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やんわり悲しみに満ちている、『カニカマ人生論』に出会えてよかった。#読書の秋2022

わたしはお笑いについてそれほど

明るくない。

ないのだけれど、時々とても欲している

自分に出会って、そういう時は夜中が

多いけれどいつもひとりで、ぶはっ

ぶはっと笑っていたりする。

そして、清水ミチコさんのことを

いつの頃からか、みっちゃんと

呼んでいる。

気づけば、みっちゃんって。

見ず知らずの人をちゃんづけで呼ぶ。

それ恥ずかしいよと思いつつもわたしの

なかで清水ミチコさんはみっちゃんだ。

ユーミンや、桃井かおり、デビ夫人に

なり切っているときもわたしにとっては

みっちゃんなのだ。

みっちゃんのエッセイ集が、出版されていた。


エッセイ『カニカマ人生論』のページを開く。

カニカマって?

カニカマは「モノマネ芸の元祖」なんだと。

カニになりきることで、カニみたいと思われる

喜びを生業にしたみっちゃんの覚悟(真面目に

ふざけてる)タイトなんだなって知った。

本書にはタイトルがずららと並んでいるの

だけど。

47章のうちそこにあるのは、とてもシンプルな

名前のオンパレが多い。

フミちゃん(みっちゃんの従兄さま)とか

嘘つきえいざ(みっちゃんのひいおじいさま!)

とか清水郁夫(みっちゃんのお父さま)とか

あと永六輔さんとかタモリさん南伸坊さんとか

桃井かおりさんとか。

みっちゃん、おひとりおひとりにお礼の

言葉を楽しく伝えたかったんだなって

読む前から思っていたのでした。

その勘はすこしあっていたけれど。

ほんとうはもっとちがうアングルの風景が

そこにありました。

それは最後に記すとして。

最初のフミちゃんの章にわたしは懐いた。

恐れ多いけどみっちゃんの子供時代に

ちょっと似てると思いました。

鬼ごっこしてて鬼になったフミちゃんに

追いかけられている時のこと。

あの遊びは、逃げる者たちは必死で逃げる

のが、追われるものの掟だけど。

でもみっちゃんは、どうせ捕まるんやしと、

ちゃんと逃げなかったあのエピソード。

他人事じゃなかった。

同じ思考回路のわたしがそこにいた。

捕まるために逃げることに無理せんと

こうと考えてしまうところ。

捕まえられないように、マジ逃げ切るん

やって思えないところ。

もう、あぁみっちゃんって、懐かしい気持ちに

なりました。

そしたら、なんでいつも真剣に逃げんのやって、

そんな根性やったらあかんと痛いこと言って

くれてはるフミちゃんの存在感好きです。

コドモカッコいい。

それを覚えているみっちゃんもカッコいい。

ビスケットが欲しいばっかりに赤ちゃん

アスリートの如く、ベビーカーをカターン

カターンと操っていた頃のマッチョエピソード。

いいなぁ。

自在でいいなぁ。

ビスケット欲しさに、手に入れようとするところ

野生でいいなって。

そして、この章をよませていただきながら

思ったのは、そこに愛情の視線を感じました。

生まれて間もない頃の話を知っているって

幸せだなって思ったんです。

その向こう側にはみっちゃんを見守っていらっ

しゃるお母様の視線を感じていたからです。

読んでいるわたしも、まだ小さな赤ちゃんを

一緒に見守っている気持ちになりました。

そして、お仕事である笑いについて、語る時。

笑いじゃなくてそこに「お」がついて「お笑い」

になったときに、そこに一抹の切なさが漂う

言葉で綴られていることにドキッとしました。

みっちゃんがエッセイで、お笑いの

ウケるとかウケないについての持論にも

それは現われていて。

あのウケるっていうのは「誰かに受け入れ

られたとか、受け入れられなかった」のウケ

がその根っこにあるんじゃないかと。

映画『JOKER』の傷だらけの主人公アーサーが

ずっと誰にも受けいられなかったことと、

舞台でのひとり孤立してしまった彼へに

想いを馳せているみっちゃん。

笑いの「ウケる、ウケない」の向こう側に

誰かに肯定されることの喜びが滲んでる

その眼差しに、沁みました。

眼が虜になって何度も読み返したのは

「ミックスジュース」の章。

みっちゃんの実家はジャズ喫茶をしていた

ので、アルバイトされていた時の人間観察の

視点がツボでした。

ある日登山客がいらっしゃった時。

にぎやかに喋る人はいない。

そこに山のすばらしさを語る人もいない。

だけどひとりひとりの顔が幸せに満ちた

表情をしていたと、みっちゃんの観察眼。

聞こえない彼ら登山客の方たちの会話を、

みっちゃん語で

(私たちさっき神と会ってきた)と

自在に翻訳されてるところもいいなぁって。

隣の席で目撃したかのようでした。

この章好きだと思っていたら、最後の

言葉にしびれました。

みっちゃん、オチで笑わせてくれると

想ったら、ぜんぜん。

しゅっとしてはりました。

味がどうのこうのでここに来てるんじゃない。
喫茶店に、大事なことはちょっとした句読点なんだ
というような感じがしたものでした

暮らしの中での句読点になる場所それが喫茶店。

句読点という言葉に思いがけずこの文脈で

出会って、呼吸が楽になっていた。

みっちゃんは、行間に余白をもたせてくれる

から読者がゆるやかな気持ちになれるのだと

気づきました。

そして田園調布のデリカテッセンPATE屋の

オーナー林のり子さんの章では、

生きてゆくために支えになるヒントが

ありました。

バイトしていたみっちゃん。

林さんが「まず場所をつくりましょう」と

仰ったそうです。

それはボウルやまな板の場所を決めて

スペースをあけてから作業しましょうという

意味で。

そうやって準備をするほうが万事整うと。

そこには「一回落ち着く」という意味と

全体をみまわしてみるという俯瞰した

視点が隠されている林さんじしんの

エピソードが紹介されていました。

「全体の流れを見てから動く」ことって

大事だなと思いました。

目の前のことにいきなりとりかからずに

動線を考えて動く。

要領よくという意味というよりはわたしは

この中に自分の居場所に似たものを

感じていたのです。

みっちゃんがカニカマだとしたら

わたしは厨房のボウルやまな板なの

だと。

自分の居場所が決まれば、自分らしく

動けるような気がして。

みっちゃんのあとがきには、このエッセイを

執筆したかった動機が綴られていました。

2年前に世界が巻き込まれたあのパンデミック。

そこから身近に死を意識したからだと。

ページを終える頃もう一度このタイトルでもある

カニカマにフォーカスしてみる。

鬼ごっこの時もちゃんと逃げるの嫌だった

あのみっちゃんが、ひたすらカニに憧れて

カニ以上になり切るということからは

逃げずに歩んできた歴史がここにあり

ました。

そしてカニばっかり見過ぎててカニカマの

原料であるスケソウダラとしての自分のよさに

気づいていなかったと告白している。

それが書くということで、ふりかえることで

みえてきたのだと。

みっちゃん、よかった。

読み終える頃には、自分も一緒に広い海に

たどり着いたかのような気持ちになって

いました。

自分に悩んでいる人(わたしはしょっちゅうだけど)の

心の拠り所がみつかる!

そんな一冊でした。

(長い長いみっちゃんへのお手紙みたいになって
しまいました。ここまで飽きずにお読みいただき
ほんとうにありがとうございました)。








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