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自分のnoteを見失ってはいけない

私はnoteを始めて丸7ヵ月経ちもうすぐ8ケ月になろうかとしています。

最近、ポツリポツリとnote投稿を止めてしまう方を見かけます。
ちゃんと宣言して止める人もいれば、気付いたら投稿しなくなっている人もいます。

最初は、「あれ?寂しいなぁ。」と思いながらも、他人事のように軽く考えていました。

私もnoterの端くれとして、投稿しながらもたくさんの方の記事を読んでみて、だんだん私なりにその理由を推測するようになりました。

そうしたら、これはきっと他人事ではなく、自分にもいつか訪れるかもしれないことではないかと思えてくるのです。

なぜ続けられないのか?

その理由を考えてみました。


無理をしてはいけない

まず思った事は無理をしていたのではないかという事です。

みんなそれぞれリアル世界での生活が基盤にあって、生きてゆく上でしなければならない事が必ずあります。

その基盤をおいてまで投稿する必要はないのです。


毎日投稿は自分にとってプラスなのか?

毎日投稿しなくてはいけないと自分に課してしまっては、それは苦痛に変わってしまう。

無理なくできる人は全然いいと思う。

しかし、いつしか自分の中で強制要綱に変わり、毎日投稿しないと何かを無くしてしまうというような強制観念に囚われてしまうのではないか?

挙句には、毎日のネタ探しにさえ追われる毎日になってしまう。

もちろん、毎日投稿が、自分の目標達成の一つであり、確実に記事を書くスキルが上がっているという成果を得られるのであれば、それは素晴らしい。

ただ、それが苦痛に変わってしまっては、身も蓋もないのです。


アウトプットとインプット、どっち派?

私の感覚では、
スキは挨拶。
コメントは記事内容から素直に感じた事。

ただ上記は記事を読むという前提です。

この「記事を読む」という行為が面倒な人、
あるいは自分の投稿をクラウド上に書き溜めて楽しむ人もいます。
いわゆるアウトプット派の人です。

それはそれで、自分にとって有意義な事であれば、記事投稿するだけで十分なことでしょう。

その反対に、

出来るだけたくさんの投稿記事を読むことで、自分の知識や見聞を広げたいと思っているインプット派の人もいます。

私はどちらかと言えば後者のインプット派に近い。

以前にも書きましたが、note内のクリエイターさんたちは、ほとんどが素人ですが、プロも辟易するほどの恐るべき素人軍団です。
それらの記事内容は、いちいち素晴らしくて、そこから得るものは多いと思います。

noteを始めた理由と目的は何だっけ?

そもそも論ですが、ちょっと苦痛に思った時に、ふと本来の目的を考えてみるのは効果的だと思います。

自分の作品を紹介したい。
自分の悩みを聞いてほしい。
自分の文章を上手く書きたい。
自分の生活スタイルを発信したい。
自分の活動を知ってほしい。
自分が感じた時事ネタ。

何を投稿するかは人それぞれですが、元々の目的は”自分”ではないでしょうか?


noteだってSNSだ!

ポリシーを持とう!

本来の目的は自分にあるのなら、そこに毎日投稿だとか、アウトプットかインプットなんて事はどうでもいい事です。

自分を発信するための心地よいパターンを見つける事が何よりも肝心で、自分で勝手に課題を作って強制することはないのです。

ポリシーを持つという事は、課題を作る事ではなく、どういう自分を心地よいパターンで発信するかだと思います。

そこには一から十まで自分を持っていいのです。


共感と共有の醍醐味

私は過去にもSNSを楽しんできた経験者ですが、noteはちょっと違う手応えを感じてます。

これも以前にも書きましたが、
私の記事は歴史に関しての投稿が多いのですが、一番反応してくれる人が多かったのはnoteです。

それまでは、なかなか反応者は現れず、共通の趣味を持つ友達を持つまで時間がかかりました。

キッカケなどは何でもいいのですが、SNSでの共感者とは、自分の記事に対して何らかの反応をしてくれる人を指します。

noteで言うなら、「スキ」でしょうか。

例えば、私がいくら記事を読んで「スキ」しても、いつまでも反応ナシが続けば、ついにはこちらも心は折れ、
「私と共感してお付き合いする気はないのか」という結論に至ります。

でも、私はそれでいいと思います。

必ずしも無理して反応する必要もないし、
ただ単にご縁がないだけで、
その対応は”自分”を前面に出しているにすぎません。

過去にも体験している事ですが、スキやコメントでやり取りをしているうちに、その人の事がだんだん見えてくるものです。

性格。家族。仕事。趣味。思考。

いろんな事が見えてきて、どこの誰かはわからないが、そこにはリアルな人間関係にも匹敵するほどの存在になってきます。

そうなれば、たとえ記事内容は自分の管轄外であっても、進んでインプットしようとする前向きさが出てくるものです。

共感と共有とは、私にとって結果的にとても有意義な事なのです。


noteは自由です。

私の希望は日々やり取りしている人には、noteをできるだけやめてほしくないのです。

とはいえ、心が折れる事もあるでしょう。

しかし、常に誰かが見ててくれているというという事を念頭に置いて、
なおかつ自分の初心に返って、無理のない方法を模索してほしい。

何も投稿を誰かに強制されているわけでもない、
noteは自由なプラットホームであり、
専門記事であっても、共感してくれる人が比較的多い。

その願いが根底に芽生えてきたので、
私はさらに欲張りになって、出来るだけたくさんの記事を読み、インプットを心掛けています。

たくさんの記事を読んでいると、「ななめ読み」でもその内容の要点にだけは目に留まり、その意図を理解するための労力は半減してきました。

私にとっては、これは大きな進化です。

基本的には執筆活動や家事の合間に読むので、時間的には限りはありますが、それでも一つの記事を書き上げる労力の大変さがわかるだけに、
一人一人の努力を無駄にしたくない。

たとえ一人だけの読者であっても、読んでいてくれる事には変わりなく、
貴重な共感者なのです。


いつも私の記事を読んでいただいている方々、
何かの規制を自分に課すのではなく、
心が折れそうになった時には、
本来の自分のnoteは何かを考えてみてほしいのです。


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