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SNSのリア垢を全て消してみた


 タイトル通りですが、これを見て少し気持ちが軽くなる人がいたら良いな、なんてことも考えながら詳しく書いてみようと思います。



SNS(リア垢)を見る度に味わう、必要以上の焦燥感


 単刀直入にいうと、これに尽きた。

ちょうど20代の半ばという年齢は人生における過渡期というか、目に見える大きな変化が起きやすい時期だと思う。

それは仕事での昇進だったり、結婚だったり、子どもが生まれることだったり、マイホームを購入することだったり、車を購入することだったりなどなど。

そんな様々な人生の段階を生きる友人たちのSNS投稿を見る度に、それを見てどこかに焦ってしまう気持ちが芽生える。

でもその焦りは何からきているのか、自分も同じように本当にそうなりたいと心から望んでいるのか? と自問自答してみると、意外にも答えはノーだったりもする。


じゃあなぜ焦るのだろう。




人生の黄金ステップを踏んでいく強制感


 私たちには知らず知らずのうちに刷り込まれてしまって、いつからかそれが幸せの大枠の形だと信じ込んでしまっていることが、大なり小なりあると思う。

それはSNS上でよく投稿されている事柄を頭に思い浮かべれば、どんなものかすぐに分かるはず。

でも仮に、写真の向こうにある現実をリアルに思い浮かべてみて自分と置き換えてみる。そこで自分の本心は、本当にそれと同じようになりたいと望んでいないと気が付いたとする。とすれば、そんな焦燥感なんて抱かなくて良いはずだ。
そんな焦燥感は偽物で、自分にとっては不必要なものだ。


なのに、私たちは常に他人と比べて自分はどの位置に、人生の黄金ステップのどの位置に立っているのかを知りたがる。人それぞれ階段の形状は違うのに。

人生を階段に例えるから上下のような概念が生まれてしまっているかもしれないのであれば、人生を一本の道に例えてみる。

するとその道は分かりやすい上下じゃない、横に並んでいるはず。

そして、それぞれの道一本一本が縦横無尽に所々で互いに交わり合っているイメージとなる。

そうなると比べようがない。それぞれの道の先はお互いに現時点から全く見えないから。あっちの道の方がこっちの道よりも良いところに繋がっていそうだなんて思っても、途中の道筋を隠されているあみだクジのようにどの道がどの最終地点に辿り着くのかは全く分からない。つまりはそれぞれが生き抜いた先に、自分の道を歩き切った先にやっと自分の目で見えてくるもの、ということが感覚として分かってくる。


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なぜ 「リア垢」 に限定したか


 私たちはたとえ無意識下であっても互いに何かしら影響し合っている。

その影響の大きさは、親しい人や近しい関係性と比例する。


例えば、同年代のYouTuberが様々な活動で人生を急速に展開していっていても「凄いなぁ!」としか思わず(もちろん例外もあると思うけれど)、遠い国では若きスーパースターが大活躍していて年収は10億円です! と言われても、もはや自分とは関係のない範囲すぎて、リア垢を見た時の「……っ!」みたいなモヤモヤした焦燥感は抱かない。

だから私はリア垢以外で、そんな日本のスターや海外のスーパースターの投稿を見るためだけのSNSアカウントを作った。これがとても気持ちが楽なのだ。さらにそんな人たちを見て抱くのは適度な焦燥感で、すごいなぁ! という感嘆を込めたキラキラした感情しか生まれない。

さらにリア垢のように、投稿内容や人によって「イイネ!」を押すか否かを一瞬考える必要も特にない。これもとっても楽だ。そんな不要なことを、一瞬であれ長い時間であれ考え悩んでいた脳の容量の一部がなくなったから気持ちが軽くなった。


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 自分がリア垢に何か投稿をする際を振り返ってみても、それが誰の目に触れて欲しいか、その投稿する裏にある自分の意図は何か、そしてその投稿によって自分がどう見られたいのかを無意識下で処理しているようだった。


自分がそうしているといことは、他人も似たようなものだろう。すると自分と同様に、相手が何気なく投稿したSNSの裏側にそんな意図がチラッと垣間見える瞬間がある。
でも、ただ垣間見えるだけであって確固たる証拠はないから、こちらもフワッとした噛み下せないほろ苦さみたいなものを自分が心に独り残すしか術がない。


