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noteにはそれぞれのスタイルがある

noteで活動開始してこの3月で2年と8か月経ちました。

ふと気付くと、また何名かのお姿が見当たりません。
最初のうちこそ大変寂しく感じていたのですが、今では慣れてしまって「またか…」で済んでしまっています。

この”知らない間にnoterさんが居なくなる”という現象は、もはや私の中では当たり前になりつつあります。
その代わりに初めて見る方が多く、noteでの入れ替わりの激しさを痛感せざるを得ません。

そんな中、私自身もnoteの向き合い方を変ようという思いでこの1年をスタートしました。
その詳細記事はただ今トップに固定しています。

noteでのそれぞれのパターンやスタイルはあるとは思います。
それらは無二の個性となって作品として出来上がっているのがこのnoteです。

何が良くて何が悪いではなく、自分の個性をちゃんと維持できるように工夫するのが続けるための最大のカギだと思います。

それは決してフォロワー数やスキ数、コメント数などの「数字」を追うのとは意味が違います。


自分だけのスタイル

先週、マガジンを2つ増やしました。

「私の街自慢」
新たに始めたフィールドワークのひとつ、自分の住む街の歴史を歩くシリーズで、「松原六社巡り」だけではないと思い、マガジンを作成して、身近な歴史を見直して発信していきたいと思っています。


「私のnote談義」
いままでもnote談義は定期的に書かせていただいていて、私のnoteデビュー記事であり先代の固定記事だった「今,noteで取り組みたいこと。」にリンクを貼ってまとめていましたが、それも増え過ぎてしまい、新たなマガジンに集約しました。

それは後になって探しやすいように整理しておきたいというのが主な理由なのです。
言い換えれば、後になって参考にするつもりで記事を書いているのです。


私にとってnoteはブログではない

誰かとランチした、あるいは家族と外食した、他愛もない家庭での出来事など、日々の暮らしの中での雑記は、過去に他ブログでさんざん書かせていただきましたので、noteはまったく違うものにしようと思って始めました。

子育ても終わった今、あとは自分が興味のある事を自分のためにまとめて記録として残したいのです。
たまに家族のことに触れる事はあっても、基本はお出かけ紀行や歴史、宗教などに関することがメインとなっています。

一般的な「ブログ」のように日々の実録を綴るのではなく、興味のある事を探求してそれを自分なりにまとめた成果をカタチにする場が私のnoteなのです。


noteが相応しい理由

探求成果を記事としてまとめるのにnoteは相応しいプラットホームだと思います。

何といっても広告がない!

他のサイトでの記事を読んでいると、しょっちゅう広告テロップが出て、鬱陶しくて記事内容に集中できないのは皆さんも同じだと思います。

そういう鬱陶しさを感じさせないnoteに感謝の気持ちがあるなら、「有料記事」や「サポート」、「プレミアム」などをどんどん利用して、note社に貢献すべきなのですが、私の場合は実力が伴わず、今のところ出来ていません。

それはやはり自分のスタイルを守るのを優先したいからで、まだしばらくはnoteのシステムに甘えていたいのです。


そもそも誰のためのnoteなのか?

今までとは違うものにしたいと思いながらも、ネット上で発信している以上は、より多くの方に読んでもらいたい。
交流して様々な意見をコメントして欲しい。

そうすることで自分の持つ見識がさらに広まるはずだと思い、始めて間もない頃は、積極的にたくさんのnote記事を読み、スキをし、さらにコメントをして足跡を残すことで、交流のキッカケを作ってきました。

そういう風にnoteに取り組んでそろそろ2年になろうかという頃、ふと、「違うな」と、自分の本来のスタイルを思い直してみたのです。


質か量か

私が「毎日投稿」ができない理由の一つには、記事内容の質を落としたくないことがあります。

私が毎日、記事を書けば必ずその質は落ち、自分にとってどうでもよい単純な内容になってしまう。
良質でまとまりの良い記事を書くには、毎日の投稿では無理なのです。

せっかく機能があるのに「つぶやき」でもいいじゃないかと思えばそうなのですが、あくまでも「つぶやき」は記事ではなく、さらに言えばnoteでなくても他のSNSでもいいのではないかというのが私の基本の考え方です。

量産することは、私の目指すスタイルからはかなり離れてしまうのです。


数字を伸ばすためか

タイムラインに溢れた記事を読みもせずに「スキ」をつけたり、懇意にしているフォロワーさんの記事にはコメントしたりするのは何のため?

自分の記事にスキがたくさんついたとか、ビュー数が伸びたとかと、数字を気にしなくてはいけないのでしょうか?
あるいはフォロワー数を伸ばしたいのか?

そう自分に問うてみると、いずれも「違うな」なのです。

ビジネスでnoteをしている人はそれでいいかもしれません。
しかし、私は自分の興味分野を掘り下げたいただの素人です。

「つまらない」「わからない」と思われても、自分のために書いているのだと思えば何も気にならないはずで、そもそも一般ウケする人気記事を書くつもりもありません。

マニアックでも自分らしい記事でいいのではないか。

どう思われようが、数字など気にせず自分のためのスタイルを維持することが最優先であるべきでした。


どんなnoteにしたい?

自由なスタイルに「正解」はない

とはいえ、私は日常の記録記事を読むのは好きですし、だいたいnoteの記事はいずれも楽しく読ませていただいています。
「つぶやき」に徹しているのも独自のスタイルだとも思います。

あくまでも上記のことは私の場合であって、人それぞれのスタイルはあって当然です。
もちろん途中で方向転換もアリだとも思います。

自由なスタイルで表現してこそ「個性」が光るものになり、それらすべては尊重すべきもので、そこには「正解」などはありません。

知らない間にnoteを去られる理由は様々だと思いますが、その基本的な事は「自分のスタイル」を維持できなくなったのではないかと思います。

誹謗中傷を受けた、
どう思われるか他人の目が気になる、
思うように数字が伸びない、
記事ネタに行き詰まった、
それらは本来の目的を思うと、どうでもよい事がではないでしょうか?

そんな時こそ、noteを始めた時の目的やスタイルを思い出して欲しいものです。

常に「自分のためのnote」を

私の場合、誹謗中傷を受けようが、嫌な記事を見ようが、困ったコメントをされようが、なんとか続けてこれたのは、自分のためのnoteの場を大切にしたいと思い続けたからです。

辞めるなら、他人のせいではなく、自分自身の意志のみで辞めます。

そして、嫌な人と無理してお付き合いする必要もなく、無理に「お返し」をする必要もなく、書きたくもない事を無理に書かなくていいと思います。

その「無理」が積み重なって、どうにも苦痛になってしまうのは明白です。

周りの目を気にした記事はすでに自分のスタイルではなくなっていますし、それは誰か他人のためのnoteになっているのです。
常に「自分のためのnote」であることを忘れないで欲しいと願います。




【参考記事紹介】

k_maru027さんがとても参考になる記事を書かれています。
孔子のある逸話から生まれた朽木糞牆きゅうぼく ふんしょうを例に挙げられています。

意欲や素質のない者は教育するのが難しいことのたとえ。また、役に立たないものや、手の施しようのないもののたとえ。

qoo辞書

自分のスタイルを維持するためには、他人の言動に左右されることなく、スルーできる術を会得するのも大切です。


2年前にも同じような記事を書きました。
当時とは考え方が微妙に違うのがわかります。



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