ふと、呟きたくなった、"生きやすさ"の核の鍵

ヒトの”生きづらさ”を作り出すおおもと/感謝の「本当の意味」とは

この世での生きづらさを択んでしまっている"ヒト"の一番核となる、苦しさは…
(逆の言い方をすれば、自分の人生突如真逆に好転させることができる鍵は)

敢えて言ってしまえばそれは過去の辛酸なる経験でもトラウマでも心身障害でもなく、

感謝、というものの「本当の意味」を、気付くタイミングを失ってきたことなのかもしれない、と、
クライアントさんたちを見てきて、またあらゆる人たちを見てきても例外なくひたすらそう思う。

自分を見てもそう思う。
(後述を読んでいただけばわかる通り、自分の場合はそれに気づくことができていたらしいゆえにそう思う)

自分達は、先天性脳性麻痺で通常の子供より著しく心身機能の発達ができず、「どう成長しても100%寝たきりになる」と言われ幼い頃から苦痛を伴うリハビリを余儀なくされ、「娘さんを殺す気ですか」と理学療法士に警告されながらも入学に至った小学校では文字通りの身の危険を感じ続けていたような激動の生活や優生差別の激しい教師に数年に亘り集中的にいじめられるなどなど…その後も激動の人生を送り続けた。(つい最近まではそれが人から見たらあまりに普通とかけ離れた一般では考えられないようなことだらけだったということすら、まるで自覚がなかった)

世間的には解離性同一性障害と呼ばれるような症状に見合う状態でこの半生を悩みもがき送ってくることにもなり、同年代の友人にも、カウンセラーや医師にも、催眠療法日本最高峰の師やその弟子の人たちにも、自分達の過去を話すと悉く驚かれ、「通常ではとても考えられないような体験をさも平気な顔でし続けてきた」と何かを話すたびに言われ続けた。
それで客観的にもだんだんと、ああ、一般的な常識からは確かにとんでもないことばかりだな…程度に自覚してきた段階でもあるわけだが。

あれだけ命を懸けて必死に私達をいつくしみ育ててくれたこの器の両親は、尊敬するカウンセラーや医師、講師たちから軒並み毒親扱いをされた。
とにかく母はあまりに一般常識と精神状態や感覚が離れすぎて、突然ヒステリーを起こしたり突飛な行動言動にばかり出る。
父親は非常に達観しているが(達観しすぎか)あまりに妻の滅茶苦茶な行動を許し過ぎ、娘の成長の妨げとなることに物申したり止めたりしなかった。
それでいて二人とも過干渉であった(まあ、今では本人たちも自分達のことをヘリコプター・ペアレンツだと言っているが)。

解離症状として現れたのは、家の中という閉鎖空間で物理的には守られているように見えながらも途轍もなく起伏の激しく突然何を仕出かすかわからない母親から自分の身を守るため、また、そのような環境の中で自傷行為が始まったり統失的傾向が出てきた自分自身を、自分自身の内から統制して守るため、が一番大きいのではないかと。
もう数十年、しかも1回10万以上&数年待ちというセラピーを世界中から予約いっぱいで受け付けるセラピストに、話すこと話すこと信じられないような顔で反応された上で、これも言われたのだ。

私はずっと自分が交代人格であったことも大きく、また確かにどうにも感覚や考え方があらゆる枠から外れてどんなに少なくとも全く時代錯誤した人間と思われているような状態であったため、とにかく世俗というものに全くついていけず、周りの人間とうまく友人関係を築くことができなかった。
例え友人らしい関係を築くことができたところで、相手にとってこちらの反応などあまりのギャップが大きかったのだろう、その上私が相手の無意識の声に反応して相手の無意識領域を呼び出してしまうものだから相手が催眠状態に入ってしまう。そうしたらいつの間にかこちらは頼られ利用され依存され、まるで転移逆転移状態のクライアントとセラピストのようになってしまっていたのだから。

まあとにかく、一般枠には入れなかった。ついていけないし、自分は自分として見られることが絶対になく演技するしかないから自己開示などもできようはずがなかった。名前を聞かれても「~と呼ばれています」とか。女と見られている中でその通り自分は女ですと証明してしまうかのような「私」は使えなかった。食べ物の好みなど簡単な質問をされても答えることができなかった。
そんなんで人間関係成り立つわけがない。

