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#62 無常についての愛を語る

無常 - [名・形動] 
この世の中の一切のものは常に生滅流転しょうめつるてんして、永遠不変のものはないということ。

goo辞書より

 さる有名なヘラクレイトスという方は、万物は流転すると言った。

 先日、月がやけに赤くて丸いなと思って駅からの帰り道を歩いていたら、たくさんの人たちがこぞって珍しそうに空を見上げ、写真を撮っている。あれ、みんな今私と同じ気持ちになっているのだろうかと思っていたら、当然ながら決してそんなことはなく、442年ぶりに訪れる稀有な天体ショーで浮き足立っていたのだ。

 私としたことがすっかり忘れていた。皆既月食と天王星食が同時に重なる日であった。月はやや不可思議な色に包まれ、ますます妖艶な様子を醸し出している。少しずつ月が欠けていく姿を見て、宇宙の神秘を垣間見た。

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 最近妙に何事も気乗りしないなと思っていたが、もしかしたら少しリアルな人との付き合いに疲れているのかもしれないと考えた。会社に行くと上司も後輩もところ構わず会話するようになって、それはそれで嬉しいことに違いないのだが、気持ちの置き場に困ることがある。

 誰かにこれやれあれやれと言われると急に冷めた気持ちになってしまう自分がいてげんなりする。もちろん周りの人は良かれと思って言ってくれているのかもしれないけれど、なぜかふと追い込まれたような気持ちになってしまう。うーん、自分自身そうなってしまうのは良くないし、本来であれば自分が言われる前に気がついて先回りして然るべきはずなのに。

 人の心は分かりやすくて、私が少し一歩距離をおきたいなと思うと、それがあからさまに周囲に伝播していく。逆も然り。楽しいところには飛びつきたくなるけど、足を踏み込んだら明らかに自分の感情を持っていかれてしまうところには誰も飛び込んでいかないではないか。底なし沼である。

 自分自身が全く平穏ではなく、常に刺激的なものを求める人間だと思っていたのに、力が入らなくなったかのように新しいものへの渇望が薄れてきてしまうのは、きっと心の内に余裕がなくなってパンクしそうになっているからかもしれない。

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 出張で大阪へ行くことのできる機会があって、ビュンビュン快適に走る新幹線の車窓から、何を真剣に考えるともなく外を眺めていた。仮にこの窓を開けることができたならどんなに気持ち良いだろう、と思ってはいたのだがもちろん車内で窓を開ける人はおらんので、かろうじて自重する。

 大阪には結局そのまま自費で2泊した。ちょうど大阪出張が決まった頃合いで全国旅行支援割が始まり、運よく楽天トラベルでクーポンをゲットした。1万円のところ、6,000円で泊まることができる。そしてこれは宿泊して初めて知ったのだが、プラスで4,000円ものサービス券がついてきた。

 これはなんとも嬉しい限りだ。そして大阪をめぐる旅で何をしていたのかというと特別どこへいくでもなく、ただひたすら律儀にカレーを食べていたのだ。え、またカレー?そうなのです。最近無性にカレーを食べることで、何かを得たような気分になっている。

 中津駅にあるSOMAというカレー屋さんにも念願叶って食べることができた。以前大阪へ訪れた時、整理券が後の方で泣く泣く断念したお店だった。このお店ではもう一つ嬉しいことがあって、ずっと育てたい育てたいと思っていたカレーリーフの苗を手に入れることができたのだ。

 帰り際、店員さんに「寒いところは苦手なので、気をつけてあげてくださいね」と言われ、まるで愛しい我が子を育てるかのように室内でぬくぬくと育てている。最近気がついたのだが、私が今住んでいる場所はそれなりの断熱効果を発揮しているらしく、外気温が下がってきたにもかかわらずそれなりに温かいのである。

 目下の目標は、目指せ自家栽培でまかなうカレー作りである。流石に食材を部屋で全て育てることは叶いそうにないが、スパイスくらいだったら全部いけそうな気もしてきた。ウコンとかも部屋で育てられたりするのだろうか。

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どうか、大きくなりますように。

 最近これまた考えていることだけれど、刺激やあたらしい世界を切り開いていくにあたり、人とのチームワークの中で実現することってなかなかの茨道だよなと思う。みんなそれぞれに実現したいことがあって、それを少しでも叶えることができるのなら良いけれど、それがいつまでも長続きするとは限らない。

 たとえ同じ志で一緒に何かを始めたとしても、環境の変化だったりとか感情の変化だったりとかで、少しずつ少しずつ見えざる何かの手に誘われるかのように物事がズレていく。それは仕方ないと思う反面、仮にぴたりとお互いの感性や状況に寄り添うことができる人がいるのであれば、それはもしかすると「幸せ」と呼ぶのかもしれない。たとえ、それが束の間の間柄であったとしようとも。夢見ることは等しく、自由なのだから。

 約1年ぶりにアナザースカイが復活して、かつてのようにバッキー木場さんがナレーションしている声を聞いて、ふと込み上げる涙の正体を探った。誰かが語る「生き方」という物語に、ただただ飢えている。思い描いているものが、正しく自分の思った通りにいくなんてことはよっぽどその人に強烈な運か才能がない限りは難しい。

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 少しずつでいいから、前に進む弛まぬ努力が必要なのだ。その時は、わからないだろう、なぜなら大して自分が変わったようにも思えないし、物事が先に進んでいるかの実感も湧かないし。それが本当に目に見える形で眺めることができるようになった時に、変化に対しての達成感を感じるものなのかもしれない。

 だから今も変わり続ける時間と現実に対して、何かしらの変化を自分の中で持とうと思った。塵も積もれば山となる、侮れない。「自分に飽きたら終わりだよ」という言葉がぐるぐると頭の中で回っている。少しずつ変わり続ける人の心と世の中の移ろいに対して。卑屈になってはいけない、探すことをやめてはいけない、誰かに対して恨めしく思うこともしない。

 ああ、とりあえず旅に出たい。知らない文化が根付く場所へ。もう、誰にも咎められることもないだろうから。ハッと気がついたらマイルも溜まりに溜まってるし、東南アジアあたりをまたプラッとフラフラしよう。

※のりまきさんの世界一周に向けた準備記事を、いつも胸を高鳴らせてニヤニヤしながら読んでいます。



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