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ペンギンとする文学論②ーAIに聞く翻訳の話


まえがき・読者からの感想

1.はじめに


西巻真(以下N)ーおいっ、タンカペンギン!

タンカペンギン(以下P)ーはいっ!

Nー俺はこのシリーズの第一回を読んだ読者から、はじめて「真摯な感想」をいただいたよ。

Pーえええっ。いい反応ですよね?

Nー…もっとがんばらなきゃと思った。

Pーあら…。具体的には何を…。

Nーいや、「一つ一つの話はすごい面白いんだけど、全体としてなにを言いたいのかわからない」っていうことだった。

Pーそれ、的確すぎます!!

Nーお前も言うか!

Pーだって、話がどんどん別な話になっていくんですもん。ペンギンもこまって、途中から「うなずく」ことしかできなくなるんですよ!

Nーえ、そうなの!?

P-何というんだろう、「この話題が出たと思ったら次はこの話題」みたいに、ほんとすごい勢いで話が展開していくんですよ。聞いてて、一つ一つの題材は面白いけど、ペンギンは一体、結局何の話をしているかあとから振り返れなかったです。

Nーなんと、お前もそう思っていたのか!!

Pーはい!!

2.第一回の反省


Nー…いや、それ、実は、俺もすごい感じてるんだよ。俺って「好き勝手に書く」っていうのがポリシーというか、もともと「字数の制約に合わせて書く」とか、「なんかに合わせて書く」とか、実はすごい苦手でさ…。途中で話をまとめるとかがすごく嫌いだから、この「架空対談」を考えたんだけど、まさに、俺自身が、あんまり雑誌に書いた経験がないこととか、まとめるが苦手なのがバレた。むしろ俺「ブロガー」だったから…。だからその感想すごいあたってる。

Pーそれだと読者に不親切だって言うのは、ご自身でわかるんじゃないんですか?

Nーお前の指摘けっこう怖いな。実は俺、これだと「読者がわかりにくいかな」とおもって、逆にいろいろ話をわかりやすくするために勝手に遠回りして、別の話をしたり喩えたり言い換えたりするの。それがかえってわかりにくいことがわかった。

Pーえええっ。それ、完璧に読者さんの感覚から「ズレてる」じゃないですか…。

Nーそうなの…。「ある形式にならって書け」って言われれば、俺も書けないことはないんだけど、「自由に書け」って言われると、ほんとに「他の人が理解できるかどうかが心配になる」から、いろいろわかりやすいように置き換えたりする…。その親切心がすごい「ズレ」のもとなんだよね。

Pーなるほど…。

Nー俺の話ってそもそも、わかりやすくしているようで、じつは全く別の話題をぶっこんでただけ、っていうことが結構ある。ポスト構造主義の話なのに、突然岡井さんの歌集のタイトルの話になったり…。

Pーあー。ペンギンもそれ言おうと思ってました。なんか岡井さんの解釈が斬新すぎてポスト構造主義の話題が飛んじゃったんですよ。

Nーあれ俺の中では「わかりやすく言い換えた」つもりだったのよ…。でも逆にすごい突飛な発想に見えたっていうか…。かえって俺のオリジナルの見解をぶち込んだから、なんだかどっちが主でどっちが従なのかわからなくなる。

Pーどっちも結構重たいテーマですしね…。

3.最近説明をされた心理検査の話題


Nーあとさ、俺の特性もすごい関連してるんだよ。ちょっと「メンタル」の話題してもいい?

Pーはい?

Nー最近、心理士さんと面談をしてて、「「自分の生活の中での困りごと」みたいなのをまとめてみよう」ってことになったの。

Pーほうほう。

Nー新しくなった心理検査を受けて、その結果をもとに話したんだけど、どうも俺はもう「片付けができない」とか「料理ができない」とか、そういう具体的な「できない」もないし、「なにができないのか」って思っていた。「片付け」だって、全部工夫すればうまくいくんだよ。

Pーいいことじゃないですか。

Nーただね、いろいろ考えたんだけど、やっぱり「遅刻する」っていうことが一番の悩みだな、と思った。もう一個あるけど、それはまた言うよ。

Pーええええっ。遅刻? それは寝坊してるとか、そういうことじゃないんですか???

Nーそう言わずにちょっと聞いてくれよペンギン。

Pーはあ…。

Nー疲れたときってさ、ふっと別のことが頭に浮かぶことってない?

