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誰かの記憶になって生きるということ。

ここんとこ、日々見る景色から
色が消えていた。

お正月の二日からだった。
それが3月の15日まで続いていた。

景色から色が消える。

色は認識できるのだけど、世界は
変わってしまったのだなと。

世界が変わっているのは常だから
それは世界という言葉でごまかしたかった
わたしがいたんだなと真夜中気づいた。

家族が過去にもいろいろありまして。
ありふれたあれですが。

母と二人暮らしをしている。

そしてわたしもそうだけど母も同じだけ
年齢を重ねてきている。

それもわたしんちだけのことではない。

みなさんそうなのだ。

みなさん年月の数だけ年を重ねて老いて
ゆく。

母の記憶がいつもと違ううっかりを
超えた「あやふや」であることを
如実に感じていたのに、
わたしはそれを認めたくなくて。

たぶん母もそうだったと思う。

そして2カ月半をもんもんと過ごしていた。

もんもんって4文字だけど、ちょっと
真夜中は泣いて過ごしていた変な時間だった。
泣くと楽になって朝方に眠っていた。

日常というものはすごいもので。
食べたり寝たり仕事したりということが
あるおかげで、いちばんの悩みから
目をそらすようにもできている。

そして

明日も生きているであろうと思うことは
思うまでもなく、プログラムされた
ことのようで。

明日を思っている間もなく明日がやって
くるようになっている。

わたしはひとりのなけなしの頭で考えながら
なにが母にとっての幸せなんだろうって
考えた。

はじめて考えたかもしれない。

先人の言葉にもすがった。

身近な人の記憶が、グラデーションを帯びて
来たときってどうすればいいんだろうって。

一番やっちゃいけないことをその時わたしは
やっていた。

はじめは母の記憶に憤ったし。
じぶんが絶えずいらいらしいてる生物に生まれ
変わったみたいになっていて。

自己なんだっけ、そう自己肯定感とかっていう
ことになんら興味はないのだけれど。

これのことかって思いながら。

どなたかのツイートで自己肯定感っていうけど
もう自己はそこにいるじゃんかって言葉に
そうそうそれそれとかっていい気になって
心の中でエールを贈っていた。

でも自己はあるのよ。

母もわたしも。

この地に生まれついたんだし。
出会ったんだし。
自己はある。
まぎれもなくある。

でもこのままじゃふたりがつぶれて
しまうなって。

そして忘れてしまった母に怒りながら
日々を過ごしていた。

これがいちばんやっちゃいけないこと
だったと先人の方の話で気づく。

これがあったから、母の記憶がゆるんだとか
それは断定できないけれど。

あれだろうなっていうのはわたしのなかに
あって。

そのことはこっちのnoteで書いたりもしていた。




いつもぼんちゃんは怒ってるって
母に言われた。

わたしは人からどう見られてるかとかに
あまり気を遣って生きてこなかったのだ
けれど。

いつも怒ってるって言われたのは人生
はじめてで、ちょっくらショックだった。

目が覚めた。

それは母が忘れてしまうからだったけど。
母のせいにはしたくなくて。

その後の会話で売り言葉に買い言葉みたく。

どうして忘れるのよってわたしが責めた時母は、
今でも忘れない。

着ていたもこもこのベストをかなぐり捨てる
かのように、力強く脱ぎ散らして

「記憶しているもの仕方ない」
という名セリフを吐くのだけど。

え?

記憶?

忘却じゃなくて、まちがった記憶も記憶
だったのかとびっくりした。

そか、記憶と忘却は背中合わせなのだと
気づいて風穴から風がそよいだ。

そのことは以前のnoteにも書いたことだけど。

それからしばらく時間が経って、ちょっと
状況がさらに変わった。

日々母の記憶違い(病院に行かなくていい日も
行くという)を穏やかに訂正しながら、
毎朝病院に行くための早朝鞄とコートを抱える
母にも今日は病院じゃないからねって口角を
あげて言うようにした。

日に10度ぐらいは訂正していただろうか。

そして運命の3月15日がやってくる。

通常のお薬をもらう日だった。

病院は無事に終わり、こういう時は母の記憶は
しゃんとしている。

どこもまちがえない。

それが終わり、ふたりでさぼてんで食事して
家に帰ろうとしたそのドアを開ける手前で
ことが起こった。

鍵穴のふたつめにキーを差し込みながら、
電気つけるまでそこにいてねって言って
いたのにそんとき、聞いたことのない
金属系の音ガシャーンって音がした。

ふりかえると、母がしりもちをついていた。

ガシャーンは母の携帯酸素のバッグを電柱に
ぶちかました音だった。

もうこれは尋常じゃないことが始まったと
不安の塊でいた。

でも怪我の功名とでもいうのか。

強い打ち身でおわったその事故によって母の
記憶が戻ってきていたことに気づいたのは
翌朝だった。

まったく以前の母になっていた。

おかしな行動もなくなって、わたしはその日
母が転んだことが、あの記憶への入り口だった
のかもしれないと今でも思ってる。

こんな2カ月半だったって言ったら、母も
びっくりしていた。

ぼんちゃん気が長いって言って笑う。

そしてちょっと衝撃だったけど母がいう。
「じぶんの記憶よりもぼんちゃんの記憶を
信じているからね」って。

そうか、わたしはその言葉に驚きながらも
うれしさと責任の重さで、くしゅんって
なりそうだった。

けど、そういうことだなって。

わたしは彼女の記憶になってこれから
生きていくんだなって、どこかわたしに
生きてゆく意味みたいなものをもらった
気がしていた。

こんなに生きてきたのに

生まれてきてよかったとはじめて思った
かもしれないここ2カ月半だったと思う。

いつの日かのための予行演習のような
日々だった。

みえない救ってくれた力に感謝している。

わたしが母に言った。

一人ボケツッコミってこれのことやんかって。

勝手にボケて、ひとりで転んでそれに
ツッコんで記憶を回収していったん誰?って。

二人笑った。

ちょっとブラックな笑いにも笑えることが
いまは嬉しい。

記録と記憶のnoteとして書いておきたかった。

どんな母であれ、いま共にそばにいることが
やっぱりわたしの幸せなのかもしれない。




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