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#58 ミャンマーについての愛を語る

 久しぶりに過去の記憶を引っ張り出す。まるでアルバムを開くかのように。思えば、昔は家に家族写真をファイリングされたアルバムが転がっていた。ペリペリと薄いフィルムを剥がし、そこに印刷された写真を差し込んでいくのだ。手書きメモが挟み込まれていて、時間が流れるともに少しずつ黄ばんでいく。今では、URLさえ送れば他の人とシェアすることができる。便利な時代になったものだ。

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 今、ミャンマーの現状について知っている人はどれほどいるのだろうか。

 私が初めてミャンマーを訪れたのが、約6年前の2016年8月の頃。折しも東日本大震災が起こった2011年3月に、ミャンマーはそれまでの軍事政権と決別し、民主化に舵をきった。それから5年後私が訪れた時は、ようやく民主化となって平穏な日々がやってきて、安堵する人々の姿を目にすることができた。

 ようやく海外への門戸が開き、次に中国のような爆発的な成長を遂げるのはミャンマーではないかと言われていた。もともと石油および天然ガスなどのエネルギーをはじめとした資源を豊富に有しており、門戸開放をきっかけに日本をはじめとした諸外国がこぞって進出をかける。

 海外との外交を密にすることによって、ますます発展を遂げようとしていた矢先。2020年の2月1日になって事態は一変する。コロナ騒動をきっかけに、ミャンマー国軍が突如としてクーデターを起こしたのだ。その出来事により、国軍総司令官が政府トップになり、1年間の国家非常事態が宣言されることとなった。

 そして時を同じくして、民主勢力のリーダーで与党・国民民主連盟(NLD)を率いるアウンサンスーチー国家顧問は、同党のメンバーらとともに拘束される事態に発展する。最近では、ミャンマー軍による空爆によって、たくさんの人たちが亡くなる悲劇も起きている。その事実を知って、私は胸が苦しくなって身動きが取れなくなってしまった。

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 ミャンマーの国に一歩踏み入れた時、茹だるような暑さで顔中から汗が出た。最初目についたのは、現地の女の人たちが顔につけているクリーム色の粉のようなものだった。事前情報として知っていたのは、それが「タナカ」と呼ばれる伝統化粧で、一説のよれば美肌効果があるそうだ。

 穏やかで、平和で、人当たりの良い人ばかりだった。到着してすぐにタクシーへ乗り込み、シュエダゴォン・パヤー(仏塔)へ向かった。目的地へ辿り着くと、どこからともなくチリンチリンと涼しげな音がしてくるのだ。仏像に向かって熱心に祈りを捧げる人たち。

 ミャンマーの人たちは金色に光るものが好きらしい。黄金の仏塔に、黄金の大きな岩。チャイティーヨーと現地で呼ばれているそれは、日本だとゴールデンロックという呼ばれ方をしている。旅を決めた目的の一つが、ゴールデンロックを見ることだった。中に仏様の髪の毛が入っているおかげで、崖から落ちないと言われている。

 本来であれば青空の下でその姿を拝みたかったのだが、霞の最中で見る羽目になった。降り荒ぶ雨のせいで全身はびしょ濡れ。持っていたカメラが壊れることを恐れ、結局あまり長い時間滞在が叶わなかった。これが夢にまでみたゴールデンロック……。そういえば、振り返ると屋久島で屋久杉を見た時も同じく霞に包まれていた。私はもしかするとそうした星の下に生まれてしまったのかもしれない。

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 気を取り直してインレー湖へと北上した。夜行バスを使って、現地へ到着したのは明朝5時。それから割と大きなマーケットを通過して、ボートツアーに乗り込んだ。今も鮮明に思い出せるくらい、贅沢な時間だった。ツアーの案内人は商売っ気がすごくて、途中途中海の上に設けられたお店を転々とした。織物やフルーツ味のタバコ、シルバーアクセサリー。

 途中立ち寄った場所の中には、首長族(カヤン族と言われている)の人たちがいるところも入っていた。着いてみてびっくりしたのは、そこに年端もいかない少女二人が狭い椅子に座って、観光客からのカメラのフラッシュを一身に受けている場面だった。正直、衝撃的だった。

 カヤン族は、年齢を重ねるたびに金の輪を首に通して少しずつ長くしていくらしい。それはもちろん民俗的背景があったと思われるが、もはや観光客を引き寄せるためのアイコンになっているような気がして、私の中でこれは何かが違うと警鐘を鳴らした。これは、正しい方法ではない気がする。