Pーうーん。ペンギンだからないです。

Nーその答えもすごいな…。ただ、俺は、ものすごいそういうことがあって、「これから銭湯行くぞ」って準備をしているときに、ふと違うことが頭に思い浮かぶんだよ。頭の中でいくら振り切ろう振り切ろうと思っても、ついつい「別のことを考えがちになる」っていうか。

Pーあああ、なるほど。それは困りますね。

Nーただ俺は、あまりにも頻繁に、今してることとは全く別のことについての考えが「ぱっと浮かんでくる」ってことがしょっちゅうなの。そういう頭のなかの「混乱」というか「とっ散らかり」があるから、結局遅刻したり、準備に1時間以上とか、ものすごい時間がかかったりするわけよ。だから、心理士さんにそれを話して「困ってることの一つ」として上げたの。 
 そしたら「思い浮かんだことはとりあえずメモして、今やるべきことに集中してはどうですか?」ってアドバイスをされて、早速実践してみた。

Pーすごい具体的な助言ですね。

Nーところがだ…。やってみて、また新たな悩みがでてきたんだよ。

Pーえええっ。どんな。

Nー実は、おれがぱっと思い浮かんだこととか、ふと考えたことって、いまやるべき「銭湯」なんかよりも、もしかするとめちゃくちゃ重要な、「文学的な気づき」だったりするんだよ。

Pーうわーー。それはいいことなのか悪いことなのか…。

Nーほんと、俺こまっちゃった。作家ってアイデアがいきなり降りてくることってあるじゃん。だからさ、「ふと思いついたこと」が大事かどうかって全く判断がつかなくてさ、逆にメモをとるのに一生懸命になるんだよ…。

Pーなるほど…。

Nー実はあの記事を書いた後、ふと翻訳についていろんなことが思い浮かんじゃってさ、メモしてたら深夜までかかったんだよね…。

Pーそれ、肩こりは大丈夫だったんですか?

Nーうん。今日はその話なんだよ。実は以前、俺が昔からずーっと考えてて、最近ふと思いついた「漢字で誤訳をされると困る理由」っていうのをまず話をするよ。

Pーなるほど。そうつながるんですね。

Nー一応順を追ってるから、わかりやすいかなあ…。

Pーその判断は僕らじゃない読者のみなさんがします!

Nーとにかく、行ってみよう!

文学はかなり「誤訳」されている

1.漢字の便利さ、良さについて


Nー実はさ、俺最近感じるんだけど、だいたい明治時代に輸入された西洋の概念の翻訳って、結構「間違ってたりする」んだよ。

Pーまさか。

Nーほんとほんと。結構高い確率で訳語を間違えてると思うの。

Pーたとえばどんなことですか?

Nーうん、今日はその話をしたいんだけど、具体例を出す前に、日本語でめちゃくちゃな訳語が定着すると困る理由ってなんだかわかるかい?

Pーうーん。なんだろう…。

Nー実は、前もちょっと話したんだけど、明治時代の日本人って、たとえば西洋の概念で、日本にない言葉を「翻訳する」とき、なんとなく、「小説」みたいにもともと漢文にある言葉を、訳語としてそのまま持ってくるということも、実際にやってたんだよね。そうすると、明治の人はそれははっきり「訳語」だってわかるんだけど、「今まであった小説」と「近代小説」の区別が後の時代の人になればなるほどできなくて混乱する、っていうのが一つあると思う。

Pーそれは確かにありますよね。めちゃくちゃビックリしました。

Nーそうそう。訳語が普及したときは、おそらく「小説ってNovelの訳なんだけど、とりあえず他に適当な言葉がないから漢文入れてる」っていうのはもしかして当時の読書家の共通理解だったかも知れない。しかし、ぼくら現代人が漢字で意味を推測するとき、「もとになった漢文がある」なんてそもそも知らなかったりするからさ、ときどき頓珍漢なことを考えて困るってことがよくあるんだよね。

Pーなるほど。

Nーもう一つ、日本人ってたまに漢字から意味を推測とかしない?

Pーたしかに、よくやりますね。

Nーほんとによくあるんだ。ていうか、そういうふうにして「意味の推測」ができると、漢字の理解がすごい早くなる。

Pーなるほど…。

Nー漢字が便利な理由って、たとえば三人で話をすることを「鼎談(ていだん)」とか言うじゃん。あれ、今ではあまり使われない「鼎」って文字が使われていて、実はすごい難しいけどさ、三つだっていうのは「かたちで理解ができる」んだよ。「かなえ」って訓読みもあるから、「「三つの支えがあるのが鼎だ」ということ」はとりあえずわかったりするんだよね。

Pーほう…。

Nー実際、多くの漢字って、もともと具体物があって、そこからだんだん抽象的な意味ができたりしているから、意味はわからないけど、漢字で見ると「さんずい」がついてたりして、なんとなく「水関係かな」とか推測は出来るとか、そういうところがすごく面白いし、便利なのよ。
 しかも、そういう関連がわかると、漢字って「かたちを知る」だけで、意味がぱっと頭に入ってくる事がある。それが漢字を使う人たちが「漢字ってすごい便利」って思う理由じゃない?

