方針は似ていた。

 
①子どもがやりたいことは応援しよう。夫婦で働いて、教育にお金は惜しまない。

②たくさん旅行に連れて行こう。友達や恋人ができて自分でどこかに行けるようになるまで、たくさん色んな場所に連れて、たくさんの体験をさせよう。

 
この二点だ。

母は進学を反対されたし、父はお金で苦労していた。
だから二人とも、自分の子どもには同じ思いをさせたくなかったらしい。

 
また、どうしても農家や酪農家は、旅行や家族でのお出掛けは制限がかかる。
父も母もそれが寂しかった。
だから我が子には、思い切り遊びに行かせたかったらしい。
お陰で私と姉は小学生時代まで、本当に様々な場所に旅行に行ったし、日帰りでも色んな場所に行った。

私や姉が中学校に進学してからは
部活の関係でなかなか行けなくなってしまったが。

 
 
 
やがて24歳で就職した私に、母はこう言った。

「最低三年は働きなさい。それで結婚しなさい。お母さんが子育てはフォローするから、あなたは結婚してもまだまだ働きなさい。」 

 
その発言がありがたかった。

私は中学生くらいから、27~28歳で3年以上付き合った人と結婚したかった。
それでいて、専業主婦になる考えは全くなかった。
母がフルで働く姿を
ずっと私は見ていたからだ。

 
母と私の意見や理想は一致していた。


 
人より遅い就職だったし、私の社会人生活はこれからだった。
友達で結婚している人は既にいたが、焦りはなかった。
姉が既に結婚と出産をしていたおかげで
次女ということもあり
私は早急な結婚を親から求められなかった。

 
 
22歳の時に付き合った初彼のことは大好きだったが
遠恋だったり、大好き過ぎた故に上手くいかなかった。

 
だから次の彼氏は、私を愛してくれる人にした。
母が「女は愛される方が幸せよ。」と言ってくれたように
確かに二番目の彼氏といる時は、心安らかだった。
激しいトキメキはないが、一緒にいて落ち着いた。
私の家族を大切にしてくれたし、他県住みの方だったが
我が県を気に入ってくれてもいた。

 
実家と職場の中間地点でアパートを借りて
27歳になったら二人で暮らして
27~28歳で入籍して子どもを産んで
実家のサポートを受けながら
私は仕事を続ける。

やがて両親が年老いたら同居したり
はたまた貯金が貯まったら我が家の土地に新居を建てて
みんなと和気藹々と過ごしたい。

 
 
あの頃は、そんな風に確かなビジョンがあった。
それが私の夢で理想で未来だった。

 
27歳にあと数ヶ月でなるところで
まさか他の女性が彼に猛プッシュして
私が捨てられるなんて、思いもしなかった。

 

 

私と母親は仲が良かったが
婚約破棄を機に、たびたび口論になった。
いや、口論というより
私が感情的になって怒っていた。


母「婚活しなさい。30歳を過ぎたら、どんどん出会いが減るのよ。仕事はもう三年以上働いたんだからいいじゃない。」

 
 
私「やだ!お母さんは婚活のこと、何も知らないくせに。

初彼も元彼も、二人とも他の図々しい女にとられたんだよ……彼女がいるって知ってても奪うような女性に私は負けたんだ。
きっとまた彼氏ができたって、最初は私が好きだって言っても、最終的に肉食女子に私は負けるんだ。
私は私が好きだよ。でも、他の女性に、恋愛面では勝てないんだよ。

婚活で出会った人はみんな変な人ばかり。毎回毎回頑張ってメイクして着飾って、典型的な自己紹介して、相手をリードして話聞いて。
連絡先聞いたり、デートしたって、怖い思いしたり、つまらない思いをする。 

それを我慢した先に、幸せな結婚があるなんて思えない。

私には無理だよ。もう無理。

恋愛は裏切る。でも、仕事は裏切らない。
仕事は楽しいし、利用者はかわいい。
仕事をしていた方が、私は楽しいんだよ!」

 
 
母「利用者は所詮、他人の子よ。我が子はかわいいわよ。出産は早い方がいいのを知っているでしょ?大人は時間が早いわ。あっという間に老けるのよ。

 
まだチャンスはあるわ。世の中にはたくさん男性がいるのよ。
経済力があって、ともかを好いてくれていたら、それ以上は贅沢よ。
 
お母さんもお父さんも、いつまでも元気じゃないのよ?
本家の跡継ぎの件もあるし。」

 
 
