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芸術を深読みしない方法論についての提言


結論:芸術家の存在を忘れよう

↑結論はこれだ。芸術家の名を、作品のなかに解体して忘れ去る。物騒に聞こえるだろうが、作品の神あるいは父たる芸術家、オイディプス王に手をかける。敬意を払ったうえで、父親殺しの禁忌を想像的に遂行するのだ。そうすれば言葉も出てこなくなるだろうというイメージ論である。……しばらく続きますが、せっかくなので最後までおつきあいください。

序にかえて──キュビスムの話


絵画の真ん中を見ればわかるものはない。探すことを、答えを得ようとすることを我慢しよう。 ── ぺぺ・カーメル


 これは私がキュビスムに関する国際シンポジウムへ参加した際、パブロ・ピカソ研究家のぺぺ・カーメル氏への質問の機会をいただき、その返答として氏からたまわったお言葉だ。「キュビスム芸術は私たちに語りかけてくれるだろうか?(要約)」という、私のつたない質問に丁寧にお答えいただいたその一部である。全貌は以下の記事よりご覧いただきたい(かなり後半だ)。

 さて、カーメル氏の言葉は「芸術を深読みしない」という、表題に対するひとつの解答となるように思う。ただただ鑑賞して──線と線とが奏でるハーモニーを、色と色とが織りなすコントラストを──楽しむのだ。心頭滅却し、火の涼しさを感じる。思考の空白が捉えた、どうしても消し去れない感覚を受け止めるのだ。
 キュビスムはとても特徴的な表象を産出した芸術運動である。もののかたちや意味は解体され、タブローに散逸している。以前の私はキュビスム芸術に「答え」を求めるべく躍起になっていた。私はカーメル氏の省察を促すような言に大変感銘を受け、ことキュビスム芸術を鑑賞する際には、あまり答えや意味を見出そうとせず、作品に耳を傾けるようになったのだった。

ジョルジュ・ブラック『ヴァイオリンのある静物』
@京都市京セラ美術館「キュビスム展─美の革命」
パブロ・ピカソ『若い女性の肖像』
@京都市京セラ美術館「キュビスム展─美の革命」

 この2点は私のなかでも甲乙つけがたい、2大トップのキュビスム絵画だ。とても、とても美しい。
 ……しかしこの芸術は、何か描かれているのはわかるけど読み取れない、という事象がもともと起きやすいように思う。ゆえにカーメル氏のお言葉とキュビスムとを不可分に結びつけて、このように「芸術を深読みしなくなる」として論述を終えるのはあまりに考察不足だ。もう少し模索してみよう。

言葉から離れられない

 そもそもなぜ深読みしないなどという話を持ちだしてきたのかというと、SNSで散見される言葉とアートにまつわる議論について、長らく自分なりに考えていたからである。よくあるのは「作者が意図していないものを見出すな」や「言語の優位性ゆえ、批評に萎縮してしまうアーティストがいる」といったものだろうか。
 これはなかなか難しい問題だ。あらゆるものは言語的で、言葉で説明しうるものと考えている私にとっては耳の痛い話である。つまるところ「芸術家が意図していないことを感じたら深読み」だ。それを価値創出と取るか余計なお世話と取るか、あるいはなんとも思わないか……、これもまた芸術家にゆだねられている。「よかったです」とただひと言、感想を述べることも言語化である。気に障るかもと心にとどめるとしたら、何も言えなくなってしまう。しかしこれまた難しいことに「批評されたい」「深読みされたい」と感じる芸術家がいることも確かなのだ(知り合いに何人かいるし、どちらかと言えば私もそうだ)。
 作品を世に出したら、何かを言われることは覚悟しないといけないだろう。そして鑑賞者の視点を固定したいときは、あらかじめ「このように観てください」と表明しておくのもひとつの手かもしれない。私たちは言語的なものからは離れられない。芸術作品も芸術家のコードで記された言語のようなものなのだ。
 芸術家と鑑賞者の共通言語が文化的コード(その時代の母語とでも言うべきか)のみだとしたら、私たちはそれで通じ合うしかない。両者とも自分の立場を明確にし、適切に言葉を選んでいくことが肝要であろう。文脈によっては、無言からすら肯定のニュアンスを掘り当てられることさえあるのだから、言うべきことはしっかり述べておこう。