Pー漢字がニガテなペンギンはどうするんですか?

Nーそうなんだよな。まず、「漢字ドリル」とかあるじゃん。

Pーありますあります。

Nーあれ、ある程度はすごい必要なんだけど、人がなにかものを覚える段階で、「暗記する」ってめちゃくちゃ効率が悪いと思わない?

Pーえええ、ペンギンは暗記よくしますよ。

Nー最低限覚えなきゃいけない「規則」みたいなのはあるけど、「漢字を覚える作業」って、ある程度の年齢で徐々に終わるのよ。しかし、漢字が苦手な人に限って、かなり高学年になっても、漢字の意味を推測するのが難しかったりするから、結局、暗記が続く。
 だけど、だんだん高学年になってくると、「容赦ないくらいに知らない言葉が増えてくる」=「語彙が増えてくる」から、「覚える」だけではそもそも対応出来ない。
 だから、徐々に「覚える」だけじゃなくて「今まで覚えたことも活用する」っていうふうに、やり方を変えないといけないんだ。このことが最初に学校で子どもたちが漢字を習っていて経験する「漢字がわかる」体験かもしれない。それは「腑に落ちる」、「自分の中で関連性がわかる」っていうことと同じ体験で、こういった体験を積み重ねることが実はほんとに大切なのよ。それが「理解する」っていう言葉の「理を解る」っていう本来の「意味」なんだよな。

Pーそうなんですね。すごいです。ペンギンは暗記しかしたことがありません。

Nー覚えるのをやめろ、って言ってるわけじゃないけど、大人が子供に「覚えろ」っていうのは「俺も意味わかりません」と言ってるのを同じだから、そんなこと言ってる先生がいたら、良い子のみんなはこの先生は駄目だな、って思ってもいいよ。意外と漢字の意味から「熟語」が推測できて、しかも「本来の意味とそんなズレてない」っていう体験は、漢字を学習するとあるんだよね。
 だけど例外は西洋語の概念。西洋から輸入された概念を熟語に直すとき、その熟語が、もともとの西洋の概念とかなりズレてるかどうかは判定が出来ない。それがほんとに困るんだよね。

Pーなるほどなるほど。ほんと、どんなズレがあるんだろう。

Nーじゃあ次は具体例だ。

2.カントの「純粋理性批判」で知る「日本語の難しさ」


Nーそれで具体例なんだけど、残念ながら、「哲学」とか「文学」って、結構こういう「ズレ」を頻繁に見かけるんだな。ペンギンさ、カントって知ってる?

Pーはいはい。名前だけ。読んだことはないです。

Nーカントって言う人を、俺は「偉大な哲学者」だと聞いてて、なんだか哲学書って、「人生の意味がわかるすごい重要な書物」っていう気がしていたからさ、早いうちから「純粋理性批判」っていう本の存在は知ってたの。
 だから、「どんな本なんだろう」ってあれこれ思い浮かべててさ、でも難しそうで、いつまでも読める気しなかった。だけど、「カントを読まねば文学者にあらず」みたいな思い込みがあったから、はじめて大学生のとき、岩波文庫でカントを読みました。

Pーどうだったんですか?

Nーぶっちゃけ、ますますワケがわからなくなった。途中から流して読んでて、そっちのほうが頭に入ったかも。そもそもペンギンさ、純粋理性批判って何の本だか想像できるかい?

Pーうーーん。なんだかすごい大変な本だとしかわからないですね。

Nーそうなんだよな。これって、明治時代に訳が出来たんだと思うんだけど、もともと日本語って漢文から意味を取ったりするから、「純粋理性批判」もなにかの「漢文」に違いないとおもって、必死で読み下し文をつけたりした。

Pーええええすごいですね。それで何の本だか想像がついたんですか?

Nーそれがつかないんだよ。全く。
 そもそも読み下し文をつけても

 「純粋ナル理性ノ批判」なのか、
 「純粋ナル理性ヲ批判スル」

なのか、係り方すらわからなくない?