そうやって自分の心に毎日、毎時間、少しずつそんな感情と感覚が沈澱していく。

それは消化されていくように感じるけれど、そんなことはなかった。やはり心のどこかに積もっていってしまう。それを全て思い切って取り除いてみたら、どうなるだろうと思った。



高校2年生の時から始めて9年間続けたTwitter、大学1年生から7年間投稿していたInstagram、それぞれ思い出深い投稿も、それでしか繋がっていない友人(何年も連絡を取っていない)も沢山いたけど、自分の心のために一旦リセットだ。


本当に自分が繋がりたい友人はちゃんと何かしらの連絡手段で繋がってるし、もっと繋がっている友人には実際、行動という段階まで移すとちゃんと会えるから。

 

 過去が重たすぎるとそれに引きづられて、未来に行けないから。



過度な焦燥感は、今から目を背けること


 リア垢を見る上での過度な焦燥感が、なぜ良くないと考えるのかについては以前に書いたけれど、やっぱり「焦り」は今を生きていないということにつながると感じたから。


今を生きていないということは、目の前のことに集中できていない証拠でもある。

だから今を生きていないと感じるのであれば、今を生きれるように工夫が必要だ。それには過度な焦りは禁物なのだ。過度な焦りは大体が他人との比較からやってきて、そしてついには自分の心の在処を奪ってしまう。

そうなると自分の心の声がいったい何を望んでいるのか、それを聞くこと感じることが難しくなってしまう。

いつだって自分が今を生きているか否かを決めるのは、他人じゃない、他人の目ではない、他人が示すお手本でもない、自分であり、自分の心だ。むしろ言い方を変えると、自分しかいないのだ。

全ての答えを知っているのは自分しかいない。


だから私は自分の心の声が少しでもクリアに、より多く聞けるようにSNS(リア垢)を全て消してみた。


 もしいま、SNS(リア垢)という小さな世界や人間関係で悩んでしまって気持ちが重くなってしまっている人はこれを試してみてほしい。大丈夫、意外となんとかなるはずだから。



最後に


 補足を加えると、この時代のなかで大学生の時からSNSをほとんどやっていない友人が私には数名いる。そんな友だちに会う時は、この話ってもしかしてTwitterかインスタで共有されてたっけ? やばい、一方的にミュートしてたから話の流れ知らない……といった心の声も消える(ありのままに書きすぎかな)


あと、そんな友人の話題が別の場所で上がった際に「あの子はSNSほとんどやってないからね」とその一言でリア垢での色んな縛りから解放されている瞬間も目の当たりにして、あぁ大丈夫だなって思った。


SNSをやっていない友人とは、SNSで一方的に知る、または知らせる機会が無いから、話したい話題も研ぎ澄まされて積もり積もっていく。だからお互いの然るべきタイミングで連絡を交わして、実際に会う機会が多くなる。


それはSNS上だけでの薄い繋がり方とはまた違う、人間の変わらない本質的な繋がりを感じられるとても貴重な瞬間でもある。そんな何気ない瞬間が、自分の心の栄養となりパワーになっていると気がつけたのもSNSを辞めたからだろうか。


とりあえず、何度も繰り返すけれど、自分の心を守れるのは自分しかいないと思うのだ

最後の砦である自分が、自分の味方をしてあげれないなんてそんな悲しいことを辞めたかった。

知らず知らずうちに、鈍感に自分の行動で自分の心を傷つけるのは、もう辞めよう。

そんなことを思いながら出来る小さなことから行動してみた2022新年の始まりでした。


この歌に合わせるにはとても小さな「やってみた」ことですが、歌詞がとても好きなので貼っておきます。


(以下、歌詞の一部を引用)

意味もなくただ傷付けられそして傷付け
繰り返すだけ
ぬけた 阿呆なゲームいちぬけた
もうええわ 要らんことばっか聞かせんといて

(中略)

もうええわ 何が大切なん?よう選んで
もうええわ そう思うならサッサ手放して
もうええわ 自由になるわ


引用元:『もうええわ』(2020)作詞 作曲:藤井 風さん


  「もうええわ」(2020年)作詞作曲:藤井 風さん

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