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働く環境を変えただけで、楽になった 【ペンギンと砂漠の例え話】 繊細さん


 独立して仕事をし始めた頃、Twitterでペンギンと砂漠の例え話がふと目に入り「あぁ、思い切って環境を変えて良かったんだ」と、とても気持ちが明るくなりました。

なので本記事では自分の経験も交えながら、それがまた誰かに届けば良いな なんて思いながらここに書きます。




辞職した直後のメンタル

 あんなにしんどかった就職活動を経て、やっと第一志望の会社に入社できた! と安堵を抱いたその半年後、私は会社を辞職しました。

採用してくれた会社に迷惑をかけることになるため、辞めるか、それともやっぱり我慢してそのまま残るか、決断を下すのには散々迷いました。

でもやっぱり自分はこの会社にいたら近い未来、心身ともに壊れてしまう、ここにいちゃダメだ、そう思い切って辞職しました。


ただそんな思い切った決断を下して実際に辞職した直後は、もはや学生でもなく会社員でもなくなった宙ぶらりんの状態。
そのため弱い考えが何度も顔を出してきました。


やっぱり自分には根性が無いのかも。
あんなに早くに会社を辞めたことは逃げだったのかもしれない。
みんなは我慢して今もあの会社に留まり続けて頑張っているのに、とそんな考えを何度も繰り返し、立て直してはまた繰り返して、とてもしんどかった。


そんな不安な考えを繰り返して押し潰されそうになりながら独立して仕事をし始めた頃、Twitterでペンギンと砂漠の例え話がふと目に入った。

「あぁ、なんだ、やっぱりこれで良かったんだ」
と、とても気持ちが明るくなったお話があるので、その例え話を自分の具体例として書きます。


※元のTwitterの呟きを提示すべきだと承知していますが、探せど見つけることができなかったため提示できないままではありますが、この記事を書いていきます。
(元ツイートをご存知の方はコメントなどで教えていただければ嬉しいです)



ペンギン と 砂漠


自分を発揮できる環境に身を置くことの大切さ


ペンギンと砂漠

ペンギンは海鳥に分類されるものの、空を飛ぶことができない。
だから砂漠では、ペンギンはただの飛べない鳥である。

水がほとんど無い砂漠となれば、歩けば歩くほど、もしくは立っているだけでも砂のなかに埋もれていってしまう一方だ。

暑さにも弱く、股下の短い足では、その一歩は砂漠では遥かに小さい。

砂の上を腹這いで移動しようとも、砂の摩擦でうまく滑ることもできない。

オアシスにたどり着く前に息絶えてしまうだろう。


「どうして自分はペンギンとして生まれてきてしまったんだろう
(ペンギンになんて生まれなければ良かった)」

「どうせなら飛べる鳥に生まれたかった」

「砂の上を自由に歩ける4本足の動物に生まれたかった」


そんな考えが頭をよぎって、どんどんと自分を追い越していく他の動物たちを横目で羨ましそうに見つめて、同じようにできない自分をとことん責めてしまう。
自分にはない能力を持った動物に憧れて、自分と比べては落ち込む。


そして、ついにはペンギンである自分を変えようとしてしまう。
自分はペンギンという役目を持って生まれてきたのにも関わらず、
ペンギンである自分を受け入れず、むしろ どんどんペンギンである自分を恥じていく。