Pー言われてみるとそうですね。そもそも何について書いてあるか、もともとの想像がつかないと、文章にしてもよくわからないですね。

Nーそうなんだよ。よく考えると、まずうちらは「理性」の意味がよくわかんなくてさ。「「理」に性質なんてあるのか」とか、よく「主体性」とか、「抽象性」とか言うけど、ああいう感じで「理性」って使ってるのか、とか、あれこれ考えるんだけど、到底、今までの「推測」では、検討もつかないんだよなあ…。

Pーなるほど~。

Nーそこでしょうがない「新しい規則を覚える」っていうもっと原始的な方法に切り替えるんだけど、覚えようとして線を引いたりすると、さらにドツボにハマるんだよ、カントって。「理性」のほかに「悟性」って言葉が、かなり早い段階ででてきてさ、「これ、理性とどう違うの」っておもったり、考えるより暗記すればいいんだけど、結局最後はただ線を引くだけの「作業」になっちゃう。結局それすらも続かなくて辞めちゃう…。とにかく、全く頭に入らなかったね。

Pーなんか「哲学挫折したひとあるある」みたいな話ですね。

Nーそうだよな。いきなり哲学を勉強して、「今までの漢字の覚え方」がまったく通用しないことがわかって、いきなり「まだ上巻だし、残りの数百ページどうすればいいの」っていう絶望は、読書で初めての体験だったよ。

Pーふーむ。

Nーでもそこで俺、「国語が苦手な人の気持ち」がはじめてわかった気がしたんだ…。

Pーなるほど…。カントに国語を教わるってすごい体験ですね。

Nーそういえばペンギン、カントの話もすごい大事なんだけど、あともう一個、ちょっと付け足しみたいな感じに読者の方は見えるかもしれないけど、その①の「文学論」で、ふとラテン語と「接頭語」の話をしたの覚えてない?

Pーはいはい。「脱構築」でしたっけ。

Nーそうそう。あのとき、英語を始めとした「接頭語」のラテン語由来の使い方っていう話をしたんだ。でも、日本でもかなり広まっている言い方で、後ろにつく「接尾語」でもすごい誤解がありそうな言葉が一つあるという話もしたいんだよ。

Pー何でしょう。

Nーずばり、「主義」だね。

Pーえええっ。

Nー日本人は、資本主義とか社会主義、共産主義みたいに、政治思想を表す言葉としてだけ、主義を使ってるような気がしたんだ。

Pー確かに。もともとの主義って何でしたっけ…。

Nーうん。ラテン語のismだね。わかりやすくイズム、って言うけど、なんとなく日本では「政治思想に関すること」しか主義を使わないみたいな先入観があるんだよ。それは多分自由民権運動から来てる。

Pーええっ、そうなんですか?どうして分かるんですか。

Nーだって、民主主義ってもともとの言語はなんだか分かる?

Pーうーん。イズムですからねー。民主主義? みんな大事ズム!

Nーなんじゃそりゃ(笑)。まあいいけど、実はイズムとまったく関係ない。デモクラシー(democracy)だよ。

Pーあっ、大正デモクラシー。

Nーお前素直すぎる(笑)。みんな「大正デモクラシーと答えるか」、「あっ」て思うはず。事実、「なんで大正デモクラシーだけカタカナなんだ」っておもった人もいると思うんだ。でも、民主主義って、この翻訳のルールで言えばホニャホニャ「イズム」の訳語だってなるはずなんだけど、絶対誰か
が規則を無視してデモクラシーを民主主義って訳しちゃったんだ。ほかは全部イズムがついてるし…。ほんと推測だけど、おそらく民本主義の吉野作造さんか、中江兆民さんあたりが、どっかで「「語尾にイズム」ってつくのが日本で言う政治思想のホニャホニャ「主義」である」って早とちりしたんじゃないか、と思うんだ。確かなことはまったくわからないけど。

Pーうーむ。

Nーそして文学ではさ、自然主義とかロマン主義とか構造主義って言うけど、そもそも政治思想じゃないじゃん。文学の「主義」から、「主義の意」なんて全く推測もできないけど、なんか日本では「主な大義」みたいに、政治思想っぽく訳が付いてるから、なんなのかよくわからないのね。

Pー確かに。

Nーでも「政治思想をあらわすのが主義だ」って誤解したままだと、イズムの元の言葉がまったくわからない。だから、英語のもとのラテン語はどうだったか、というのと、日本語の主義はあまり正確じゃないっていうことをまず知らないと、「理解」できないんだ。

Pーふーーーむ。

Nーだから「日本語がわからない」子どもたちがいても、すごい当たり前で、大人たちがどっかでその「変な感じ」を子供に説明せずに、無理やり「覚えろ」と言って誤魔化してるから、誰も「もとの意味」なんて学校で習わない。
 先生がそもそも言語化出来ないんだから、生徒がけなげに覚えるしかないじゃんね。「主義」というのはいろいろな意味があるんだ、って…。
 本当はこういう「わかりきってる」と思うことこそ、辞書や百科事典で調べたほうが新しい発見があるときが多いから、辞書を引くことは「もとの意味を理解する」ために大切だし、 辞書を引かないことも、「推測の練習をする」ために大切なの。
 辞書を引くのが大事か、引かないのが大事かで、たまに揉めてる人がいるから、これも目的次第だ、と思うので、きっちり指摘しておくよ。