 それでも確実にその稀有な文化は人々の好奇の的となっていて、もしかすると部族の貴重な収入源になっているのかもしれない。少女たちは二人とも幸せそうな顔をしていないように見えた。どこか、ミャンマーの国が併せ持つ密かな闇の部分を見てしまった気がした。

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 次にカックー遺跡という場所へ向かった。パオ族という民族の人に引率してもらう必要があった。800年にかけてずっと増築されている場所だそうで、訪れた当時は2,478を数える仏塔群が構えるまでになっていた。数年前に大雨によって幾つかの仏塔はポキッと上の部分が折れてしまったらしい。私はその場所に踏み入れた瞬間、ある種とても神聖な気持ちになった。

 これをどう表現したら良いのか。心が、スッと静まる。この時も訪れる直前まで雨がバラバラと降っていたのだが、奇跡的に遺跡へ入る段階になってピタッと降り止んだ。何かに導かれているのかもしれない。案内してくれたパオ族の人は、これまた20歳にもいかない女の子で、なんと英語、タイ語、ミャンマー語を喋ることのできるトリリンガルだった。将来、海外で働くことを夢見ていますと語る彼女の瞳は美しかった。

 カックー遺跡を見て回った夜、再び夜行バスに乗る。お金をケチって乗ったNormalバスは前評判通り、これでもかというくらい冷房が効いていてうまく眠りにつくことができなかった。次の目的地であるバガンに到着したのは深夜3時。そして都心まで辿り着くのになんと40分。今も思い出すのだが、よくもまあそんな時間に重いスーツケース転がしながら歩こうと思ったものだ。若さって怖い。

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 バガン遺跡は世界三大仏教遺跡のひとつとされている。数千の仏塔が立っているとされている場所で、この場所も出発前に行くことを楽しみにしていた場所だった。ホテルでEバイクなる原チャリのようなものを借りて、あちこち探索した。最初に感じた暑さはいつの間にか気にならなくなっている。実際初めてバガン遺跡を訪れて見た時の感動は、言葉に表すことのできないくらい素晴らしかった。

 なお、私がその場所を訪れてから1週間後くらいに大きな地震が起こった。全体のうち300ほどの仏塔がその災害によって倒れてしまったらしい。私は自分自身の強運さを感じると共に、地震によって失われた歴史に思いを馳せた。あの素晴らしい歴史建造物の一部が壊れてしまったという事実。正直言うと戻りたかった。何ができる、というわけでもないけれど。

 バガン遺跡ではJinJinという女の子が話しかけてきて、観光案内をしてくれたことを思い出す。笑顔が素敵な人だった。3日間くらい滞在したのだが、そのうち2日くらいなぜか彼女と会ってずっと話をしていた。遺跡に登って眺める景色は悪くなかった。そよそよと吹く風が心地よかった。バガン遺跡から眺める夕日に、私は恋をしたのだ。

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 ミャンマーではたくさんの出会いがあった。もしかすると当時日本人が珍しかったのかもしれないが、いろんな人が話しかけてくれた。そのうちの数人とはFacebookを交換して、しばらくチャットを交わしていた。いつの間にか連絡を取り合わなくなってしまった。旅をすると、よくあることだ。

 今でもアルバムを捲るように思い出すんだ。黄金に輝く巨大な仏塔、平和に向かって祈り続ける人たち、刺激的な食べ物。これまで行ったどの国よりも、刺激と優しさに満ち溢れていた。できることなら、あの時にまた戻りたいと思う。

 ミャンマーを離れる時に感じたのは深い寂しさだった。もしかすると私の老後はこの場所で骨を埋めることかもしれないと本気で思ったくらいに。生きていけそうな気がした。私の一人旅ではだいたい何かしらトラブルが起きるのだが、それでもたくさんの人たちに救われた。

 これこそが、本当の旅の醍醐味かもしれないと思ったのはその時からだった。日常から離れて、現地の人たちと言葉を交わすこと。彼らの優しさに触れること。もちろん観光スポットを巡るのもいいけれど、それだけではつまらない。できることなら、もう一度戻りたいと思う場所。そこには確かな温もりと愛があったのだ。

 ミャンマーに、再び永続的な平和が戻ることを信じて。


※ミャンマーの歴史と今


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