芸術家のコンテクスト化

 と言っても私も批評や考察をひたすらしたい人間である。だがとりあえず鑑賞したいときもある。どうすればいいのか……?
 ひとつ考えられるのは「芸術家の存在を忘れること」だ。私は少し前に「あらゆるものは言語的で、言葉で説明しうるもの」「芸術作品も芸術家のコードで記された言語のようなもの」と書いた。つまり大概のものごとは記号的にひもとけるということだ。芸術家が示したコードを読み取るとしたら、同時にコンテクスト(文脈、背景)を参照することになるだろう。芸術家の名というコンテクストをいったん排除して、鑑賞のあいだだけは忘れ去るのだ。
 作品から新たな視点を創出するにも、芸術家の目線から観るにも、その人自身のことを知っておくことは大変重要だ。ゆえに芸術家の存在は、その生死に関わらずそのまま作品のコンテクストと化す。その人物の経歴、印象、風貌など、あらゆる要素がそうなりうるだろう。「この芸術家の作品なら観る価値があるに違いない」「この人の絵は苦手だからなあ」「あの人の作品は嫌いじゃないけど性格が……」と、芸術家のコンテクストは、そもそも観るか観ないかの大きな判断基準にすらなるのではないか。
 これが芸術家の存在を忘れよう、という提言に繋がる。非常にセンシティブな話題であるが、例えば贋作はこの意義を浮き彫りにする。私たちはときに、誤った芸術家の名から生じたコンテクストに飲まれ、贋作を真作として鑑賞する。贋作それ自体に価値がある、と言いたいわけではない。しかし本来は芸術作品に貴賎などないはずだという幻想を、贋作問題は思い出させてくれる。名を偽ることは倫理的によくない。だがパロディーとして世に生み出されていたら、観ることも叶わなかったであろう精巧なまがいものを、今日の私たちはすばらしいものとして目にすることがあるのだ。
 芸術家の名を葬り去ることは、そのコンテクストに塗り固められた作品の表層に風穴を開け、固定観念を破壊するのにはうってつけなのではないだろうか。相対する作品からなにも感じ取れなくなるかもしれないし、反対に新たな何かを得られるかもしれないし、贋作を見抜けるかもしれない。

ジャン・ボードリヤールの「詩的実践」

 芸術家を忘れるという発想に至るきっかけは、フランスのポストモダンを代表する思想家、ジャン・ボードリヤールが著した『象徴交換と死』(ちくま学芸文庫)を読んだことだった。たぶん「シミュラークル」という概念が唱えられたことで有名な作品だろう。しかしそれについては、今回ばかりは直接参照してはいない。
 まあこの書籍はいろいろ過激なのだけど、ボードリヤールいわく「言語活動の領域中にも、象徴交換のモデルが、反・経済学の中核としての何かが、価値と掟=法(ロワ)を根絶する場が存在している。それが詩的言語だ」*1 とのことで、詩的実践というものを行うことにより「法則(ロワ)による革命」「父親の掟(ロワ)」「法=掟(ロワ)」*2 を破壊できるのだそう。

そして、神の名は父の名でもある。父が、主体と、それと同時に言語に重くのしかからせる(抑圧と記号表現と去勢の)掟、その掟はアナグラムのなかで根絶される。[省略]もはや神を持たないが、言語が神となっているわれわれにとっては[省略]、詩的実践は、言語にたいするわれわれの両価性と死への欲動の場所、コードの根絶に固有の力の場所となっている。*3

「アナグラム」という語が出てきたが、この実践が芸術家のコンテクストを除く手段となる。
 もう少し『象徴交換と死』を読み解いていこう。ボードリヤールは詩的実践について論じる前の章にて、未開社会での死者の扱いを述べ、私たちが生きる社会との違いを強調する。私たちにとっては死は正常な状態ではありえない。それは「死を切り離して生を絶対的剰余価値」*4 とみなしたからである。死は交換できないものとして脱社会化されているのだ。
 一方で未開社会の人びとはどうだろうか。ボードリヤールは「加入儀礼」の話を挙げている。私たちは、例えば自身の亡くなった親族を食べるといった行為のような、彼らの死者の扱いには違和感を覚えざるを得ない。しかし彼らにとっては死者も生者と変わらない社会的な存在であり、あくまでもそういった儀礼は営みの一環である。そこでの死者は、生者と何かを象徴的に交換し合える他者なのだ。
 ボードリヤールの言葉を借りれば「自然的・偶発的・不可逆的な死から、与えられ、受け取られる死へ、したがって社会的交換のなかで可逆的な交換によって『解決可能な』死へと移行する。同時に、誕生と死の対立は消え失せる」*5 のである。それを異常な営為であるとし、こちらの学問の概念や倫理観をそのまま当てはめるのは、あまりにもお門違いということだ。
 ここに「生物学的線状性や幻覚の反復に従って切り刻まれるのではなく社会的循環のなかで交換されあう生と死の相互性」*6 が生まれる。