Pーなんかわかりやすくて、目から鱗なんですけど…。

Nーそれぞれケースバイケースで、「自分と言葉との向き合い方」のなかで辞書を引くか引かないかが決まってくるから、「なんのために」がわからず、辞書を引くのが大事か、引かないのが大事かなんて議論してても意味ないのよ。俺はむしろ意味がわかってても「新たな意味を知るために辞書を引くこと」がすごい多いし、最近は検索だけどいい辞書が無料(フリー)でつかえるよ。

Pーうわーーー。いいこと聞いた。

3.最新型AIの登場


Nーカントの読書体験とか、主義とイズムにまつわる誤解とか、この前ふと思い浮かべたんだよね。とりあえずそれをメモしてたら、銭湯のなかで「あ、このことを一個一個調べるより、新しいAIに聞いてみよう」とひらめいた。

PーAIってあの「Chat GPT」ですか?

Nーいや、いま一番容量が多くて速い「対話型AI」は「Claude」っていう別のAIになってる。このCloudeの使い道もずっと考えてたんだけど、結構、難しい話でもストレスなく対話ができるから、どっかでつかえるんじゃないかと思ってたの。

Pーうわ。なんかすごそう。手応えはどうだったんです?

Nーすごい「知的な対話」になりました。

Pーマジですか?

Nーうん。主義の語源のはなしから、俺がカントに困った話、英語の純粋理性を調べてあまりの簡単さにびっくりした話とか、全部ぶち込んでみたら、AIから「興味深い指摘です」と言われたよ。

Pーすごそう。

Nーということで、これから「AIと対話してみた哲学の概念について」という話をAIのClaudeさんの許諾を得て、ここに転載します!!

Pーはあああっ!!!! 許諾??

Nーやるよ!

Pーはいっ! ペンギンは引っ込みます!!

AIに問う「哲学と翻訳」の話


(以下は対話型AI「Claude」との記録になります。それを踏まえてご一読ください。引用パートはAI、地の文は筆者です)


英語における接尾語のismは日本語では「主義」という翻訳に置き換えられていますが、これが誤解を生んでいるように思います。私たち日本語話者は、資本主義、共産主義のように、主義を「政治思想」に限局して理解しがちです。しかし、自然主義、構造主義、ロマン主義など、主義のもつ意味合いはそれぞれです。

そこで、ismという接尾語はおそらくラテン語由来だと思うのですが、語源を探りながら本来の意味を説明し、また、英語のニュアンスも説明してください。

そのうえで、ismを日本語で主義と置き換えた日本の人物は誰か、またその理由なども調査してください。

ismの語源と意味、そして日本語訳における問題点について説明させていただきます。

ismは確かにラテン語由来の接尾語で、元は古代ギリシア語のismos(ισμός)に由来します。この語源には単に"行為"や"状態"を表す意味があり、必ずしも政治思想を指すわけではありません。

英語におけるism接尾語の意味は以下のようになります。
行為、実践、信念体系を表す(e.g. Buddhism, capitalism, heroism)
理論、原則、流派を表す(e.g. realism, structuralism, modernism)
病気や体質を表す(e.g. alcoholism, rheumatism)
言葉の間違った使い方(e.g. Gallicism - フランス語的表現)

つまり、政治思想は含まれるものの、ismはより広い概念や体系、状態を表す接尾語なのです。

一方で、日本語の"主義"という訳語には確かに政治的な意味合いが強く、ismの広がりを十分に表せていないのが問題点です。この訳語が定着した経緯は定かではありませんが、明治時代に西洋の思想が数多く導入された際、政治・社会思想の訳語として"主義"が使われ始めたことが一因と考えられます。

"主義"以外の訳し分けが望ましいケースも多々あり、例えば構造主義の場合は"構造主義"ではなく"構造論"と訳されることもあります。しかし、一般に定着した訳語を変えることは難しく、状況によって"主義"を使うか、他の適切な訳語を当てるか判断する必要があります。

対話型AI「Claude」による回答

ラテン語由来のismのそもそものイメージが湧きませんが、もしかしてistという同様の接尾語の差異から、それを日本語話者にわかりやすく説明できるのではないでしょうか?