しかし、かといって、当事者たちのコミュニティにも入れなかった。
例え個人的に近づけたところで、上にも書いたように、まるでセラピストとクライアントのようになってしまう…
…いや、そうでなくともなのだが、常に、どの当事者を見ても、自分だけいつも必ず何かが違うのだ。
まあ、「自分だけ何かが違う」という言い方だけをしてしまえば、そう感じる当事者というのは非常に多いから、ひどく説明をしづらいのだが。
自分は精神障碍だとはどうしても思えなかった。
なぜか。
症状を表出しないことができてしまっていた、からだけではない。今はそれ自体も症状であったと認識することができる。
言葉で説明はできない。言葉で説明をするとどうしても語弊だらけの説明になってしまう。
奥底の奥底に常に宇宙的安定感と繋がっていた。
そしてそれは、(心理学的言い方で)”安全基地”でもあった。
これは、催眠療法の講師たちからのセラピーで、(もちろんこれも一部に過ぎないのだろうが)私の唯一心を許すことができていた”唯一”の家族である、可愛い茶色と白の仔、その魂であったと気付いた。また、恐らくは幼い頃から、父親にもそれを感じていたことが判明した。(ちなみに、今では器の母上様もそうである)

だから、私達には「愛着」の問題はない。と、思っていた。

……しかし、これが酷く難しい話で、自己脚本分析を進めれば進めるほど、どうやら「愛着形成問題」がないわけではない。
寧ろ、過干渉やその時の気分気分でなかなか激しい対応をされながら(実は未だに本当にそんな一般論的に激しかったのだろうかと思ってしまっているのだが)育てられたことによる「愛着形成問題」やそれによって自分の中に生まれてしまった対人関係の非常に強いクセなど、自覚してはひたすら取り去っている最中であるのだから、それが証拠である。

それでは何が、こんなに決定的に違ったのか…。
そして実は、これは当事者達と自分とを比べて何か決定的に違うと感じていたのだが、これが健常者の社会で何不自由なく生活している人たちと比べてもそうだとわかったのだ。
特にその人たちが人間関係で何かうまく歯車が回転していなかったり、自分の生活で何か生きづらそうな感覚が伝わってきたりするとき。つまりはその人たちのどの面を見ても、そうなのだが。

自分自身も対人関係ではとてつもなく生きづらさやりにくさを感じてきた。
しかし、明らかに根源的に別種の生きづらさなのだ。
そして、たまに、その違いを感じない人もいる。
とはいえ、そういう人はどちらかというと「健常者枠」の中に多く、私としては表面的に現れている解離などを理解してもらい難いがために結局その人たちともお近づきになりにくいのが現状なのだが。

この違いが何か……と、30年自分の疎外感とともに苦しんだ中で、見つけた言葉が、

宇宙の根源のエネルギー。

全てのエネルギー(物質も感情も全て)は、このエネルギー(物理学的には素粒子と言って実際説を出し始めている人もいるようだ)から出来ているもの。
それは、言葉で言えば陳腐だが、

 と 感謝 のエネルギー。

それも社会的表面的な愛や感謝ではなく、「根源的な」それだ。
敢えて無理やり言葉に当て嵌めるなら、無償の愛・無償の感謝という言い方をしても良いのかもしれない。

言葉では、日本語では、ただ「愛」「感謝」という言葉しかないから、非常に紛らわしい。が、愛と感謝にもいくつかずつ種類がある。どんなに少なくともここで取り上げようとしている、社会的に使われる愛や感謝と、人間(魂)の根源から来る愛と感謝は全く別のものだ。

(とてつもなく大雑把にひとつ例えてしまうと、
社会的な愛・感謝は表面的なやりとり。いや、心からのものであっても、これはエネルギー的に見ればあまり循環をしない。そして、奥底にあるエネルギーは、「自己承認欲求」。
自分が認められるため(愛や感謝を受け取ってもらうという欲求も含めて)というのが根底にあって、つまり自分の利益がある(有償)から発するもの。
これは、相手から「受け取ってくれる」ということが返って来ることによって自己承認欲求が満たされればプラスマイナスゼロ、もしくは少し循環をする。が、このエネルギーは基本的に使えば消耗していく。)

そして更に、今このようなことを仕事にもしながら、誰を相手にしても必ず感じることがあった。

社会的・表面的な
愛や感謝しか知らない人と

全ての言動行動が
根源の愛・感謝のエネルギーから発されている人は

私には一発で違いがわかる

声の波動が違う
瞳の奥にあるものが違う
(敢えてはっきりわかるということを知らせやすくするためにこう表現している。それだけで判断されるわけでもないのだが)


そして、表面的・社会的な、(本人にその自覚がなくとも)何かの利用のための愛や感謝しか知らない人は、何かにつけてブレて自分があちらこちらに揺れ動く。
これはトラウマや心身症状のあるなし、過去の生き方の系統にかかわらない。
(そもそも「トラウマ」や「心身症状」というもの自体枠付けされた言葉、モノの見方でしかないのだ)

