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#39 雨についての愛を語る

If it's rainy, you don't see me, if it's sunny, you'll think of me.

『雨の日は会えない、晴れの日は君を思う』

 ある日の昼下がり、強くアスファルトへ打ち付ける雨の姿を見ると、心底ホッとする。自分の中に潜む、何とも言えない衝動的な感情が沸き起こっていく。そして、気が付くと遠い誰かのことを考えている。手を伸ばさないと、つかめなくなってしまった片鱗を。

*

長靴と泥水

 小学生の時に、次の日が雨予報だと知り、テルテル坊主を慌てて作ったときのことを思い出す。幼いころは、雨がとても嫌いだった。当時はそれなりに活発な子供だったので、ただただ外で体を動かすことこそが自分の生きる使命だと信じて疑わなかった。

 長靴で登校したにもかかわらず、結局私はよくずぶ濡れになっていた。雨の中、友だちとバシャバシャと音を立てながら、道路を走る。気が付けば泥水が長靴の中に入り込んでいて、靴下はすっかりベシャベシャで重くなっていた。あまりの気持ち悪さに顔をしかめる。いつも、どこかで黄色い傘を忘れた。雨が引いた後に見た虹の輝きが今も忘れられない。

 雨が降って唯一嬉しかったのは、プールの日だった。

 当時こと水泳に関しては、驚くほど運動能力が皆無だった。もしかしたら、今もかもしれない。泳ぎ始めたものの、いまいち要領がつかめずに気が付けば犬かきとなっている。犬のほうがもう少しマシな泳ぎ方をしていたはずだ。先生からは、もっと肩の力を抜きなさいと言われていたけれど、正直それどころではなかった。ひどく不格好で、不器用だった。

 息継ぎができなくて、うまく肺まで空気が行き渡らない。苦しくて苦しくて、ひたすらもがいていた。どうすれば水の上に浮上できるのか、本気で誰かに教えてもらいたかった。だから、プールの日だけは雨になったことを神様に感謝した。その時は、スカートの上にのせられた小さな頭は、下へとむけられていた。

 プールの日が雨になると、体育館でみんなで跳び箱の練習をした。雨が体育館の屋根に強く叩きつけられる音。わたしは見えない何かに守られている気がした。外では雨が降り続けていて、私は濁流となった景色を思い描く。このまま自分の嫌な感情を何もかも流してしまえばいい、そんなことを思っていた。

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ワンシーンの思い出

 時は流れて、徐々に雨に対するわたしの苦手意識も薄れていく。雨の音を聞くたびに、自分の中から鼓動の音が聞こえてくる。水が流れる光景を見ると、どこか心安らぐ気持ちになるのはなぜなのだろうか。

 体を動かさずにはいられない性質は、今も同じままだ。晴れの日は、外へ出ないと何か損したような気分になる。そんなとき、雨が降った日は自分が出かけないことへの免罪符になる。思いのほか、くたくたに疲れている自分がいたことに気が付くのである。

 雨が降っている最中を歩く人影を見ていると、ふいに昔見た映画のワンシーンを思い出す。雨が降るニューヨークが中心に描かれる『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』、雨の日のキスシーンが象徴的な『きみに読む物語』、『ティファニーで朝食を』。『ショーシャンクの空に』もそういえば、あれは雨の日だった。

 思い起こすと、割と雨が情緒的な効果をもたらす作品は多い。なぜこんなにも雨の中のシーンが多いのだろうと自分の中で思い描いた時に、やはり水は人にとってなくてはならないものであって、それゆえに強烈な誘因力を持っているからだと勝手に結論付けた。それと、雨は不思議と過去を振り返り、感傷的になってしまう。

 雨が降る光景を見ると、ひたすら自分は生きているのだと思う。無性に自然界が生み出す水の流れに、そのまま身を任せたくなる。感情が次から次へと溢れてきて、ふとした拍子に流した涙も、伝えることなくわだかまっている誰かへの思いも、すべて綺麗さっぱりと流してくれるような気がしている。

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一雫の雨粒

Into each life some rain must fall. Some days must be dark and dreary.

Henry Wadsworth Longfellow

 それでもやっぱりどうしても梅雨の時期は憂鬱になる。数日程度であれば大したことはなくても、それが長い期間続くと、だんだん自分の中の水分がひたすら奪われているような不安に駆られていく。

 恵みの雨とはよく言ったものだが、それはきっとドラゴンボールの孫悟空の必殺技である「元気玉」とは真逆の方向性をいっているのではないか。きっと、憂鬱玉。「オラにみんなの憂鬱を分けてくれー!」気がつけば、活力が失われている。……これでは、気が滅入るわけだ。

 気が付くと、雨と名の付く日本語を探している。驚くほど雨にまつわる言葉が多いことにハッとする。「小糠雨こぬかあめ」、「霧雨」、「時雨しぐれ」、「緑雨りょくう」、「慈雨じう」、「天泣てんきゅう」。これほど多彩な音で雨を表現しようとしたのは古来の日本人くらいではないかと考えてしまう。

 調べていて面白いなと思ったのが、「洗車雨せんしゃう」だ。七夕の前日の日、彦星と織姫が出会う前に牛車を洗うことで流れる水を表現しているらしい。なんだか、奥ゆかしい話だ。

 私が一番好きな言葉は、「驟雨しゅうう」。にわか雨のことで、雨が急に降り出してすぐに止む雨のことを表している。まるでその瞬間だけ、誰かの涙が流れてさっと乾くかのような。音の響きも、好きだ。

 この文章を書いているとき、外ではパチパチと控えめな音を鳴らして雨が降っている。その小気味よい音の反射を想像しながら、自分の中に流れている血液と水との関係性を考える。

 自分が愛するいくつかのものだけは、どうか洗い流さないようにと祈った。手前勝手かもしれないが、ただ自分にとって嫌なものだけを消し去ってくださいと思うほどには、私はある程度打算的な人間のようだ。

 気がつくとジメジメとした雨は、過ぎ去っていた。代わりにカラリとした晴れ間からサラサラと雨が降る。光を一身に背負う形で、一つ一つの粒が光っていた。ひんやりとして涼しげな風が一陣吹いている。やがてその雨も、消えてしまった。一雫の爽やかさだけを残したまま。


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