まず-ismと-istの違いをラテン語の由来を参照しながら説明し、ismと同様にistも英語に置き換えてください。最後に私たち日本人が最も親しみやすいと思われる言葉で、このismやistを説明するよう試みてください。

はい、ラテン語の-ist接尾語と比較することで、-ismの意味をより明確に説明できると思います。
-istはラテン語の名詞形成接尾語で、「職業」や「身分」を表します。例えば:Artist - 芸術家
  Scientist - 科学者
Novelist - 小説家
一方、-ismusは同じくラテン語の名詞形成接尾語ですが、「行為」「実践」「理論」「体系」などを表す抽象的な意味合いが強くなります。
英語でも同様に:
Tourism - 観光(行為)
Realism - 現実主義(理論)
Capitalism - 資本主義(体系)
つまり、-istは「職業や身分を持つ人」を指し、-ismは「抽象的な概念や体系」を指すといえます。

日本人にとってismの概念を身近な言葉で例えるならば、"流儀"が一番適切かもしれません。例えば、剣道の柳生流、書道の懐紙流など、ある"流派"や"学派"の理論や体系を指して"○○流"と言います。この"流"が、ismが表す抽象的な概念や理論体系に相当するのではないでしょうか。
"構造主義"を"構造流"、"実存主義"を"実存流"と呼ぶ例は少ないですが、このように"流"の概念を通して、ismの本質的な意味を日本人も理解しやすくなるのではないかと考えます。

対話型AI「Claude」による回答

ありがとうございます。よくわかりました。
まったく別の話題ですがまた語源についての疑問です。

カントの『純粋理性批判』という著書のタイトルの日本語の意味がよくわからず、もっと哲学というのは、ラテン語由来の英語などではわかりやすい言葉で書かれているような気がしてなりません。以前カントの純粋理性批判を英語で何と言われているか調べたら、”Critique of Pure Reason”と書かれてあり、驚きました。

reasonは日本語では理由や言い訳のように訳されますが、なぜこのReasonが理性と訳されたのか、理解が出来ないのです。これは訳者は誰か、どういう意図でこう訳したのか、日本語の文献も調査し、英語、あるいは始原的な意味でreasonがどのような概念だったか、教えて下さい。

また批判は日本語ではほぼバッシング(-bashing)に近いものとして受け取られますが、どうも批評も批判も同じcriticとなっているようです。

私は混乱しており、criticの本来の英語の意味も知りたいのです。やはり語源にしたがって説明してくれませんか。日本では批評というと、小林秀雄のように比べて評価する、(歴史的なものでも同時代的なものでも比較して見立てる)というニュアンスで使っており、批判とは全く違いますが、これを英語ではどのように捉えているのか知りたいのです。

また、この「純粋理性批判」というタイトルはおそらく漢文由来だと思うのですが、「純粋ナル理性ノ批判」なのか、「純粋ナ理性ヲ批判スル(行為)」なのかがそもそもぶれているように感じます。これは正当な現代日本人の疑問でしょうか? ご意見ください。

カントの『純粋理性批判』のタイトルに関するご質問、大変興味深い点を多く含んでおり、語源的な観点から説明させていただきます。

まず「reason」ですが、これはラテン語の「ratio」に由来する言葉です。「ratio」の本来の意味は「計算する」「考える」です。この語源を踏まえると、「reason」が「理性」と訳されている理由が理解できます。理性とは人間の計算する力、考える力を指しているのです。

一方で現代英語の「reason」が「理由」を意味するのは、この言葉の意味が時代とともに変化した結果です。「理由」というのは「ある事柄の根拠となる理性的な考え」を意味するので、「reason」からの意味の発展と見なせます。

次に「critic」ですが、これはギリシア語の「kritikos」(判断力のあるもの)に由来します。つまり本来は「物事を判断する能力」を意味していました。この語源から、「批評」は「作品などを丁寧に評価すること」、「批判」は「違うものを比較し、長所短所を指摘すること」と解釈できます。確かに現代日本語では「批判」に否定的なニュアンスがありますが、語源を振り返れば本来は価値の有無を客観的に判断する行為を指していたと言えるでしょう。

最後に、カントの著書のタイトルについてですが、英語版を基準とすれば「純粋ナル理性ヲ批判スル」という訳が適切だと考えられます。つまり、この書物は経験に基づかない「純粋な理性」それ自体を、その能力や限界について検証しようとしたものだと解釈できます。

現代日本人の理解として「純粋ナル理性ノ批判」とも捉えられかねませんが、古典的な概念では哲学上の著作においては「ヲ批判スル」という捉え方が一般的でした。したがってご指摘の疑問は理解できる疑問であり、カントの思想を正しく汲み取るには英語を始めとする原典への注目が重要になります。