***

 ボードリヤールは、未開の地の「生物学的線状性」から離れるような社会活動をヒントに、言語の線状性を破壊する言語活動、つまり詩的な言語に目をつけた。やり玉に挙がったのはアナグラムだ。言語学を発展させたことで有名なフェルディナン・ド・ソシュールによれば、アナグラムには以下のふたつの法則があるという。

(超要約)

一体化の法則
:同じ音素の反復は偶数回であり、詩句のなかで互いに打ち消され、半端な音素は残らないことが望ましい。
テーマ語の法則:神の名や英雄の名といったその詩のテーマ語(キーワード)となる固有名詞は、音素に分解され詩句のなかに散逸する。*7

そしてボードリヤールは言う。「よい詩とは、そこに何も残されていないような詩*8 であると。このような残りもののない──剰余価値が生まれない──詩的実践が言語の線状性を解体し、この社会に革命を起こすのであると。……正直その実効性は不明だ。彼も明確な手法を示してくれているわけではない。しかし何も残らないようなものによさを感じるというのは、なんとなく共感できる気がした。
 なーるほど。これをうまく使えば芸術家のことを忘れ、目の前にある作品を深読みなどできない、ただ「何も残らないようなよい芸術」に仕立て上げられるのではないか?


注釈

*1 …『象徴交換と死』、p.450より引用。
*2 …前掲書、p.11より引用。
*3 
… 前掲書、p.483-484より引用。
*4 …前掲書、p.307より引用。
*5 …前掲書、p.317より引用。
*6 …前掲書、p.323より引用。
*7 … 前掲書、p.451-452を参考。
*8 … 前掲書、p.462。太字は引用者による。


神の名→芸術家の名→父の名の解体

 実践の前に確認することがある。解体する名について、そして実践の先には何が起こるかだ。
 まずは名について。ここでは神の名を、その作品の現実性を規定する神たる芸術家の名の隠喩として、さらにはフロイト─ラカン的用語「父の名」の隠喩であるとして捉えてみよう。たびたび出てきている父の名(父性隠喩)とは、ごくごく簡単に言えば、私たちがエディプス・コンプレックスを乗り越え、去勢を経ることで、象徴的ファルスとともに私たちのなかで機能し続けるものだ。
 ……簡単にまとめすぎて、厳格なラカニアンには怒られてしまいそうである。これでも頭に「?」が浮かんだ方が多いと思うが、申し訳ないことにこれ以上は要約できないし、深く触れる余裕はない。象徴的ファルスを手に入れることが、言葉の法のなかに身を置く契機となるのである。私たちは言葉の法があるおかげで会話できるし、精神病にならなくて済む(ということに精神分析の世界ではなっている。精神病になるのは父の名に異変が起こったとき……なのだがどのくらい信じておけばいいのかはよく分からない)。
 ぜひジャック・ラカンという人物や、エディプス・コンプレックス、去勢、ファルスといった語については調べてみていただきたいと思う。いまや精神分析の考え方や用語は、一見関係なさそうに見えるあらゆる分野に及んでいることがある。アートをはじめとした表象文化論も例外ではない。まだまだ私も勉強中だが、覚えておいて損はないはずだ。*1
 前章にて触れたように、ボードリヤールからも父の名、そして「父親の掟」なる言葉が出てくる。もちろん彼は精神分析に対しても痛烈な攻撃を行っている。詩的実践による破壊対象は、おもにマルクス主義と精神分析に定められているように思う。ボードリヤールは自身の理論を、精神分析に基づく方法論に転用されたことを嫌うだろうか。あるいは父の名の解体という考え方には共感してくれるだろうか。

***

 つぎに実践の先に起こることについて。『象徴交換と死』を読み解いた林道郎氏は、著書『死者とともに生きる』のなかでこう語る。

ここには二重の死が見てとれる。神が殺され、詩の表面へと離散的に記入されていく。しかし、一方で、その死によって、従来の記号表現、線状的な散文表現のメカニズムが無に帰される。この二重の死と引き換えに詩句の輝きが、それ自身の中で燃焼し、消滅してしまう生の輝きが生じる。[中略]「神」の名を食い尽くしみずからの体内に取り込むことで、詩は分身を自らのうちに生じさせ、その分身との対話の中で新たな生を手に入れるのだ。*2

