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趣味における自分の存在意義と、自身の心のやわらかくなさを反省する

「私から趣味の踊りをとったら何も残らなくなっちゃう」

知り合いの子がぽつりと言った言葉に思わず(あ~、若いなぁ……)と思った。

対して、「何にも残らないってことはないと思うよ。好きなものはたくさんあったほうがいいし、自分の存在意義を一つのものに重ねすぎるとそれが本当にできなくなった時に虚無になってしまうよ」

咄嗟に返した返事がこれだった。
私の大人げない悪いところで、きっと彼女の求める答えとはお門違いであるのは分かっている。

彼女はおそらく自分の感傷に浸っていたいタイプなのは知っている。
素直に感情を出すのを躊躇うのか、色んなことをまだ斜に構えている感じなのだろうなということはだいぶ伝わっていて、普段も彼女の意に反する意見や仕事上の指摘をした際にも、気持ちが刺激されてしまうのか不貞腐れたりしてしまう時があるのを思うと、反応は見送るのが正解だったかもしれない。

そんな彼女に、自分で言ってしまってから(返しを間違ったなぁ~)と気付いたけど、なんだか視野の勿体なさに歯がゆくもあって言わずにはいられなかった。

だってそれは、10代後半の時に自分が抱いていた感情だとも懐かしく思ったから。

そう思えるだけ自分の心を懸けることができる、素敵な趣味に出会えているからこその発言なのに、
「そんなことないよ。でも、どこかで少し受け止め方を広げた方が良いかも」と、バカ正直にマジレス返してしまった余計なババア心よ。
ただ軽く「そうなんだ~」と受け流せばいいのに、自分もそれができないあたり、我ながら本当に不器用で面倒くさいなと思う。

しかしながら、彼女の若さゆえの考え方の器量の狭さに勿体ないと思ってしまった私は、もう若くはないんだなと思った。

でも、やっぱり何度考えても、「何にも残らない」っていうのは違うと思うんだ。

自分を表現できて、やっと自分らしく息ができる嬉しさ。
表現できるパフォーマンスに「あぁ、私はこれをするために生きてきたんだ。生きていけるんだ。生きていくんだ。」と心の底からの実感と充足感。

10代の私は絵を描く事、物語を生み出す事に全力で、心血を注いでいた。
だからこそ、分かってしまう。
それに全部を懸けていると、本当にできなくなった時にいかに心が苦しむかも織り込み済みで。

「これが無くなったら、私の存在意義ってなんだろう。生きていける実感って何?」という焦りと不安と依存心と、

「全てだと思っていたものはすべてではなかったし、何事も無駄じゃなかった。全部自分の血となり肉となり心になって残ってるから大丈夫」という今抱いている気持ち。

どっちの気持ちも手に取るように分かって懐かしいし、もどかしい。
他人事の余計なお世話だとしても。

あれだけ懸けていたのに、じゃあ今はなんで楽観的になれたのか自分でも良く分からない。
色々な理由でパタリと創作自体ができなくなって、「あ、私これからどうしよう」とポカンとしてしまった時期が訪れた。でも社会活動を粛々としなければ生活してはいけない。
あんなに懸けていたものから離れた後に待っていたのは、色々な経験だった。
社会生活含めて、自分の友人や趣味以外のゼロから始まるまっさらな人間関係、コミュニケーション。
沢山の本を読んだり、人と出会って笑ったり傷ついたり傷つけてしまったり、いろんな話をして視点を広げた先に、気が付いたら得ていた感情と価値観。

その中で意外と大事なことなんだなと思ったのは、自分の趣味とは関係のないものでインプット・アウトプットをすることだったかもしれない。

冒頭の彼女と普段からお話ししていると、自分にとって興味のない話なんて楽しく聞くつもりがない・興味がないのを露骨に表してしまう部分があるなぁと感じることがしばしばある。
飲み会の時にその態度をされた相手の顔つきがサッと変わっても気付かず態度もそのままにしてしまうので私は見ていて正直ハラハラしてしまうのだけれど、意見されるとふててしまう部分なんかも見ていると、普段から好きで自分で自分の考えに拘って浸ってしまう人なのかもしれない。

過去の話に戻すと、好きな人と好きな話だけをするのではなく、
苦手な人とでも上手に話さないといけない機会にみまわれたり、人とコミュニケーションをはかったり、
その人の好きなものを見聞きした後に調べて自分の知識にしたり、
またそこで楽しく話すことができたことで、
「何にも残らなかった私自身でも、認めてもらえるんだな~。趣味=私、というものに固執していたのは私だけだったんだ……」と、自分で自意識過剰にしてしまっていたんだなと気付いた。
「趣味がなくなったら何も残らない。自分のとりえは他人と違うジャンルの趣味くらいしかない」と考えすぎてしまっていた。

趣味が自分の存在意義になるのは私自身すごく分かる。
だけど、それが無くなったら何も残らないと思うものなんて、何だかかわいそうな気もする。

自分の才を懸けて活動していたからこそ、それを「日常的にすること」から失った今の私は、「そんなことないのに。あなた自身、それだけではない、もっと良い部分があるのに」と思ってしまう。

今また、自分の積んだ経験や思い出、人と関係することで興味が出て調べたことが全部の要素となって、
再び趣味で物語を書いたりすることが楽しいと思えた。
なんなら前よりも色んなものを深めて描けるようになったかもしれない。

一度手放しても、何も無くなっちゃうことなんてまるでなかった。

気の利いた答えを求めてはいないだろうし、ひとりごちたくてセンチメンタルに言っただけのことだとは分かっている。
それに対してつい、熱く、自分の勝手な見解を言ってしまって申し訳ないし恥ずかしいとも思う。
かといって感傷が好きな人に、他にどんな返しをすればよいのかも分からない。

他人なのに歯がゆさを感じたり、勿体ないなと思う自分も、自分の考えに固執をしている証拠なんだと思う。
互いのためにも、相手が心地よいままでいられるようなスルースキルも身につけたいなとも感じる。

目の前の人の気持ちに、ほんの少しだけ寄り添えるよう、心をやわらかくするって、本当に難しい。

本当に心のやわらかな人になっていきたい。
そう考えてしまうのだから、私の心の器量はやっぱり狭いのだ。