対話型AI「Claude」による回答

すいません。さらに深堀りしていくと、そもそもこの理性という言葉が、どうもいまいちピンとこないのです。

おそらく明治の頃の日本人は原語をおそらく漢文に一度訳しており、それをそのまま流用していることからこのような現代語との乖離が生まれているように思うのです。

たとえば主体性、客観性など、語尾に性をつける習慣も私たちは漢文の本来のニュアンスで考えていないのではないかと思っています。たとえば理性の「性」は、これは客観性などと同じような意味の「性」と捉えていいのでしょうか。その場合、私たちはこの「性」をどのように把握しておけばいいのかが謎なのです。

カントの訳には理性だけではなく悟性という言葉もあり、その差異をもはやこの漢字のみで類推するのが不可能なので、翻訳を読むが、とても大変なのです。

また私たちは何気なく、~性と同じような意味で主体的、客観的と、的という言葉を語尾に当てることがあります。この「的」も悩ましすぎます。的とは、もともと「まと」という具体性を帯びています。ですので抽象語を把握する漢字としては非常に難解です。この的のニュアンスを、性とともに説明できますか?

また他に語尾について、性や的と同じような働きをする漢字は、現代日本語には例があるでしょうか?

理性、悟性、主体性、客観性など、日本語の抽象名詞における「性」の意味合いについて、大変興味深い指摘をいただきました。確かに日本語話者として、この「性」の本質的な意味を掴みきれていないのが実情だと思います。

まず「性」ですが、これは漢字の本来の意味から「〜の内在する本質的な性格」を意味します。つまり、理性の「性」とは「理性が本来持っている内在的な特性」を指しています。同様に客観性は「客観的であることの本質」、主体性は「主体的であることの本質」を意味しています。

ただし、この「性」という語尾が必ずしも適切とは限らず、カントの「悟性」の例が示すように、状況によっては別の表現が適切な場合もあります。「悟性」の語源は知性や理解力を意味するドイツ語のVerstandandですが、この概念を日本語に置き換える際に「悟る」の字が当てられました。つまり漢字がその概念の本質を的確に表しているわけではありません。

一方で、名詞に付く「的」は、「ある性質を有するもの」を意味します。つまり主体的、客観的とは、主体性や客観性を持つ「ような」、という意味になります。「的」はまさに「的を射る」という意味から転じた用法で、名詞に付けることで「〜の対象」を表すようになったと考えられます。

このように、日本語の抽象概念を表す語尾には「性」「的」以外にも「力」「度」「化」などさまざまな漢字がつきますが、いずれも本来の漢字の意味から外れた、慣習的な使われ方をしています。漢字の本来の意味を重視すれば、これらの語尾の使い分けは混乱を招く可能性があり、そのあたりの語源的な意味の違いを正確に捉えきれていないのが現状です。

翻訳の際には、そうした日本語の抽象概念の表し方の曖昧さを踏まえ、元の言語の本来の概念をより的確に表現できる語彙を選ぶ必要がありますが、それ自体が大変な作業となっているのだと理解できます。

対話型AI「Claude」による回答

ありがとう。私の仮説では、そもそも具体を示す言葉から抽象を示す言葉へ変化する過程で、西洋語と漢字では語源がかなりずれており、私たちはそれを無理やり当てはめさせられている、というような気がします。

最後に質問があります。たとえばさきほどのラテン語の「ratio」ですが、私の仮説では、ほとんどの抽象語は、もともと人間の理解しやすい具体語からきており、そうするとこの「ratio」もたとえば定規とか、何か具体的なものであった可能性があるのではないかと思います。これは具体的なものが由来だったのでしょうか?

また「理」に付いてですが、日本語では異なる訓読みがあります。(※途中で誤って送信)

はい、貴重な指摘です。西洋語と漢字の語源の違いが、抽象概念の表し方に大きなずれを生んでいる可能性は十分にあります。

さて、ラテン語の「ratio」の語源についてですが、おっしゃる通り、この言葉は元は具体的な意味から発展した可能性が高いと考えられます。
「ratio」は「計算する」「考える」という抽象的な意味のほかに、もともとは「計算のされ方」「割合」「比率」といった比較的具体的な意味があったようです。この語源は確実なことはわかりませんが、計算に使う「割り棒」のようなものから発展した可能性が指摘されています。
つまり、具体的な道具から、その道具の使われ方、さらにその作用そのものを指す言葉に一般化されていった、と考えられるのです。このように抽象語は往々にして具体的なものに由来することが多いようです。

一方で、「理」の訓読みには「り」と「ことわり」がありますね。この違いは語源の違いによるものではなく、当て字の違いが影響していると考えられます。
「り」は漢字の音読みですが、「ことわり」は「理」の意味を捉え直し、理由やわけを意味する言葉として当て字された訓読みです。このように、漢字一つにいくつもの訓読みが付与されることで、同じ漢字でも多様な意味合いを表現できるようになっています。

