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【知られざるアーティストの記憶】第93話 ニラ入りの味噌雑炊とロミオとジュリエット

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第13章 弟の死

 第93話 ニラ入りの味噌雑炊とロミオとジュリエット

「ニラが入った味噌味の雑炊が食べたい。」
体の痛みに耐えながら眠り続けるマリは、かろうじて食欲はあったので、夫にそんなリクエストをした。マリの夫は、優しい男である。そして、料理のできる男である。夫はマリのリクエストを聞き入れて材料を買ってくると、土鍋で手際よくニラ入りの味噌雑炊を作った。

「食べやすいように少し冷ましたけど、まだ熱いかも。全部食べなくていいよ。多かったら残しな。」
お盆に載せて布団の上に置いてくれた土鍋の蓋を取り、マリはその惚れ惚れするような出来栄えにしばし見入った。それから、湯気でスマホのレンズを曇らせながら、それを写真に収めた。スプーンで一匙ずつ口に運ぶと、体が欲していた食べ物の滋養が夫の愛情と一緒になって体に染み込んだ。いたってシンプルな材料ながら、作り手はそれぞれの食材の特性と最適な加熱の仕方を心得ている。だしは上品であるし、味噌は煮立たせすぎず、ニラと卵への火の通りかたも完璧だ。

「おいしい。ねえ、これ、何で味付けてるの?」
「カツオだしと味噌だけ。薄味にしたよ。」
夫が使ったのは、普段から家にある調味料のみであった。マリには到底及ばない夫の料理の腕前に、普段であれば微かな嫉妬を覚えるのだが、このときは美味しさとありがたさにしみじみと涙ぐみながら、鍋半分だけにするつもりが気がつくとひと鍋完食していたのだった。(註1)

註1:一人用の土鍋です。


©Yukimi 彼のスケッチブックより 落描き、色見本


案じていた通り、マリが発熱した翌々日の晩に、普段からマリの隣で寄り添うように寝ていた三男のハヤテが発熱した。状況的にはマリと同じ流行病に違いなくても、在籍する保育園は本人の陽性か否かを求めた。自治体から無料で取り寄せられる検査キッドは大人にしか使えなかったので、2月19日、夫はハヤテを小児科に連れて行き、流行病の抗原検査を受けさせた。結果はやはり、陽性であった。続いて次男、長男と、次々に高熱に倒れた。

「俺もたぶん移るだろうけど、どうにかマリが復活するまでは持ちこたえられるように頑張るよ。」
そう言って夫は、食事作りや子どもの通院などを全てこなした。

マリは夫に助けられながらも、日に一度、電話で彼の声を聞くことを拠り所とした。初めに彼の無事確認をしてから、互いの近況報告をした。この日は夫がハヤテと小児科に出かけている隙に電話をかけた。切り際にマリは、ふとした思い付きを口にした。
「ねえ、電話を切ったらすぐに、家の外に出てくれない?私が窓から手を振るから。」
「わかった。じゃあ、今すぐに外に出るよ?」

マリは、彼がいつものように彼の家の右端の曲がり角に立って、こちらに左手を挙げてくれることを期待していた。彼は時々別れ際に、曲がり角に佇んでマリが家の玄関に入るまで見送ることがあった。マリが玄関で振り向くと、彼は決まってこちらをまっすぐに見据えながら左手を挙げて挨拶をするのであった。

ところが、家から出てきた彼は、そのままこちらに歩いてきた。二階にあるマリの寝室の窓は通りの裏側に面していたので、彼は隣のアパートの敷地に入り込み、駐輪場のフェンスにもたれてマリを見上げた。こんな角度で見上げられるのは初めてであった。フェンスにもたれて見上げている彼は、いつもの距離の見慣れた彼に比べると雄々しくワイルドな印象で、少し別人のようであった。声を張れば互いに声の届く距離で、二人はT大学病院のナースステーション前でのように言葉を交わした。

「そろそろ寒くなっちゃったから入るね。来てくれてありがとう。」
2月の外気が、パジャマだけしか着ていない身に染みてマリがそう言うと、彼はまた来た道をゆっくりと帰っていった。マリは彼が見えなくなるまで窓辺で見送った。

ほどなく、夫とハヤテが帰ってきた。
「ただいまあ。」
という無邪気で思いのほか元気そうなハヤテの声に続いて、足音荒く夫が二階に上がってきた。


©Yukimi 『未来へのレクイエム』P・8


「なあ、マリ。今ワダさんが下に居たけど?いったいなんなんだよ。俺はハヤテを病院につれていって来たというのに。その間に二人でこそこそ会うようなことをして。」
「・・・・・・。」
「あいつ、俺が帰ってきたらそそくさと家に帰っていったよ。」
「それは違うよ。私がもう寒くなったからって帰ってもらったところに、ちょうどあなたが帰ってきたんだよ。」
「そんなことは知らんよ。二人の関係がこれでよくわかったし、怒りを感じた。こんなロミオとジュリエットみたいなことをされて、もう一緒になんか居られないよ。体調がよくなったら家を出ていって、そっちの家で暮らしな。」

夫や子どもたちとの生活も大切にしていきたいと考えていたマリは、突然の夫の怒りに触れ、顔面蒼白となった。しかし、こんな関係はやはり続けていかれないということだ。夫に拒まれた以上は、すみやかに覚悟を決めるしかなかった。

体調が戻ったら、住むところと仕事を探さなければならない。これまでまともに勤めに出たことのなかったマリは、生活面の不安に一気に突き落とされ、心の弾力性を失った。「離婚は覚悟しています」などと、いったいどの口が言ったのか。マリは、この夫と子どもたちとの生活を失うことに対する予想以上に大きな痛みをも自覚した。離婚への決意などできない不甲斐ない自分を抱え、不安と痛みのために眠ることができなくなった。全ては夫の愛情を弄んだことのツケがまわってきたのだとマリは思った。

大きな不安に押し潰されそうになると、心が解放されず、あれだけ好きだった彼のことを思う気持ちも消え入りそうに感じられた。
「心が解放されないんだよ。」
と言っていた彼の気持ちがマリにもよく解ったのであった。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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