なるほど、深読みしないことがこの記事の目標だったが、その先には「生の輝き」というものが待っているのかもしれない。
 自身の燃焼によって輝くとはなんだか恒星のようにも感じられるが、燃えつきた星はみずから光を放つことなどできない。しかし詩的実践はそれを可能とするのだ。

***

 さて脱線しすぎた。アナグラムによる詩的実践を芸術作品に当てはめてみよう。ソシュールによれば、神の名や英雄の名といったテーマ語を分解し、詩のなかに忍び込ませるのであった。ゆえに芸術家の名ではなく、その作品のタイトルやテーマを解体するのでもよい。むしろ芸術家の名だけでは済まないと思ったら、コンテクストとなりうるあらゆるものを、ひたすらバラバラにするのも一手だろう。
 一体化の法則を芸術の表象に当てはめるのは難しい。しかしその作品も「よい詩」のように、実践を通して父の名を切断して与えることで、疑いなく残滓のない「よい芸術」になると仮定する。
 ……それではやってみよう。

 さあ、神の名を切り刻み、芸術の表象に対して──あくまで敬意を払って──アナグラムでもそうであったようにぶちまけよう。神の死とともに作品を死に至らしめる、という象徴的なことを想像的に行おう。こうして作品に与えられた意味は、「父の名」とともに無に帰し、また光り輝くだろう。

 先に挙げた2点のキュビスム絵画においては、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックという、キュビスムのふたりの父の名を消尽することになる。どうだろう、有名な芸術家の作品だから、よく分からないけど価値があるんだろうといった先入観を抹消できないだろうか? 言葉が出ないほど輝いて見えてはこないだろうか? ……もしそう見えたなのら、ここまで論じてきたかいがあった。そうでなかったら申し訳ない。


注釈

*1 …ラカンの入門には斎藤環氏の『生き延びるためのラカン』(ちくま文庫)がおすすめだ。同名のウェブ講義(?)を「生き延びるためのラカン 1(~19まで検索のときに数字を変える)」とネットで検索すると閲覧することができる。本になる前のものであるため多少内容は違うが、これで書籍の雰囲気はつかめると思う。

*2 …『死者とともに生きる』、p.67より引用。


おわりにかえて──Re:芸術家の存在を忘れよう

 このエッセイも作品みたいなものである。新しく得た知識を応用してみたくてたまらないやつだというコンテクストが、私の名に登録されてしまったかもしれない。行きあたりばったり、資本に汲み取られる剰余ばかり。くねくねとしながらも線状性を捨てきれなかった、ボードリヤールに言わせればできの悪い散文ということになるだろう。
 私のことは普通に忘れてもらっていい。しかしたまには深読みをやめて、目の前にある作品をただながめてみてはいかがだろう、という私からの提案は覚えておいてもらえるとうれしい。この行為にはそれなりの意義があるだろうし、そうするには芸術家の存在を忘れるのが一番手っ取り早いように思う。そして再三の強調となるが、敬意をもってその名を葬るのだということも忘れないでおいてほしい。あくまでも今回扱ったような象徴的な行為は、芸術家を尊重しながら想像的に、こっそりと行おう。

***

 前章で引用した林氏の言葉には続きがある。

それを、逆方向に、神の名を再発見し、そこに還元させるような解釈は、この詩の中の生と死の円環的な対話構造を、超越的な名へと還元し、再び意味の世界の一般的な交換に供することになってしまうだろう。*1

詩的実践を停止することは「生と死の円環的な対話構造」から、線状的な言語のシステムに逆戻りすること。つまり神の名を「超越的な名」、ここでは芸術家の名へと還元することに他ならない。これでまたいつでも深読みして、意味を算出することができるようになったわけだ。これにて詩的実践の旅は終わり。芸術家のコンテクストに悩まされたら、また戻ってこよう。
 ここまでご覧いただき、誠にありがとうございました。


注釈

*1 …『死者とともに生きる』、p.67-68より引用。


参考文献(刊行年順)

●『象徴交換と死』、ジャン・ボードリヤール著、今村仁司・塚原史訳、ちくま学芸文庫、1992年
●『生き延びるためのラカン』斎藤環著、ちくま文庫、2012年
●『いま読む! 名著 死者とともに生きる』(『象徴交換と死』を読み直す書籍)、林道郎著、現代書館、2015年
●『ラカン入門』、向井雅明著、ちくま学芸文庫、2016年

関連リンク


 今月はいままであまり手をつけてこなかった、哲学や思想に取り組んでみました。難しい、とても難しい……。正直収拾がつかないけど、ここ1か月くらいにおけるいったんの集大成として、本記事をしたためました。

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