私「そんなの分かってるよ!でも無理なんだよ、無理。婚活すればするほど、恋愛も結婚も男もうんざりする。

……私だってあのまま結婚できていたらまた違かったよ。好きで婚約破棄をしたわけじゃない!」

 
父「お母さん、そろそろ止めなさい。ともかだって必死なんだよ。縁ばかりはどうしようもない。」

 
 
………こんなやりとりを、何回しただろうか。

 
私の理想と、実際の自分と、母の理想と期待。
母の期待に応えたい自分と
母の期待に添えない自分。

 
母の期待通りに、結婚して、出産している姉。
適齢期に、結婚して、出産している同級生。

 
そんな様々な思いや現実が
私を追い込んだ。
 
 
母や父が元気なうちに、安心させたい。
その思いは私には強い。
だけど、上手くいかなかった。

 
男性を知れば知るほどに
デートをすればするほどに
私はむしろ恐怖感を感じた。

  
それは婚活している人がみんな感じていて
それを乗り越えた先に恋愛や結婚があるのだろうけど
私は恋愛や結婚に向いていないのだろう。

 
嫌な思いをしても、すぐに「次こそは!」とはなれず
誰かと上手くいかなかったから、すぐに次の人とデートをする気になれず
少し回復まで時間がかかる。
回復したらまた別の人とデートをするが、また怖い思いをして
恋愛に臆病になる。 

 
それが婚約破棄から何年も続き、私はひどく疲れていた。
早く恋愛で落ち着きたかった。

 
色々な殿方にアプローチされなくていい。
デートしなくていい。
たった一人でいい。たった一人の人と
穏やかに付き合えて、結婚できたらそれでいいのに。

 
 
 
 
2011年に東日本大震災があり、私の価値観は変わった。

当時は婚約者がいたし、結婚までカウントダウンだと思っていた。
結婚を機に両親との時間は減るだろうし
東日本大震災のように自然災害でいつ家族とどうなるか分からない。

 
…と、痛感した私は
家族と出掛けることが再び増えた。

 
日帰り旅行やお泊まり旅行をあと何回できるか分からない、と
家族と色々な場所に出掛けるようになった。  

 
父とウォーキングイベントに行ったり
母とライブに行ったりと
親子二人で出掛ける回数も増えた。


毎回、「今回で旅行(出掛けるの)も最後かもな。」なんて思っているのに
2020年になっても未だに実家にいる独身とは思わなかった。

 
人生とはどうなるか、本当に分からない。

 
 
 
 
 
2020年の春、私は12年繋がりがあった職場を退職した。

2019年に大きな失恋もしたし
2020年には退職をしたし

私は何も持っていないような状態で、未来が白紙になったまま、2020年の春を迎えた。

 
コロナウィルスも重なり、未来も恋愛も夢も上手く思い描けなかった。
それなりに動きや縁もあったが、いまいちシックリ来ず、むしろ嫌な思いや怖い思いをし、今に至る。

彼氏もいないし
大好きなライブも行けないし
お出掛けが好きだったが安易に行けないし
大好きな仕事もなくしてしまったし

私は何もないな。
自由というより、空洞が広がっている。

 
 
有給休暇中、読書や散歩をして過ごす私に、母が声をかけた。
 
「一緒に畑行く?」

私は母と共に畑に行った。
小学生時代は畑作業をたまに手伝ってはいたが
それ以降はタッチしていなかった。

 
 
コロナウィルスにより、外出自粛中だ。

今まで遊び歩いていた私は、そこには行けない。
貯金や退職金や失業保険がありつつも
やはり今までのように派手に遊びにお金は使えない。
次の職が決まっていないのだから。 

 
だから畑は、ちょうどよかった。

 
 
退職をしてから、母と共にたまに畑作業をやるようになった。

母から指示され、野菜を収穫したり、除草をしたり、ネットを張ったりと
畑作業は想像以上に楽しかった。

 
晴れの日、心地良い風が吹く。
風が気持ちいい。
畑作業なら、マスクもいらない。

時折会話しつつも、基本的に数時間お互いに黙々と作業に没頭した。
あっという間に時間は経ち、いい汗をかいた。

 
もしもコロナウィルスがなければ
畑の楽しさは知らなかったし
母とこうして畑作業で触れ合うことはなかっただろう。

 
仕事をしていた頃
私は仕事に恋に遊びにと毎日忙しくて
出歩いてばかりだった。

 
 
