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双子の弟が世界一嫌い

何度もちらりとは書いてきたが、わたしは双子である。といっても男女の二卵性双生児なので、顔はまったく似ていない。顔どころか、体型も、瞳の色も、性格も、趣味も、なにもかもが違う。血液型も、わたしはAB型だが、弟はたしかA型だ。たしか、というのはもちろん、彼にさほど興味がないために記憶があやふやだからだ。

わたしたちは仲の悪い双子だ。憎み合ってるという表現の方がふさわしい。なぜこうまで関係が拗れているのか今となってはよくわからないが、「双子」という関係性も少なからずその要因となっていることは間違いないだろう。

双子というのは本当に特殊な関係だ。通常のきょうだいであれば、親の注目を一身に浴びる時期は誰しも持てると思う。上の子はひとりっ子の時代を、下の子は優先順位が1番上になる時代をそれぞれ自ずと保有する。

だが、双子はその経験が一度もない。生まれたときから、常に親の視線は「半分」だ。親がわたしだけを見てくれる期間は全くないし、愛情を独り占めすることも叶わない。その虚無感を抱えたまま、大人になってしまう双子は少なくないと想像する。

だからわたしと弟は、常にライバルだった。親の、主に母親の愛情の奪い合いは苛烈だった。出先のレストランで、タクシーで、新幹線で、ディズニーランドのアトラクションで、わたしたちは母の隣を巡っていつも諍いになった。

そういうとき、怒られるのは決まってわたしだった。弟は幼いとき、言語の発達がやや遅かった。そのため、言語領域の発達が凄まじいわたしのマシンガンのような悪口の方が、親にしたらきつく聞こえたのだろう。

しかし、喧嘩の発端は、いつだって決まって彼だった。彼は口が達者ではない分、的確にわたしが傷つくことをピンポイントで口にした。よく言われたのが、「メガネザル」という言葉だった。

双子にありがちな片方のなにがしかの発達の遅れ、というものがある。わたしは主に視力が母の子宮の中で充分に育ちきらず、3歳児検診で引っかかった。乱視と遠視が見つかり、両の視力に大きく差があったため、3歳から小学校に上がる手前くらいまで、「アイパッチ」と呼ばれる肌色のシールを貼って生活していた。これは、視力の強い方の目に張り、弱い方の目を使わせることで、差を均等にするためのものである。

そしてアイパッチの上から、瓶底みたいな分厚い眼鏡をかけていた。この分厚い眼鏡が、子どもの頃はとてつもなく嫌だった。幼稚園の同級生を見ても、眼鏡をかけている子はいなかった。うっとおしかったし、目立つのでからかいの対象となることが多く、眼鏡をかけるのは苦痛だった。(ちなみに、眼鏡は中学に上がる頃、コンタクトに切り替えたのだが、成長と共に視力も育ち、今は裸眼で生活している。)

それを弟は、敏感に察知していた。どれだけ眼鏡にわたしがコンプレックスを感じているか見抜き、その上でいちばん傷つく言葉を選ぶのだ。その上暴言を投げつけてくるのは、いつもかなり唐突で、脈絡がなかった。喧嘩の最中でも、わたしに腹を立てたときでもなく、何のきっかけもなしに日常会話の最中に、本当に突然わたしを傷つける言葉を発した。だからいつもわたしは面くらい、すぐに反応することができなかった。

言い返す言葉の数自体はわたしの方が多かったかもしれないが、殺傷能力の高さでいえば、彼の方が相当えげつなかった。けれども親は、一見すると激しいわたしの方が「言い過ぎ」とジャッジし、わたしを殴って喧嘩を終わらせた。

受験の時もそうだ。中学受験の際、彼は運の良いことに、第一志望の補欠に入り、運よく繰り上げ合格をした。わたしはといえば、親が定めた第一志望の学校は受からず、第二志望の中学に進学することが決まった。

受験が落ち着いて、親戚を交えたお祝いの食事会が開かれた。中華料理屋で円卓を囲み、おめでとうと言われた瞬間発した弟の言葉は、その声のトーンまで、今でも鮮明に覚えている。