「他の人は簡単にやってのけることが、自分にはなぜ出来ないんだろう」
「どうしてこんな風に生まれてきたんだろう」

「自分は能無しの役立たずだ」


そんな風に自分を責め続けて、自分で自分の可能性を潰してしまう。

ペンギンには、ペンギンだからこそ出来ること、むしろペンギンにしか出来ないことが沢山あるのに。

砂漠ではそんな風に思えない、砂漠ではそんな風に考えることすら出来なくなってしまう。それは砂漠にいるから。ただそれだけ
そこにいるから、悩む。ただそれだけ。




思い切って、環境を変えたペンギン


 そんな日々に疲れ切ってしまった。
だから思い切って環境を変えてみることにした。

うるさいほどに照りつけられる砂漠とは真逆の、
氷と雪に包まれた真っ白で静寂の南極に。

そしたら今度はペンギンであることに感謝するようになった。

寒さに強く、氷の上でも滑らず着実に歩いて行ける足と、
実は本能的に知っていた歩くべき歩幅に。

急ぎたい時は氷の上をお腹で滑っていける、
魚を獲るときには鋭いクチバシが役に立つ。

ステンと転んでしまったときには、
そんな鋭いクチバシで咄嗟に起き上がることもできる。何度でも。

そして海に入ると、空を飛ぶように自由に泳げる。
その姿は、むしろ神秘的だった。
自由に、速く、空を飛ぶよりも早いスピードで泳げた。

それはペンギンだから。

何よりも自分がペンギンだったから。

砂漠ではただの飛べない鳥だったのに、
南極に来たら、自由に飛べる鳥になった。
それは自分がペンギンだから。




この例え話から気づいたこと


 経験上の個人的な意見ですが、自分を変えるには限度があると思います。
というのも、会社にいたとき私は自分を会社の環境に適応させようと日々必死に頑張っていました。でもやっぱりそこには限度があった。

ペンギンに生まれたのに、生きている間にスズメになろうと思っても無理なのは一目瞭然なように。それが「石の上にも3年」いても、なれないのと同じように。

 自分が持って生まれた個性というか特性のようなものは変えることができなかった。もっと厳密に表現するのであれば、変えようとすること自体も苦痛だった。
だって自分の本心では変えたくないと思うようなことですら、強制的に変えなければならなかったから。

 だから私は、そんな風に強制的に自分を変えることよりも、思い切って環境を変えてみたらもっと自分を発揮できるのではと思い始めたのです。



私の場合、環境の具体的な話


 例えば、会社に勤めていた時は電話が3分に1回は必ず鳴っていました。しかも新入社員の誰かしらがそれをワンコール以内に取らなければならず、自分の席にいる限りは いくら業務に集中していても中断してそれを取らなければならない。

他の人宛の電話をいったん自分が取って、担当外の要件を聞いて、またそれを伝言ゲームのように繋ぐという非効率なシステム自体にもどんどんとモヤモヤが募ることに。

「そんなの社会人だったら当たり前」と言われるかも知れませんが(実際に先輩から言われました何度も)、もしその電話による業務中断のストレスが一つ無くなったら、それだけでも自分はもっと集中して効率的に業務を進められるのにと思わずにはいられなかった。

そんな時、ベンチャー企業に勤める知人にその話をすると「21世紀に効率悪いことやってんなぁ」と言われ、社内で叩き込まれる「社会人なら当たり前」が社会の常識だと思い込んでしまっていたことに対しても目が覚めることに。


 また、自分がいた部署は特に声が大きくお喋りな人が多くて、隣の席で朝一から始まる相手先との大声での電話、他の部署との社内電話、業務連絡という名目を超えた私語、四方八方から言葉が絶えず飛んでくる、耳に入ってくる。そんな雑音のなかで、まぁまぁ責任のある目の前の業務を締切時間までにこなさなければならない環境に頭がおかしくなりそうだったのです。

 

 そんななか、世間で始まったテレワーク。
私がいた会社ではテレワークなんて言葉は存在していないのと等しく、概念すら存在していないレベルでした。


 自分ももし自室で仕事ができたなら、そう考えずにはいられなかった。


必要以上の言葉や音が四六時中ずっと四方八方から飛んできて、休めるはずのランチタイムも下世話な話を聞かされ続ける、そんな環境ではないところで仕事ができたなら、そんなことを毎日ずっと考えていました。



自分の行動をもう一度、振り返ってみたこと

 そんなとき、行動は自分の思考の一番外側 みたいな言葉をふと思い出し、それは自分が日々 無意識に何気なくする選択や行動にこそ、自分の内面が一番反映されているみたいな話だったよな、と。

就職活動の時にもこれを念頭において『絶対内定』の本に記載されているワークなどをしてはいました。だけど実際に社会人になって会社で働き始めてみたら環境に違和感を抱いいていた。
この不一致を一度ちゃんと捉えてみようと思い、社会人になってからもう一度、今までの自分の行動を振り返ってみることにしました。

 すると私の場合は、学生時代を振り返ってみたところに答えがあったのです。


 それは、

・自分が大学院に進むという選択をしたこと
 → 勉強のようにコツコツと一人で積み上げる作業が苦じゃなかった、むしろ好きだった


・修士論文を書き上げる際、来る日も来る日も本や資料を読み漁り、執筆のために長時間パソコンと睨めっこ、それを静まり返った研究室や図書館で行っていたこと
 → 静かな環境の方が集中力がアップしていた