バイトを開始してからは帰りが遅かったし
仕事を始めてもやはり帰りが遅く
私が帰宅する頃には夕飯ができていた。
一人で食べる日も増えた。

母は私が夕飯を食べる横でコーヒーを飲みながら
よく話を聞いてくれた。

夕飯中に一日のことを話すことは
今も昔も変わらない。

 
 
仕事を辞めてから時間ができた私は
毎朝家族とご飯を食べ、朝ドラを見るようになった。

学生時代や仕事をしていた頃は家族よりも朝早く出勤していたし
こうして毎朝家族とご飯を食べるのは
小学生以来かもしれない。

 
朝ドラを一緒に見るようになったのは
今年が初めてだ。
仕事をしていた頃は、昼休みに仕事をしながら
利用者と見たり見なかったりの日々だった。

利用者との昼休みの時間をなくした代わりに
家族との朝の時間が増えた。

 
 
夜は母と共に台所に立つようになった。
退職するまではできなかったことだ。

料理は料理で面白い。
私は仕事をしていた代わりに
様々なことを犠牲にし
別のことをする時間を削っていたのだと思い知った。

 
母と畑作業や料理をする時間が増えて
見えるものや得るものがあった。
こんな過ごし方もありだと、私は思う。

   
 
仕事を辞めてから、基本的には毎日緩やかな時間が続く。 
実家暮らしであり、両親と仲が良いからだ。

春頃は仕事をなくした激しい焦燥感や日常生活を取り戻したい気持ちでいっぱいだったのに
自粛自粛の日々で
私は今の生活に慣れてしまった。

 
県外越えをしたいと思えなくなってしまった。
ライブも行きたいと思えなくなってしまった。

 
それは世間の目もあるし
就活時に「二週間以内に県外に出掛けていたら、●●はできません。」と言われることもあるし
私の気持ちが
そちらに向いていないこともある。

 
友達も私もゆとりがないのもあるだろう。

仲が良かった友達の言動に
人知れず傷つく回数が増えた。 
私が悪気なく、無自覚に
傷つけていることももちろんあるだろう。

 
だから何人かの友達と距離を取るようにもなった。

そもそも物理的距離で会えない人もいる。
私はどんどん内にこもっている感覚になっている。
それに不満はない。

 
 
健やかに穏やかに過ごしたい。
傷つきたくない。傷つけたくない。

このままじゃいけないと思いつつも
逃げだとも思いつつも
このままでいたいとも思ったり
働きたいとも思ったり
私の心は様々な思いが巡り巡る。

 
 
世界で一番尊敬している人は母親だ。
母の娘に生まれて幸せだと心から思っている。
私は母親のような人になりたかった。
そしていつか、母のような母親に、私はなりたかった。

なのに生きるほどに、私は届かないことを知る。
母のような生き方が私にはできない。

親子であっても
母は母で、私は私でしかないからだ。

 
 
「え?でもさぁ~話聞いてると、好奇心旺盛でチャレンジ精神があるところ、ともかは母親そっくりだよ。

それにこの前初めてともかのお母さんに会ったけど、ノリがともかそっくり(笑)さすが親子っていうか、血筋を感じたよ。二人の会話のテンポもいいしさ。

羨ましいよ。和やかな親子関係じゃん。

なかなか母と娘でこんな関係ないよ。」

 
親友がそう言っていた。二年前だ。
旗から見たら、私と母親はよく似ているのかもしれない。

見た目は違くても。

 
 
 
 
私が社会人になってから、夕飯後に母と私で必ず甘い物を食べるようになった。
私と母は甘党であり、食の好みが似ている。

 
利用者にそれを話したら、毎日「今日の夜は甘い物を何食べるの?」「昨日の甘い物は何食べたの?」と聞かれるようになった。

 
退職した今ではもう誰も尋ねないが
甘い物の習慣は今でも続いている。
甘い物を食べながら色々話す時間が、一番ホッとする。

 
 
 
 
同居していると、両親がどんどん老いて、小さくなっていることに気づく。  

家族の中で一番若い私が無職で、母親が家族の中で一番働いている今に
何も感じない訳はない。

 
 
自分を活かせる場所に転職したい。
信頼できる人と付き合いたい。

そして家族を安心させたい。

 
旅行やライブや友達との再会を願う気持ちよりも
今はその気持ちが強い。

私は親孝行がしたいのだ。























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