ぼくはこいつと違って、受かりましたけどね

したり顔で彼はそう言った。わたしは呆気にとられて、ぽかんとしていた。周りの大人たちも、気を使って流していた。だけど弟は、誰かが反応するまで執拗に、その言葉を繰り返した。

親も誰も、弟を咎めやしなかった。息子と娘が「良い学校」への進学が決まったこと(わたしは第二志望ではあったが、それなりのお嬢さま学校だった)に、浮かれていたのだろう。

弟は、実はその第一志望は3回受験した。1.2回目は不合格で、母はかわいそうだと泣いた。わたしが第一志望に受からなかったときは、弟の不合格通知に意識が向いていたのか、さほど興味を示されなかった。わたしのことでは、母は泣かなかった。

わたしも第一志望(自分で選んだわけではないが)にチャレンジできる回数、つまり試験の日程はもっとあったのに、なぜだか受験をさせてもらえなかった。弟の受験費を優先した結果、わたしにはそこまで金をかけられなかったのだろう。

そして大学受験のとき、浪人が決まって首を吊って自殺未遂を起こしたわたしを、弟は「浪人」「ダメ人間」と罵った。弟は運よく、早稲田大学の下の方の学部(この言い方は早大生の方を侮辱するようだが、決してその意図はなく、ここにおけるふさわしい表現が他に見つからなかった。ご容赦願いたい)に合格したが、わたしは不合格だった。父は小学校高学年くらいから「現役で早稲田大学(父の母校)に合格しなかったら死刑だからな」と言い続けていた。だから自然と、高3の時点で早稲田に合格しなければ、18歳で死ぬのだろうな、と思っていた。

わたしが浪人を経て、関西の私大に進学したのち、某国立大学に三年次編入で合格したとき、弟はさぞ不安だったろう。だって、わたしの合格した大学は、ものすごい偏差値の高い国立大学とかではなかったものの、彼の通う学部よりかは遥かにレベルが高かったから。

このことも彼の精神を蝕んだ要因のひとつではあろう。彼は早稲田大学を、一年留年したのちやっと卒業した。父親の「学者になれ」という意向に逆らい、大学院へは進学せず、「新聞記者になる」などと意気込んで就活をしていた。

しかし、新聞記者になると言っていたわりに、語学習得などの努力はしておらず、TOEICの受験も未経験だった(就職浪人に突入したときに受験したようだが、400点くらいしか得点できなかったと聞く)。語学力もない、早稲田大学の下位学部の学生を採用しようという稀有な新聞社が現れるはずもなかった。父との暴力沙汰の喧嘩を契機に、就職浪人時代に家を出て一人暮らしを始めたが、当然のようにそのままずるりと引きこもりのニートになった。

結婚前、まだ実家に住んでいた頃、ときどき生活費を受け取りに帰ってきていた弟と鉢合わせになることがあった。弟はわたしを見るなり、「浪人野郎」と罵った。「黙れよクズ人間。クソニート野郎」と応戦したが、やっぱり母は「あの子は今辛い時期なんやから」とわたしを嗜めた。

男尊女卑思考の深く根付いたこの家で、彼の思想もまた、女性蔑視的に育ってしまったのだろう。
思い返せば、わたしを劣位に位置付けなければ生きていけないような切迫感が、彼には常にあった。

中学に上がった頃、英会話教室に通わされたことがあった。入塾テストでわたしの方が点数が高く、彼の一つ上のクラスに入ることが決まったときも、「なんでチカゼよりも僕の方が下なの?」と本気で動揺していた。心の底から「自分よりチカゼが下」と思い込まなければ、彼は自らの精神を保てなかったのかもしれない。

そんなわけで、弟はわたしの結婚式にすら出席しなかった。これは結婚式の話でも書いたけれど、心底ホッとした。彼の顔が視界に入れば、わたしはきっと平常心でいられなかった。今でも弟は夫に会ったことがなく、わたし自身も彼と次会うのは親の葬式だろう。

双子で生まれたくなんてなかった。彼とまったく交わらない人生が良かった。今でも、彼に対する憎悪は変わらない。それは父への嫌悪とも、母への執着とも違う感情だ。そして彼の人生が、これからより良いものになることを願うこともしない。わたしに二度と関わらないで欲しいし、できればそっと知らないうちに死んで欲しいと思っている。

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