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わたしが朝を迎える時、あなたは夜を生きている。

わたしは日本の東のほうに住んでいる。

noteで出会った仲良くさせて頂いている

人たちの幾人かは海を越えた場所に

住んでいる。

わたしが朝を迎えた時、あの人は夜を生きていて。

わたしが夜を過ごしている時、あなたはおはようって

家族のみんなに言っている頃なのかもしれないって

時々想像する。

この間、日本時間の7月6日に記事を翌日の

七夕に間に合うように書いて投稿した。


そして翌日。

日本時間ではもう七夕が過ぎていて、

それは昨日の話だったねっていう8日の日に

彼女がコメント欄に訪れてくれた。

わたしの住んでいる場所では今日が七夕です。

そう書いてくれて。

あ、時差ってこういうことだねって思った。

単なる時差の話だよってことなんだけど。

時差って、今までは単に離れている時間のこと

だって思っていたけど。

もう七夕が過ぎちゃったね、こうやってコメントで

話しかけてくれると時差があるからその人の

ことを思えるねみたいに思った。

日本では過ぎ去った七夕が、海の向こうに住む

あなたにはこれからやってくるって。

たったそれだけなんだけど。

あの人の時間を想うみたいなことなのかなって。

彼女は正直で忙しい人だからそれにはふふって

笑っていそうだけど。

それはそれでいい。

そうやって、ふわっとつながっていれば

そよっと風が吹いた時に思いがけずふれて

やぁみたいな感じって心地いい。

noteで人とのつながりも覚えたけれど

距離も覚えだしてるこの頃だ。

そして時差のある物語ってなにかなかった

かなって探してたら。

片岡義男の『時差のないふたつの島』を

みつけた。


時差ぼけでハワイにいる「ぼく」は小説を書く

ためにここにいる。

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そしてどんな小説がいいんだろうと、「ぼく」は

とあるブックストアでちいさな物語を読む。

「ぼく」が物語を作ってゆくその時間そのものが

小説になっている。

いわゆるメタフィクションと呼ばれる手法

だけど。

この小説の中に小説が入り込んでいる。

マトリョシカみたいに、箱を開けても開けても

小説について語られる時間が小説としてそこに

あるのだ。

ふたつの島と美しい双子も織り交ぜながら。

時差ぼけのはずの「ぼく」は時差のない時間の

物語を書こうとしている。

ビリアードテーブルが置いてあって、ちぐはぐな

椅子が並んでいるお店のカウンターで「ぼく」は

店主にたずねられる。

「小説は、つくるのではないのかい」

「ぼく」は

ストーリをさがしているんだ

って答える。

そしてストーリーってなんだろう。

小説を書くってなんだろうって読者のわたしも

思っていたら

「最終的にはぼくがひとりでつくるのだけれど、そのためのヒントというかきっかけというか、要するに、最初のひと粒の種をさがしているんだ」

そんな「ぼく」の言葉が聞こえてくる。

海の向こうにすむ彼女とわたしの住む町の時差に

ついて考えていたはずなのに

気がついたらこの小説の時間軸の中に住みながら、

ストーリーってつくるまえに種を探すことを

教えられていた。

作っちゃダメなんだなって。

作ろう作ろうとしちゃいけないってことを知った。

片岡義男を読むとたいていわたしはけむに

巻かれて

え? って振り返りたくなる。

それこそ消えた時間がどこかにあるような。

そんなずっとめまいの中で繰り広げられていた

輪郭がおぼろげなのに体感したことだけが

残っているような。

そんなめまいみたいな時差の中にずっといる

感覚におちいってしまう。


時と言う 名前の列車 走り去っても
今思う その時だけが ひとつになって

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