【知られざるアーティストの記憶】第96話 愛と死と一般常識
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第13章 弟の死
第96話 愛と死と一般常識
マサちゃんの火葬は、斎場の都合で二週間近く待たされ、2022年3月10日に決まった。母親が亡くなったときにはその身を自宅に連れ帰ったという彼は、ドライアイスの交換などが大変でやりきれないからと、マサちゃんの亡骸を斎場に預けることにした。その場所は自宅から歩いても行ける距離であったが、亡くなった日にノリオさんがしっかりと話を付けてきたためとりたてて行く必要がなかったこともあり、彼は一度も弟に会いに行かなかったように記憶する。亡くなったマサちゃんに対面していないマリにとっては、亡くなったということが妙に現実味を帯びないまま、普段とは変わらないむしろ穏やかな日々が流れた。
彼はいつもの通り淡々と過ごしていたが、
「もう私は生きている価値がない。」
と口にし、死のほうを真っ直ぐに見ているようであった。
「私が白血病を発病して路上で一歩も歩けなくなり、救急車で運ばれたのは去年の2月28日だった。マサさんが亡くなったのはそのほぼ1年後の2月27日だよ。それは何を意味していると思う?」
マリは黙って彼の顔を見守った。
「私の命もあと1年ということだと思う。」
彼の険しい眼差しは遠くに向けられ、もはやマリを見てはいなかった。
「えっ、そんなあ。そんなこと、決めないでよ。」
そのときのマリは、1年後に彼がこの世から居なくなってしまうことなど全く想像もしていなかったし、考えたくもなかった。
「私が亡くなったら、父と母が遺してくれたお金とこの家をキミにあげようと思う。」
彼がぽろりとそんなことを言い出したのは、マリにとっては唐突であった。自らが白血病を発病してからは、自分が弟を遺して先に逝く心づもりをしてきたが、弟が入院してしまうと、もう退院することはできないと彼にはわかっていたのであろう。弟の死が現実となり、自分が家にひとり残されると、自分の亡きあとにこの家と親の遺産をどうするかということが、いよいよ彼にとっての現実問題となったのであった。
「え、何を考えているの?私は受け取れないよ。1円たりとも、私に遺そうなんて考えちゃだめだよ。」
マリは慌ててきっぱりと言った。彼は黙っていた。
マリはこのことをメイにも報告した。
≪気持ちはありがたいけど、困るよね。赤の他人なんだし。バカでしょう?すごく純粋なのよね。イクミちゃんの愛の深さはとっても嬉しいんだけどね。≫
決してお金などがほしくて彼と一緒にいるわけではない、とマリは自分自身に再確認した。まして、自分は彼の家族ではなく、独身でさえないのだから、遺産を受け取る理由がどこにあろうか。仮に彼の望むとおりにそれらを受け取ったとしたら、財産目的で近寄った悪い女に全部持って行かれたと、彼の親戚たちとトラブルになることは目に見えていた。そこまでの懸念は、世間知らずのマリが初めから抱いたものではなく、
「面倒なことに巻き込まれるのだけはごめんだぞ!」
と夫から横槍をさされてのことでもあった。
それに対し、メイからは思わぬ反論を食らった。現在闘病中であるということに関わらず、彼の死後の遺産については今のうちにきちんと考えておいてもらわなければならないし、彼がそれをマリに伝えたいのなら聞いておいてあげるべきである。そして、ツインレイである彼の最後の望み、彼の究極の愛を、親戚の目を気にして、あるいは自分に夫がいるからという理由で受け取れないというのは何事か。彼にはプレゼントをする自由があるし、マリが彼の愛を受け取らず、ツインレイの愛をそのように扱うならば、それは必ず自分に返ってくる。マリが次元の低い一般常識に未だ囚われていることが残念でならない、と。
マリの思う常識を超越したメイの意見に初めは驚いたものの、それは未だ真実よりも常識に則っていたらしいマリの見方を大いに揺るがした。しかし、その強固な一般常識に抗うだけの勇気は、今の自分にはまだ備わっていないことも自覚された。
≪イクミちゃんと私の間の信頼関係を土台として成り立っている関わりや合意や真実は、他の関係者にとっての真実ではないからね。そこは気をつけておかないと、とは思ってる。(中略)でもその上で、イクミちゃんが亡くなるときに、自分の財産を私に遺そうと思ってくれることは、ほんとう最大限の愛情だと思う。(中略)イクミちゃんの愛を無碍にしないでありがたく受けとるにはどうするのが一番いいか、今のうちに話しておいたほうが良さそうだね。≫
マリの夫のコロナ後遺症は思いのほか重症であった。吐き気と腹痛で食べることがままならず、ひどい倦怠感に襲われていた。コロナの自宅療養者へのフォローアップとして毎日送られてくる健康観察の質問では、毎回ほぼすべての質問項目に当てはまるので、毎日看護師さんからの電話を受けるほどであった。コロナ予後の対策については中医学のタケイさんからの指導も受けていたが、外出のできない間に漢方薬を切らしてしまっていた。
「私が漢方を取りに行ってやろうか?」
マリがいつも漢方を出してもらう診療所を知っている彼が電話でそう言ってくれたが、ちょうど離婚話の真っ只中であったため彼に頼むことは遠慮した。
つづく
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
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