根源的なエネルギーを自覚があるにせよないにせよ”知っている”人は、奥底(これも恐らく本人に自覚できるものではないが)に不動明王のように一切変わらぬ静まり返った感覚があり(宇宙のそういう部分と繋がっているという表現をすることもできるかもしれないし、安全基地と称することもできるかもしれない)、これがあることによって、自分が表でどう表現するかは別として、必ず元に戻ってくることができる。
(また、私はこれがあるがゆえに、「どうせ自分は何があっても大丈夫なのだろう、誰にも心配されるいわれはないのだろう」という逆説的なプログラミングでつい最近までひたすらラケット感情も感じていた。ちなみに…今この記事を書くことができているということで、気付いてみればこのラケットを感じるゲームからやっと卒業できたかもしれないと感じている今この瞬間でもある)

また、根源的なエネルギーを奥底では知ってはいるのだが、世の中(社会・物質界)に呑まれ、その上にひたすら何重にもフタをしまくって、「一時的に」その受容体が隠されて感じられなくなっている、「知らない」状態になっている(つまり、人生の中でしかるべき生き方をすれば必ずまた開き解放される)人もいる。
ただ……とても不思議なことなのだが、こういう人たちに関しても、私には一発でわかる。

根源的な愛・感謝のエネルギーと、生きやすさ との関係


また、どういう人たちにしても、「根源の愛・感謝」のエネルギーを本質的に、本当の意味で知ることができた時、また、だんだんとなんとなく感じていくにつれ、
…ーつまり別の言い方をすればエネルギーというのは循環するから、こちらからの根源的な愛と感謝を受け止められるようになるにつれ、それを自分でも知らず知らずのうちに返すようになる、循環するようになるのだろう…そしてこの根源のエネルギーだけは、決して出しても受けても消耗することはなく、唯一逆に増幅していくー
本人の自覚あるなしに関わらず、本人がどんどん生きやすく人生が好転していくのだ。
あらゆる意味で。

この記事では説明しきれるものではないが、端的に言えば私はこういう説明をすることもある。
「『時間軸』というものは言葉におけるルールでしかなく、そもそも概念付けなければ時間軸という概念はないから、『今ここ』しかない」その上で、
「『今ここ』には全てがある。物理的に見えるものも、感情のエネルギーも、表面的には相反するように見えるものも、全て。その中で、ひとは『今ここ』において見たいもの、感じたいものを取捨選択している」

だから、根源的な愛と感謝のスタンスが自分の中にある(全てがあるのだからこれも最初からある)ことに気付けば、自ずと自分の幸せなものを見るようになり、例えば「自分はあの人にどうせこう見られているだろう、ほらあの人のあの視線、あの行動」などとわざわざ自分が悪く見られているかのように自分で仕向けていたことも解釈が変わり、相手の同じ言動行動を見ていてもその中に愛と感謝を見ることができるようになる(相手が途端に変わったように見える)。そして悲しみや苦しみを引き寄せるよりも愛と感謝に繋がる幸せな感情を自分の中に感じていくことを択ぶようになる。

実際の環境が本当に劣悪だったらどうするんだ?!と言われるかもしれないが、それも概念で、これは環境が本当に劣悪極まる状態でも必ずそうなる。敢えて言い方を変えれば、自分のそのスタンスが変わればおのずと自分の身を置く環境を変えていくということが必ず自然といつの間にかできるようになっている。

私だって、愛と感謝を否認してただ自分を傲慢にも被害者のレッテルを貼りつけたままでいたら、軍隊生活のような器だけ守られ精神はどんどん奥底に閉じ込められるような生活から、抜け出してはいなかったのだ。
また、アメリカの兵士たちは勝とうが負けようが後遺症で苦しみぬいているのに、神の愛と感謝のエネルギーの受容体が根底にあるアラビア圏の何十年も世界各国にも知られずに爆撃を受け続けている地域の子供や親たちは、身体が爆弾や爆撃の重金属や放射能にやられボロボロになってしまっていても、悲観がない。

根源のエネルギー(愛と感謝)は、それだけ無意識領域の活動を活発にさせ、自分の人生コントロールする。

無意識領域・魂(過去の自分や未来の自分と言い換えてもいいし、ハイヤーセルフと言っても、宇宙、神と言っても構わない)は、意識領域をも生きやすく楽に感じさせるために全て活動をしている。
そして無意識領域・魂というのは、根源的エネルギー(愛と感謝)そのものなのである。
だから(同じことを言うが)、根源的な愛と感謝に気付き始めたその途端、無意識領域が活発に活動しはじめる。愛と感謝=無意識領域だから当たり前である。
だから(同じことを言うが)、無意識領域が活発化して無意識領域や魂の声を聞くことができるようになっていけば、根源的な愛と感謝に気付き始め、抜群に生きやすく好転を始める。無意識領域=愛と感謝なのだから当たり前である。

