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新・幸福論 宗教と科学の役目

台風でスケジュールが少し狂ったので、大人しく 前野 隆司先生の「ディストピア禍の新・幸福論」を読み終わりました。結構前から読み始めていたのですが、中身も濃くて、少しずつ消化しながら(完全ではないw)読み進めていたので、時間が長くかかってしまいましたが、ようやく読み終わりました。

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いつものように、感想をと思っているのですが、どこから手を付けていいかかなり迷っています。実際には、皆さんも読んでもらって色々意見交換したいところですが、とりあえず自分の感想をいうと


人はみな幸せを願っている。ということです。

(※ここから先は、本から得た知識と自分が勝手に書いたことが混じってますので、是非本をお読みください。)

「平和な幸せ」とは、何かを考えさせられました。

歴史的な支配者も平和&幸せを願っていた。

キングダムの秦の始皇帝だって織田信長だって、おそらく全世界の支配者が、私利私欲のためや権力よりも、平和を願ったと思います。もちろん、狭い範囲の自分の国だけ、自分の民族だけ、自分の氏族だけ、自分の家族だけかもしれませんが、敵がいなくなれば平和になるだろう、違う考えをなくして同じ考えになれば平和になるだろうと戦ってきたはずなのです。
もちろん敵からしたら、そんなもの知ったこっちゃない。自分の国が支配されるのは不幸だし、自分の民族が支配されるのは不幸だし、自分の家族が支配されるのは不幸なのです。

そう考えると、支配する方もされる方も、皆幸せを願って、生きているのです。

人を幸せにする方法を説いた宗教

なので、どうすれば人が幸せになれるのか?と解いたのが、宗教だったのです。

農耕革命からの人類経済の成長、そして停滞期に生まれた宗教

狩猟生活時代は、人間は他の動物と同じように狩りをし木の実をとって生活してあまり争いはおこらなかったのです。しかし、約1万年前に農耕革命が起きて、食料を蓄積できるようになると、人口が増えました。生活できる水準が上がったのです。ただ、食料が蓄積できるようになると、最初のきっかけは、不作だったり、怠惰だったり、運悪く洪水などの被害にあったり、何らかの原因で食料・財産の格差が生まれました。それが発展して、人と人の貧富の格差につながり、支配されるものと支配するものと分かれていきました。時代が進み経済発展や人口増加が停滞すると、人々は文化的芸術的活動が活発になりはじめました。それが、2500年ほど前、ギリシャではソクラテス、インドではブッタ、中国では、孔子・老子・荘子・孟子などの諸子百家が生まれてきたのです。ここに哲学・思想・宗教が誕生したのです。2500年後の現代でも、この考え方に影響を受けています。

まだ、科学的な思考になれていなかった時代には、神を中心に人々を教えることが重要でした。例えば、豚を食べれない宗教も、衛生状態が悪い時代には、豚を食べると疫病が流行ったので、豚を食べることを禁止したり、感想砂漠地帯で人口が増えるのを抑制するために女性の肌の露出を禁止したり、宗教の恐れを用いて人心を掌握したのです。つまり地域のしきたりやみんなのルールを宗教を通じて信じていることで、平和になれる幸せになれるということを広めるためにも、宗教が必要だったのです。


日本でいうと、神様が見ているから「悪いことはしちゃだめです。」「友達とは仲良く」「人には親切に」キリスト教でも、「隣人を愛せよ」という感じです。

他人に親切にするということは、他人も自分に親切にしてくれるということ、そのほうが幸せに近づくということですよね。
他人と比較して満足すると、他人からも自慢される。それは幸せではないですよね。

つまり宗教をみんなで信じていれば幸せに近づくはずでした。同じ宗教ならばというのと、宗教によって利益が得られ格差が生まれなければ。
ただ、農業革命と同じように、産業革命が生まれます。そこから人口が爆発的に増えるだけでなく、科学技術を発達します。

産業革命から科学的思考の発達

そうすると、宗教が解く天動説じゃなく、地動説だったように、進化論が正しかったように、科学の進歩によって宗教が正しいと、信じる人が少なくなってきました。そうなると、どうやって人類は幸せに近づくのでしょうか?

というと、ココは、科学的な根拠のある幸福学だということです。
利他的であり、包容力が有り、人から慕われる人として生きるべきだ。それが正しいことは心理学液な研究成果で証明されている。

自分を大切にして、他人を大切にし、相手も自分も許すことができると、みんなが慕ってくるだろう。そのように生きれば、幸せに近いと思いませんか?
それが宗教ではなく、科学的に論理的に説明できる時代になったのですと。

たしかに、同様のことを宗教も言ってました。でも、宗教そのものが、信じてくれないのであれば、科学によりどころを求めて論理的に説明できる幸せを提案するということが必要じゃないかと。

生きとし生けるものがみんな幸せであることを願うこと

つまり、みんな幸せを願っている。自分だけが幸せで何が幸せだろうか?自分の家族だけが幸せでは、誰かに恨まれ憎しみを持たれるかもしれない。じゃなくて、自分の地域、自分の国、同じ民族、それだけでもなく、世界全員が幸せを願うべきじゃないかと。
ココには、人類だけではなく、動物も、虫も、ありとあらゆる 生きとし生けるものがみんな幸せであることを願うことが、幸せにつながるのではないかと。

宗教が担ってきたことを、科学的な幸福学が担うのである。

他人と比較することがなぜ幸せになれないのか、他人を受け入れないことがなぜ幸せになれないのか。

他のことはまた時間があるときにまとめてみたいと思います。


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