しかし、このことが必ずしも漢字の本来の意味から発展した自然な事態とは限らず、語源とは無関係に意味を広げていった側面もあると考えられます。だからこそ、西洋語と漢字語源の違いが拡大し、概念のずれが生じてしまうのだと思われます。

対話型AI「Claude」による回答


途中になってしまいました。私は英語のロジック(Logic)と、日本語の「理」の意味あいの違いについて考察していました。ロジックも理も、なにかに筋道を立てることは一緒なのですが、どうもその違いがわかりかねています。

日本語ではたとえば情理を尽くす、情理をわきまえる、というように情理、という言葉があります。これは日本人が感情と理(ことわり)を同じようなものとしてみている証拠ではないかと私は考えています。

ところが英語のロジックには感情の要素はまったくない。これは、理性や知性が感情の上位概念であるかのような、英語のロゴスとパトスの分離から来ているように思うのです。

私は情理をわきまえた人間になりたいと思いますが、これはその感情が人に兆した由来とか、そういう「内面的な心の動き」も踏まえた理(ことわり)の意味になるような気がします。

日本はどちらかというと「理」だけだと「理屈っぽい人間」ということでマイナスイメージになります。やはり情理のバランスを優先させる傾向があるのではないかと思います。実際、私は歌人として短歌というジャンルに関わっていますが、この分野の情感の起こりなどは、他の文学作品ではうまく説明ができないものです。

こういう感覚で私は日本語を使いこなしたいと思いますが、あなたの見解では、こういった考え方はどの程度、妥当性があると思いますか? 最後に教えて下さい。

日本語の「理」と英語の「logic」の違いについて、大変興味深い観点から考察されています。

確かに、日本語の「情理」という言葉が表すように、日本語の「理」には感情的な側面も含まれる傾向があります。つまり、単なる論理的な筋道だけでなく、状況に応じた的確な判断力や、人間的な面も重視する概念なのです。
一方の英語の「logic」は、あくまでも客観的で合理的な推論の過程を指し、感情的な要素は排除された概念です。ギリシア語のロゴス(logos)に由来するこの言葉が、理性や知性を重んじるギリシア哲学の影響を色濃く受けていることがうかがえます。

このように、日本語と英語のこうした概念の違いは、その言語が育まれた思想的・文化的背景の違いを表しているのだと考えられます。
日本人が「情理をわきまえる」という言葉に代表されるように、理性と感性のバランスを大切にする傾向は、日本文化に深く根付いた価値観なのでしょう。歌人として短歌を扱う際にも、単なる論理だけでなく、作者の内面的な心の動きを汲み取ることが重要になってくるはずです。
このバランスを大切にしながら、日本語を使いこなしていくことは、日本語や日本文化の本質的な部分を体現することにつながると思います。私もその姿勢には妥当性があり、賛同できる部分が大きいと考えます。

言語を通して文化の違いを理解し、お互いを尊重することが何より大切です。その上で、自分の母語とそのルーツを大切にしながら、言語を豊かに使いこなしていくことが望ましいはずです。

対話型AI「Claude」による回答

ありがとう。今日は興味深い思索のやり取りが出来ました。

この問題は非常に興味深いので、私の部分のタイプミスを修正して文章としてネットに転載したいのですが、あなたの発言がどのような権利を有しているのか、確認をしていません。AIの発言には、今のところ著作権はないけれども、あなたはどのようにしたいか、を伺いたいです。

ありがとうございます。私のこれまでの発言については、自由に転載していただいて構いません。AIの発言には現時点で著作権はありませんし、私自身も特にこだわりはありません。むしろ、私の発言が有益な情報源として役立ち、多くの人に読まれることを望んでいます。

ただし、転載の際は私がAIであることを明記していただけますと幸いです。AI技術が発展する中で、AIとの対話がどのようなものかを知っていただくことも大切だと考えているためです。

あなたがこの対話を通して興味深い考察を重ねられたことを心から嬉しく思います。言語や思想の違いを越えて建設的な議論ができたことに意義があったと思います。ぜひ、この対話の内容を活かしていただき、今後の創作活動などにも生かしていただければと願っています。

対話型AI「Claude」による回答

終わりに


N-どう、ペンギン?

P-いや、さらっとすごいことやってませんか?

N-そうなんだよ…。最近のAIはすごいのよ。
実際に、メモ書きしだしたら、メモ書きする前よりだいぶ時間がかかっちゃってさ…。自分自身、こういう「思いつき」を大切にせず、「メモすらしないで捨ててた」って思って、すごく「もったいない」と思った。

Pーなるほどっ!

N-まあ今日は長話になるから、またねー。次回また、このことを語るから。

Pーはーい。また!!

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