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あたまの中の栞 - 皐月 -

 川の流れる音が聞こえてくる。澱みなく、スラスラと落ちていく、川上から川下へと緩やかに。私は水の流れる音が好きで、その感触を確かめたくてそっと手を伸ばしたのに、その冷たさに思わず条件反射的に手を引っ込めてしまう。何事も手を伸ばさないと、その感触はわからないと思った。

 鯉のぼりがゆらゆらとたなびく姿を見たときに、彼らがそのまま川に落ちて力強く泳ぐ様を想像し、空を眺めると川の色と違わぬ蒼、時折流れる雲の姿に水が流れていく景色を思い浮かべた。この季節はとても空気が変わりやすく、そして体調を崩しやすい。気圧の変化。時折外に出ることができなくて、その間はひたすら本を読んでいる。

 言葉の波に押し寄せられるように、すくすくと染み込んでいくのが、ただ心地よかったのです。もしかしたら、この時期が一番本を読みやすい時なのかと錯覚するくらいに、その世界に没頭していました。

 それでは5月に読んだ本を振り返って参ります。

*

1.黒蝶貝のピアス:砂村かいり

 私が敬愛してやまない作家さんです。新作が出るということを知ってから、毎日ワクワクしていました。そして実際に読むとそれは私の期待を大きく上回り、気がつけば無我夢中で読み進めていました。

 本作品では、不器用に生きる人たちが描かれています。いえ、ちょっと語弊があって、一見彼らは器用に生きているように見えるんです。デザイン事務所で働く人たちが、世界の中心です。主軸として描かれる環は、ある時かつて思い焦がれていた人のもとで働くことになり、それから少しずつ物語が動き始めます。時にズキズキと痛み、時にふぅと共感してしまう。

 最後までどうなるかわからず、正しく呼吸をすることを忘れてしまいました。登場人物たちみんなに寄り添いたくなり、分かち難い読後感をもたらしました。自分の存在。一人で立つことも必要だけど、時には誰かに委ねても良いんだ、生きる上で大切なことを学ばせていただきました。

2.オムニバス:誉田哲也

 ふと図書館をうろうろしていたら、以前よりずっと読んでいる『姫川玲子シリーズ』(過去、ドラマで竹内結子さんが演じられています)の最新刊が置かれていて、思わず手に取りました。

 前作の『ノーマンズランド』は拉致問題に絡めた話で、内容としてはとても重め、読んだ後しばらくぐっと体を持ち上げることができないくらいでした。本作品はわりかしサクッと読める短めの短編ばかりですっかり安心し切っていたのですが、そこはやっぱり姫川シリーズ、途中途中で思わず目を背けたくなる事件もありました。人の闇、先の見えない毒を受けて、頭がしばらく痺れて、しばらく脱力する羽目になりました。

被害者が善人とは限らないし、加害者が悪人とも限らない。だとすると、自分たちは一体、何を守ろうと躍起になっているのだろう、と。

『オムニバス』(単行本)誉田哲也 p.45

3.裸足で逃げる:上間陽子

 何気なく図書館で手に取った本だったのですが、これまたなかなか内容が重く、沖縄で生きる少女たちをルポルタージュのような装いで語られています。彼女たちの置かれた環境を考えた時に、私はついつい彼女たちの心の内を想像してしまいました(割と文章読んでいると、感情引っ張られてしまうんですよね)。

 生まれる場所は選ぶことができない。彼女たちは自分の生まれた環境の中でなんとか光を求めて、そして生きる道を探して生きている。彼女たちの息遣いがそのまま聞こえてくるかのようでした。迫り来る過去から逃げて、逃げて、逃げたその先、人生はうまくいかないことだらけだなんて言える余裕もなく暮らしている人たちがいること。本作の中で登場する人たちは辛い環境の中にあっても、前を向こうともがいている人たちでした。

 冷たさと、その中にあるほんのわずかな温もりを求めて、気がついたらページをめくっていて、時折嫌な汗が流れ落ちました。育児放棄、DV、親の離婚。目の前に立ちはだかる障害。どうか彼女たちの人生が、この先より良いものでありますようにと願わずにはいられません。

病院で、「当たり前のこと、普通の生活って普通じゃないんだな」ってことに気づいたから。余計、「そう、させたい」って思う。

『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(単行本)上間陽子 p.133

4.Schoolgirl:九段 理江

 社会派YouTuberとしてこの世界にものを申す少女と、それをこっそり影から見守る母親の、見方によっては少し歪な親子関係が描かれています。娘は、小説ばかりで空想の世界に浸っていると母親を蔑みます。それでも母親はまるで自分の所有物であるかのように、娘の全てを監視しようと奔走するのです。

 どちらもお互いのベクトルがずれていて、きっとそれは正しくきちんと交わることがありません。娘はきっと母親のように現実から目を逸らす人間になりたくなくて、だからひたすらこの世の中で間違ったことを正そうと叫びつづけ、母親はそんな娘をどこか一歩引いて「大人として」見守り続けます。でもこれって、割と現実世界にもある構図ではないでしょうか。

