見出し画像

20.実家のご飯が嫌過ぎて賄いを週5で食べてた時の話

サブタイトル
妹に『皆んなそれぞれ勝手に生きていくから、他人のことは気にしなくていいよ。』と言われるに至った話①

こんばんは。
相続の話から飛びますが、我が家が相続でゴタゴタする以前に、私と家族との間でそれぞれにわだかまりがある。両親はもちろんだが、3人のきょうだいともスッキリとしないモヤモヤが私の中で存在している。
その中でも妹との関係性においては、わだかまりが深く、正直今でも私の中で引っかかっていて、傷がカサブタになるにはもう少し時間がかかるのはわかっている。
だから、書くのも迷ったけど、もしかしたら将来違う気持ちで読める日が来るかもしれないと思い、書く事にした。

妹は親が40歳の時に産まれた末っ子なので、私達上3人とは歳が結構離れている。
妹が産まれた時、私は小2だったので物心ついていて、自分としては子育てに近い感覚でお世話していたのを覚えている。
我が家は昔、父親が自営業をしていてバブルの頃と言う事もあり、お金が無いわけでは無さそうだった。田舎とは言え、先祖から継いだ300坪の土地に立派な日本家屋を建てた父は、我が家を大層気に入っていた。宮大工に特別に作ってもらい、豪華な材木をふんだんに使っていて今ではこの値段ではとても建てれない、などと機嫌が良いとよく私達にも自慢していた。当時流行ったマークIIが父の愛車で、近くの山に森林浴がてらドライブに出かけたのが良い思い出だ。ファミリーカーのボンゴ、それに仕事用のバンと車を3台所有していたし、子供目線で見ても羽振りが悪いとは思えなかった。
だったのだか、黒雲は急に我が家を覆って、そのまま晴れの日を迎る事なく、今現在まで至る事になってしまった。
バブルが弾けたのがきっかけらしいが、父親の会社の業績が右肩下がりで悪化していった。
それまでも深夜遅くまで仕事をしていた父だったが、連日自宅の離れに作った事務所に篭り、食事の時だけ自宅に戻るようになっていった。
二人いた従業員が一人辞め、また一人辞め、父は深刻な顔をしている時間が長くなり、口数も減っていった。その頃から段々家庭の雰囲気も暗くなっていき、両親の喧嘩が増えていった。
最初のうちは重々しい雰囲気に押されて、今日は喧嘩しませんように。怒られませんように。と神様に祈りながらドキドキしながら座っていた。19時だったり、遅いと20時を超えたりと毎日時間が定まらない食卓で、冷たくなった食事を通夜のような雰囲気で食べるのがたまらなく嫌だった。私は段々と家族に不満をぶつけるようになった。冷凍食品に魚の煮物とご飯と味噌汁。母があまり料理が得意で無いと最近になって気付いたのだが、私は昔から母の料理が好きになれなかった。
ハンバーグや、オムライスなど子供の好きそうな物はあまり作って貰った記憶が無く、父の好物のキスの煮物、イカの煮付け、煮過ぎて箸でつかめないカボチャの煮物などがお決まりのメニューだった。ただただ濃くて醤油の味しかしないのが年寄りの食事みたいで嫌で、いつも煮物の時に決まって使ってた、花の絵が描かれた皿を見るだけで、うわっと反射的に嫌悪感が湧いていたくらいだ。
味噌汁の具は、ミニトマトや惣菜で買って来た出汁巻きという独創的すぎる母の料理センスに、同級生との会話の笑は取れたが、実際の私は全く笑えなかった。
思春期の頃は、料理が気に食わなくて本気で食ってかかっていたが、そのうち家の食事というものに美味しさを期待しなくなっていった。
その反動か、私は高校生になりアルバイトが出来るようになると、中華料理店、居酒屋、蕎麦屋、洋食屋とありとあらゆる飲食店で働き、バイト終わりの賄いを楽しみに生きていた。高校生の頃は酷いと月に数回しか家で食事をしなくなっていった。お金が欲しかったのもあるが、とにかく家に居たくなかった私はひたすらバイトに明け暮れ、バイトがない日は友達との予定でスケジュールを埋め、空白を作らないように必死だった。そうなると家には風呂と寝に帰るだけ。そんな高校生活をおくっていた。必然的に親とはもちろん、当時小学生の妹とは朝顔を合わせる程度でほとんど話した記憶がないくらい関わりが薄れていった。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?