愛と感謝のエネルギーが広がっていく…生きやすさが伝播していく


また、そんな人たちは、その受容体への通路が開きかけた時、自覚の有無にかかわらず、私に対して本当に(根源の・無償の)愛と感謝から発せられたなと感じる言動行動をしてくれる。そしてその頻度が増える(非常に傲慢な言い方なので心苦しいのだが)。
-…ちなみに、私は相手がクライアントであろうが個人的な関わりであろうが、相手の無意識が少しでも解放され楽になってくれることを私自身にも一番の喜びであると感じて関わってしまうので、つまりはその相手の無償の愛と感謝から出た言動行動や私を喜ばせようとしてくれる言動行動というのは、殊にクライアントさんの場合、その人本人が生きやすくなるためのことそのものなのであるー
…いや、いずれにしても根源的な愛・感謝から発される言動行動というのは、お互いにとって大変心地良く建設的なものである。そうでないものはない。

スピリチュアルではワンネスという言い方をしたりもするが(私はこの「言葉」自体は好きではないが)、本当に無償の愛と感謝で相手に向かうということは、自分自身に根源のエネルギーを注ぐことであり、自分に愛と感謝を向けるということは、相手や周囲に対して愛と感謝を分け与えたり振り撒いたり伝えることなのである。

つまり、(これもただひとつの角度からの物言いに過ぎないが)根源的エネルギー、真の感謝(愛)に気付くということは、それを受け取る受容体を開いて自分が感謝され愛を受けるに値する存在であることを認める(許す)ことであり、それはつまり他人への愛と感謝を惜しまず返すことでもあり(スピでは地球上のすべての存在は魂の課題を達成するために魂が分かれて地球上の器を担った、つまり全員自分の分身であるとも言われる。心理学でも世の中は全て自分の主観で成り立っているから、全ての人間に見える言動行動は全て自分の中の投影である、つまり自分の人生脚本課題と向き合い達成するためのいわば自分が見たい世界の再現であると言われる…どちらも本質同じことを言っているのである)、そしてそれが起こると、自分の人生、生きやすい生き方を自ずと次々につかみとっていく形となるのである。


ただただサイコパスのように形式的表面的に生きやすい生き方のルールを覚えたり実践して行ったりすることは可能だが、それではひとつひとつ習得していくような形になり、途方もない時間がかかる。その上、途中で「これ本当に生きやすくなるのかな?というか生きやすく楽な生き方するために今苦しくないか?これはルールに縛り付けられているのだろうか解放されているのだろうかどちらだろうか」というようなおかしなスパイラルに囚われていく。なぜなら、「自分の(利益の)ため」にしかやっていないからだ。
愛と感謝が根底で突き動かされる場合は、「自分のため(周囲のため)」でもある循環するエネルギーとなるのだが、それ以外のエネルギーから発される場合は、どんどん「消耗」していくためだ。


だから、結局、表面的には、一見には「感謝をする」ということと「自分の生きやすさ」というのは関連性がないように見えるかもしれないが、根源のエネルギーに気付かない限り、本当に生きやすく幸せだけを択びとっていく自分にシフトすることはできないのである。これは、表面的社会的にはいくら腰が低くて「感謝」を示している人にも、同じことがいえる。

根源のエネルギーに「体感で」気付きさえすれば、そしてそれの流通・循環(こういう言い方自体形式的・利益主義・概念・サイコパス的言い方かもしれないが)を自分の中に認め許しさえできれば、とてつもない勢いで一気にその人の人生、生きやすく、心地良く、決して無理をしないで済むようになり、何をするにも楽しく過ごすことができるようになっていく。

(ちなみに、私がクライアントさんによく使う用語なのだが、「意識の抵抗」…これも、愛と感謝のスタンスに移行すると、格段に減る。自己否認が激減するからだとか、自分にとって、もはや抵抗する意味もなくなってしまうからであろうとか、いろいろな理由はつけられるが、とにかく激減する。そのためもあって、人間的魂的な成長速度や、自分らしい自分を全面表出して堂々と心地良く生きていける道にシフトする勢いが、超・格段に増し物凄いスパイラルで変化していく。)

そして、現代日本では少なくなっているかもしれないが、非常に幸せなことに私は人生の中でしばしば出会わせていただくことのできる、「言動行動が根源のエネルギーから出ている」人は、その過去がどんなものであろうと、トラウマや心身の症状があろうとなかろうと、経済的社会的事情が困窮していようといなかろうと、自分の”人生”に困っていない。幸せを自分の中に認め、非常に大事に育てており、本人の自覚の有無にかかわらず魂、無意識と意識の方向性が自然と一致しており、自分にも他人にもとても風通しがよく、表面的な意味ではなく本質的な意味合いにおいて”生きやすい”人生を送っている。

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