 二人とも何か小さな世界の奔流に巻き込まれてしまったかのように私は見えました。たぶん、みんな自分は正しいと思っていて、でも誰ひとり本当の意味でも正常な人はいないような気さえしてきます。正しさの尺は、結局は誰にもわからない。

いろいろな立場のいろいろな事情に配慮した、誰も傷つかない言葉を追求していくと、誰も自分のことなど説明できなくなる。

『Schoolgirl』九段理江(単行本) p.31

5.わたしが正義について語るなら:やなせたかし

 元々は児童向けに書かれた本らしいです。どうりで非常に簡潔で読みやすいなと思いました。やなせたかしさんは、アンパンマンの作者としておそらく日本中で知らない人がいないくらい有名な方。かく言う私も、幼い頃はテレビに齧り付くくらいのめり込んでみた記憶があります。今回本の中で書かれている「正義」。これは「#愛を語ること」シリーズで、またおいおい触れる予定です。

ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです。

『わたしが正義について語るなら』やなせたかし(ポプラ新書) p.15

6.祝祭と予感:恩田陸

 たまたま図書館で見かけて(このパターン多いです)、あれどこかでみたことあるようなカバーイラストだなと思っていたら、それもそのはず本屋大賞にも選出された『蜂蜜と遠雷』の続編でした。正直読んだのが数年前で、話の筋とか登場人物たちの関係性とかかなーりうろ覚えだったのですが、読んでいるうちに少しずつ関係性というのを思い出すことができました。

 『蜂蜜と遠雷』は芳ヶ江国際ピアノコンクールの予選会に参加した若き4人のピアニストたちの葛藤や心の揺れ動きを描いた物語です。かろうじて主役っぽい女の子が母親の死をきっかけにしてうまくピアノを弾けなくなったところまでは覚えていたのですが、細かい筋はほぼ忘れており。今回改めて読んで、それぞれの関係性を俄に思い出しました。全体的にとっつきやすい作品だったと思います。

楽譜というのは、音楽という言語の翻訳であり、そのイメージの最大公約数でしかない。

『祝祭と予感』恩田陸(単行本)p.80

7.美しい顔:北条裕子

 第61回群像新人文学賞に選出された本作品は、東日本大震災に見舞われた女子高生が弟とともに被災地で生きていくという話です。著者はできる限り文献をもとに描写したらしく、実際に現地に訪れたことがないとのことでしたが、本を読み進めていくとその話が信じられないくらいかなり描写が生々しく、するするとページをめくっておりました。

 もうあれから10年も経ったのかと思うと、いまだに信じられず本当に時の速さを感じます。私はひどい被災を受けた地域に住んでいたわけでは決してないのですが、あの大きく揺れた時のことを思い出して今でもゾッとします。それ以上に、現地の人たちは毎日眠れなく不安な日々を過ごしたことでしょう。この作品で描かれているのはもちろんそうした被災地での当事者の心の揺れ動きもそうですし、自分の存在の価値を暗闇の中で手繰り寄せようとする人間の姿でもありました。

 彼女は自分自身の傷を見えないようにするため、必死に手で押さえ、そして表面上では「求められた」姿そのままに笑顔を作る。その姿は滑稽に思えながらも、ああこれが人間の本質なのかもしれないと思わされた作品でした。

彼らは私に、痛みと希望、その相反するふたつのものを同時にテレビカメラに見せてもらうことに必死だった。

『美しい顔』北条裕子(単行本)p.45

8.ぼくが発達障害だからできたこと:市川拓司

 市川拓司さんといえば、今でも思い出すのが『ただ、君を愛している』という映画で、私はその当時付き合っていた恋人と映画館へ行って、不覚にもポロポロと涙を流してしまったことを思い出します。あとは、『いま、会いにゆきます』。当時一世を風靡したオレンジレンジが主題歌を務め、映画もドラマもどちらも貪るように観ました。あれは確かに私の青春時代を模るものでした。

 本作品の中では、筆者がいわゆる発達障害の気質を持っており、普通に暮らすことができないことを告白するという内容です。でも、市川拓司さんは自分の持つ人と異なる特質に関して、まったく気に病んでおらず違う価値観や考え方を逆に楽しんでいるというか、ギフトだと考えていてとても素敵な考え方だと思いました。少し人とは異なる思考回路を持つからこそ、たくさんの人に届く素敵な作品をいくつも生み出すことができたのだとわかります。

 そして実はひっそりと自分自身にもその生き方みたいなものには通じるものがあって、もしかしたら私も同じように、自分の見ている人とは違う世界を伝えることもできるのかなと少し自信を持ちました。うん、大丈夫。私は今きちんと息を吸っていると思いながら。

