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#60 メメント・モリに愛を込めて

メメント・モリ

 メメント・モリとはラテン語で、「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘るな」を意味する。私はこの手の言葉が昔から好きで、解釈自体は調べてみると色々出てくる。個人的にはこの言葉自体、死は等しく誰にも訪れるものだから生きたいように生きなさいよ、ということだと勝手に解釈している。

 何か気にかかることが心の内にあると、ついついそればっかり考えてしまうところがあり、ここしばらくはどうしたら一番いい道に辿り着くのだろうかとつらつらと考え続けていた。

 その問題も、時間の経過とともにだいぶ解決の方向が見えたので再び平穏の波に漂う。人間は基本的に忘れていく生き物らしいのでね。過去は整理し、突き進んでいくのみです。ええ。踏んだ轍は転ばないように避けて、先を進むことを意識してみましょう。

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息を吸って、吐くこと

 さて、最近つと考えるのは人との関係性と多面性について。仕事でもプライベートであっても、当然ながらさまざまな人がいて。皆が皆自分と同じ考えや価値観を持っているなんてことは極めて稀だ。同じだと思うなんて、烏滸おこがましいよ。

 付き合っていく中で最初は考えが合うと思っていた人も、次第に長い時間を過ごしているうちにその人の被っている仮面の正体がわかってくる。私も、仮面を被って生きている、きっとね。悲しいことではないよ、心に林檎りんごの芯を込めて。

 人との付き合い方って、難解すぎるからさ。いわば一生かけても全てを解読できないミステリーのようなもの。だからこそ、私は他の人が何を考えていて、どんな風に行動しているのかが興味があった。常日頃から、頭の片隅でどうしても気にかけてしまう。その人の息遣いだとか、言葉だとか、流れる空気だとか。

 誰が言い出したかわからないメメント・モリという言葉を胸にすると、この先自分がどれくらい生きるかもわからないのであれば、心の赴くままに突き進んでいけばいいのではないかと近頃は割り切るようにしている。そのおかげで、今は羽のように軽い。

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神聖なもの

 「メメント・モリ」という言葉を繰り返し口の中で言ううちに、何か神聖なもののように思えてくる。最近は悲しいニュースが立て続けに起こって、ずっと後を引いているウクライナとロシアの間の戦争の話だとか、韓国で起きた大規模な転倒事故であるとか、インドの吊り橋の転落であるとか。どうしてこんなにも胸の痛む出来事が立て続けに起こるのだろう。

 昨日普通に接していた人たちが、明日は突然いなくなってしまうかもしれない。そんなことが、忘れているだけで常に起こりうるのだ。もちろんいつも息をしている中で、そんなことを考える余裕なんてないし、考えたくもないのだが、いつでも死は等しく生きている人たちの下に訪れるのかと思うと、こうぎゅっと、胸を掴まれたような気持ちになる。

 留学時代に仲の良かった、韓国にいた友人も、ある日突然バイクに乗っていて、いなくなってしまった。そのことを共通の友人伝いで聞いて、しばらく茫然自失となった。涙が全く出てこなかった。ものすごく悲しかったはずなのに。Facebookではその人が直前まで更新していた投稿が残されていた。なんて、薄情な人間なんだろう。

 楽しげに笑う写真。何事もなかったかのよう。いきなり現実はプツリと切れて、その人の心はどうか、安らぐ場所に落ち着きますようにと願わずにはいられなかった。生きていれば、いろんなことが起こる。

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宵越しの金は持たない

 この先私はあと何年、生きることができるのだろう。ついつい感傷的な気持ちになってくる。何を成し遂げたいのだろう。コロナ前には海外へ行くことがひとつの生きるモチベーションとなっていた。いつだって刺激溢れる非日常の世界が目の前に用意されていた。

 会社の先輩が「俺は宵越しの金は持たない」と本気で言っている姿を見て、鼻白んだ感じで相槌を打っていたのだけれど、でも内心はその生き方は悪くないかもと思っていた。今の世の中、何が起こるかわからないと言って貯金する人たちが増えてきているそうだ。

 先が見通せないから、世の中はますます混沌を極め、何が起こってもおかしくない。他国からの威嚇やら暴力やら、国内でも痛ましい事件は起こる。お金も名声も死んでしまったら何も残らない(と思っている)。

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固執しないこと、

 きっと、ある程度年齢を重ねた時点でその人の生き方は見えてくるものなのだろう。歳を重ねるたびに昔のような牙は無くなって、代わりにヤスリで削られた歯が残った。とにかく平穏に生きられたらいいな、と思ってしまっている自分がいて、ハッとする。

 そんな生き方でいいのか?
 このまま穏やかな波の上に、プカプカと浮いているような人生で。

 変えることのできない出来事に頭を悩ませている時間はないと思った。みんな、それぞれの道を生きているのだから。今の私に必要なことは、なんだっていいからこうして見るもの聞くもの触れるものに対して自分が何を感じたのかをきちんと言葉にすることだ。ひとつのことに、固執してはいけない。信じすぎてもいけない。けれど、してしまうのが私なのだろう。

 近頃何をしているかというと、少しずつリハビリのつもりで文章を書き、少しずつ街に出て写真を撮り、親しい友人とご飯を食べている。それから人ときちんと関わることについて考える。いい加減、自分という人間がわかってきた。

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ギンレイホール

 飯田橋で時々通っていた「ギンレイホール」という名画座は今月いっぱいで閉館する。小さいながら、温もりの溢れる劇場だった。私が学生時代よく通っていた神保町の三省堂も現在改装中。見慣れた街も少しずつその様相を変えていく。この世界には何一つとして立ち止まっているものはないらしい。

 この先何に繋がるかもわからない。けれど、信じていたい。これは、目まぐるしい日常の中でも自分がきちんと生きた証なのだと。私はたぶん、いわゆるきちんとした社会人からは程遠い。常に刺激を求め続けている。

 それでも今の仕事をしているのは、絶妙にペルソナという名前の仮面を被り続けているからだ。大して面白くもないのにニコニコ笑って、その場の空気を和ませるために誰得かわからない愛想を振りまいている。恥じない生き方をしよう。ハジナイ生き方をしよう。恥じない生き方を、しよう。

 ──誰に対して? 誰かが耳元でそっと、囁く。

 自分に対して。それから私の元を去った彼らと彼女たちに対して。未だ見ず知らずの人たちへ。こんな風にして私は生きてきた。「メメント・モリ」という言葉をリズムにして、鼻歌を歌いながら。愛だよ、愛。日常を優しくも、この世に私をとどまらせているものは。

 そんなものは幻想と言うかもしれないけれど、確かに目に見えないだけでそこに存在している。明日を危うくさせるであろう「死」と共に。一日遅れてしまったけれど、ハッピー・ハロウィン。甘美で刺激的な時間は嫋やかに流れていくよ。


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