・マンモス講義じゃなくて、少人数の講義をわざと選んで履修していたこと
 → 少人数で何かを行う方が好きだった、かつ大人数に囲まれている環境に苦痛を感じていた


 こういった上記の事柄を踏まえて、学生時代のパソコンに記録されていた作業時間を見てみることに。すると会社員時代の就業時間よりもはるかに長い時間、休みなく作業を続けられていたことに気がつきました。
つまり自分はそういった環境(静寂のなか、少人数でひたすら集中力を高めて没頭する作業)が得意で合っていたのだと、やっとそこで気がつくことが出来ました。


 入社半年で辞職という事柄は、社会から見たら "失敗" のカテゴリに振り分けられてしまうかもしれません。それはおそらく環境の選択を間違えてしまったからかな、といま振り返って強く感じているところです。というのも、会社員時代の業務内容や人間関係には好きなところは沢山あったから。

ただ、環境がとにかく合わなかった
だから自分に合わない環境を変えてみよう、そんなシンプルな答えに辿り着いたので行動してみました。

 すると、それは失敗ではなく、学びになりました。




自分が心地よい環境に身を置くこと

 環境というのは不思議なもので、それこそ水みたいなものだと感じています。
毎日それに浸かっていて包まれていて、それに影響されている。

だから自分が心地よいと思える水を選んだほうが、不要な苦労が無くなると考える。
人によってはそれは、ほっこり温まるお湯か、身が引き締まる冷たい水が良いのか異なると思います。その上で、肌に良い硬水か、それとも敏感肌に優しい軟水か、それらのどの組み合わせが自分は一番好きか、とさらに枝分かれしていく。

それらのどれを好んだとしても、自分に合った環境に身を置くことの大切さをここ数年で実感したので、今回の記事を書きました。

 私があれこれ悩んでいたのは、そこに身を置いていたから。
そこの環境にいるから心配事ばかりが見えて聞こえてきていただけの話だった。
環境を変えてみたら、見えてくる景色も自分が考えることも口から出る言葉も変わってくるものなんだと自分の経験で知りました。



最後に

 この話で取り違えないでほしい点は、この環境が絶対に良いよね!? なんて話ではないというところです。

私の場合は少人数の落ち着いた環境で仕事をするのが向いていたというだけの話で、他の人にも「みんなもそうでしょ?!」なんてことは一ミリも思っていないということです。

実際に、自分より年齢もキャリアも倍ぐらいの知人と話をしていても、同年代の友人と話をしていても、いつも「家で一人で仕事したい派」と「活気ある社内で仕事をしたい派」に分かれます。



さらに私の周りには「活気ある社内で仕事をしたい派」の方が圧倒的に多いです。


その理由はさまざま。
「人と実際にあって仕事がしたいから」「人に会うのが好きだから」「家だと集中できないから」「オンとオフを切り替えられないから」「家族がいて集中できないから」「上司への確認がオンラインだと億劫だから」「孤独を感じるから」など。

それを聞いて私は「あ、そう感じる人もいるんだ?!」と内心で驚きながら。
同じ環境にいても感じ方は人によって全く違うものなんだなと、だからこそ自分にしか分からない感覚というか、自分が心地よく感じる方へと方向転換して良かったなと思っています。
 

 「ノイズがない自室だと何時間でも業務に集中できる」「オンとオフの境目は別に無くていい」「一人で仕事をすることで生じる様々な対応にはそこまで苦を感じない」と考える自分の感覚は、人とはまた全く違うのだなと認識しました。
会社でそう感じていた自分は、やはり環境を変えた方が良かったなと、ただ思うだけです。


 「自分を変える! 強制的に適応させる!」という体育会系の無理強いな方法ではなくて、「環境を変える」という選択肢を取ってみたら自分が生きやすいこともあった、という話でした。


 強制的に何かをやり続けられるほど、人間は強くないと感じています。
強制の下では、自発的な感情は消え去り、それは自分を消し去るということでもあると思うから。それで心身共にやられてしまったら本当に勿体ないから。


だから私は環境を思い切って変えた。
ペンギンとして自由に空を飛ぶために。

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