思うに、自分の言動が他者になんらかのアクションを起こさせてしまうことに強烈な負の感覚が生じるらしい。できるかぎりコミットしたくない。

『ぼくが発達障害だからできたこと』市川拓司(朝日新書)p.103

9.ジャクソンひとり:安堂ホセ

 ある時きていた服のQRコードを読み取ると自分そっくりの人間の過激な動画が映し出されるというところから物語が始まます。そこから3人、自分と似たような境遇の人間を見つけ、そこから奇想天外な発想を思いついて実行に起こしていくというストーリーです。第59回文藝賞受賞作品。

 本作品はこれまで私が読んできた作品を思い出した時に、なかなかに先の読めない展開で、それだけに物語の世界観に入り込むのに苦労しました。本作品は自分自身の存在価値だとか人それぞれの性的指向とかそういったものをテーマにしていると言われていますが、ある種三人寄れば文殊の知恵とも言いますけれど、少し過激な思考を持つ人がいるとそれに乗っかる集団心理みたいなものも働いていたように思います。

違うんだよ。エックスは心の中で叫ぶ。そうやって美談に持っていくところが嫌いなだけだった。

『ジャクソンひとり』安藤ホセ(単行本)p.121

10.無人島のふたり:山本文緒

 山本文緒さんの作品はひょんなことから読み始め、今では大好きな作家さんの一人なのですが、ちょうど一昨年この世を去られました。本作品は山本さんの遺作です。彼女の「逃」病生活について綴られており、それは決して暗いテイストではなくてむしろそこかしこにユーモアが散りばめられていて、微笑ましい言葉で溢れていました。

 日常を少し斜めに見る感じだとか、あとは自分の中にある本音をストレートに言う感じとか、もうなんというかこざっぱりとして、私は山本さんの生き方とか考え方自体も好きだなぁと思いながら読んでいました。それでも、やっぱり最後の方になると彼女の病状も悪化してきて胸が詰まる思いで。もう山本文緒さんがこの世界にいないという現実に心が折れそうです。

 この作品は、また折あるごとにきっと見返すことになりそうです。

今だけを見つめるという技は、宗教を極めた高僧のような人にしか出来ないことなのかもしれないと思う。あとすごい職人さんとかは無意識にできそう。

『無人島にふたり:120日以上生きなくちゃ日記』山本文緒(単行本)p.32

11.私たちにはことばが必要だ:イ・ミンギョン

 ふとタイトルに引き寄せられて、これまた図書館で手に取った本です。性差別に関して、並々ならぬ筆者の想いが伝わってきました。ちょうど色々なことがあってモヤモヤしていた時期でもあり、読むことができてよかった。ことの発端は2016年に起こった江南駅殺人事件です。女性から虐げられたと主張して無差別に殺人を起こした犯人。それはまさしく言いがかりとも言える出来事であり、筆者は起こった出来事と無茶苦茶な加害者の主張に心を捻ります。

 女性と男性という性の違い。これは今もなお、両者間には理解できない一定のものが存在している。女性として生きることの苦しさ。これを正しく理解できる人はどれだけいるのでしょうか。フェミニズムが獲得しようとしているのは、基本権なんです。一つひとつの言葉がしっかりとした重みを帯びていて、胸がズキズキしました。これは果たして誰に向けられた本なのか。

 筆者は真に理解できる人だけ読めばいいと冒頭に書いていましたが、これは誰もに読んで欲しい本だと思いました。たぶん人としてどう生きるか、というところも含んでいるはずですので。

つらかった自分の経験をもっと大切にするためにも、心からおどろくようなことがあるまで、感動は取っておくことにしましょう。

『私たちにはことばが必要だ』イ・ミンギョン(単行本)p.44

12.同調圧力:鴻上尚史、佐藤直樹

 これも同じくタイトルワードに引かれて手に取った本です。まさに今の多くの日本人が抱える問題(私も含めて)について、過去の出来事に遡ってきちんと理路整然と述べられた良著だと思います。

 特に私がああ確かに、と思ったのが世間と社会に関する違いについて。海外はどちらかというと社会が機能しているのですが、日本は社会よりも世間という概念が流布しているそうです。まさに「世間」とは自分に関係がある人たちだけで形成される世界のことを指し、日本人はその狭いコミュニティを意識した生き方が染み付いてしまっているそうです。

 確かに思えば、何か他の大多数の人たちと異なる行動をしようとすると「世間様に顔向けできない」という言葉が使われていて、それが一体誰のことを指しているのかなと疑問に持つことが多かったのですが、今回本を読んで自分の中でストンと腑に落ちた気がします。

*

 なぜだか最近特に本を読むことが習慣化されていながらも、アウトプットがなかなかできないというか、振り返る時間をあまり設けていないため、もう少し自分の中で読んだ感想を話せるように定着化できればと思う今日この頃です。

 今月は雨も多いし、読む時間たくさんありそうでちょっとワクワクしています。確かに雨だとうんざりするけれど、そう悪いことばかりでもないよなと思いながら静かに本を開いてサラサラと読んでいます。


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