【知られざるアーティストの記憶】第85話 キミの仕草が女らしく見えて
Illustration by 宮﨑英麻
*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*
第12章 S医院に通う日々
第85話 キミの仕草が女らしく見えて
この言葉は、彼と初めてS医院を受診した2022年1月27日にマリがノートにこぼしたものだ。彼には伝えていない。彼は「もう生きているのがイヤになった」と言いながら、新たにS医院の門をたたいたのだ。マリはもどかしくやるせない気持ちを持て余したのであろう。
かと思えば、彼は突然そんなことを伝えてくれたりもした。服を脱いで迫ってもまるで相手にしてもらえずにしょげかえっていたのだが、こういうさりげない場面で彼はマリの中に女らしさを見出したというのだ。ひとまずは嬉しかった。
2022年2月2日、二度目のS医院受診のあと、マリは単身でメイに会いに行き、久しぶりにゆっくりしゃべった。これらの彼に宛てた手紙は、メイが帰ったあとのファミレスで、カレンダーを小さくカットした裏紙に書きなぐったものである。これまでの長い手紙とは違い、小さな紙に短文で書かれたメッセージからは、どこを向いているのか分からない彼を揺さぶり、問いを突きつけたいという必死さが滲み出ていた。もちろん、これまでと同様に、彼からの返答はなかった。
「あなたと共に生きることも同じように大切」と書かれているが、直後に「あなたと共にあること以上に優先させるべきことはありません」とあるように、マリの中には明確な優先順位が存在していた。すなわち、マリが彼を愛し彼と共に生きることを夫が許容できないようであれば、マリは夫と別れることに迷いがなかった。夫もそのことを理解していたからこそ、マリと別れないことを選んだのだが、夫の気持ちはその後も細やかな波風に揺れ動いた。
これらは女友達に向けて吐き出した、マリの半分独り言のような、奔放な本音であった。
今回の一件での思わぬデメリットは、イクミがますますマリに対して心と体を閉ざしてしまったことであった。真面目な彼は、マリの夫のことも裏切れないのだ。マリがこれまで少しずつ温めて解かそうとしてきた彼の性欲も、再びカチッと蓋がされてしまったように見えた。
2月3日、マリが抱きしめる彼の口から
「気持ちが解放されなくてごめんな。」
という声をマリは背中に聞いた。
「私はこれだけでいいんだよ。」
その言葉の意味するところは、
「キス以上のことはしなくていい、やめようね。」
に他ならなかった。
彼の病状による免疫低下のこと、流行病への懸念ももちろんあるのだが、先日の夫とのやり取りを受けて、彼がそこに「ちょうどいい関係」を見出したようにも思えた。
ハグをすれば、お互いに纏っている分厚い上着を通しても、マリの体には温かいものが駆け巡るのであるが、以前には感じられていた相手の体の中に、退院後からは一切それを感じられなくなっていた。
2月5日、マリは彼の態度に耐えかねて、彼に本音を訴えた。それに対して彼は、
「病気が再発していて、この先どうなるかが分からないから、気持ちが解放されないんだよ、ごめんな。キミにそう言われても、どうやって気持ちを開放したらいいのか、自分でも分からないんだよ。」
と正直に答えた。
「これから気候が暖かくなれば、また変わってくるかもしれないから、悪いけど我慢してほしい。」
「暖かくなったらとか、病状が好転したらではなく、いかなるときも一緒に生きよう。もっと側にいさせてよ!」
マリは彼に伝わるように精一杯訴えた。
★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。
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