見出し画像

物語は誰のものになってゆくんだろう。

一日を終える時、まだ何か大事なことを
し忘れていた気がする。

それはとても大事なことなのに、すこしも
手をつけなかったことのように思えて来て、
その大事なことがなんであったかを、手繰
ろうとするのに、なにかを忘れているという
感覚だけがふくらんでいて、うまく思い出せ
ない。

このぼんやりとした感情に包まれながら、
坂道を上りながら、ふと目にした道路脇に
名前の知らない花を見ていた。

名前を知らないのは私だけかもしれない。

SNSの中でも日常のなかの「物語」という
キーワードが浮かんでくる。

誰が誰に裏切られたられたのかよくわから
ないのにただただ怒っている人と、ひたすら
同情するひとにわかれてゆく彼らの物語。

そしてみているひとたちの物語も一方で
ある。

わたしはかってに信じた誰かの物語に、ふら
れた気がしているのかもしれない。

物語がない時代にひとびとが、生きていた
ことは多分ないかもしれないけれど。

いまの<物語>に寄せられる想いのような
ものは、ただただ何か目の前にあるものを
根拠なく信じたい方向へと向かっている気も
するなって思いながら。

いつかノートに記していた寺山修司の言葉が
気になって、ごそごそと探しに行く。

寺山修司のことを考えると、輪郭があれほど
はっきりしているはずなのに、捉えてしまった
あとは、なにも掴めていないような気がして、
不安になってしまうんだろうって思う。

そんな彼が死の37日前に語った演劇の可能性に
ついての言葉に再会した。

<物語は中断してしまわないと気が済まない。物語を完結
してしまうと観客の中には何も余白が残されない。物語は
半分つくって、後の半分を観客が保管してひとつの世界に
なってゆくこと>


おそれおおくも、そんなことばに引き寄せられ
てゆく。

演劇人としての言葉だけれど、同時にそういう
性質を持ち合わせていたであろう寺山に惹かれて
しまう。

『書を捨てよ、町へ出よう』にはじめて触れた時、
残された余白になかば、溺れそうになりながら、
すがるもののなさに、呆然としてしまったあの感
覚はいまも、まだずっと続いていることにうその
ようにおどろきつつ。

物語と小説は違うけれど。
それをAIが書く時代が来るのかもしれないと思うと
その物語は誰のものなんだろうって考えたりする。

応募原稿にだって採用されるかもしれない。

もっと短い短歌ぐらいなら作れそうだと思ってる。

もしかしたらその物語は、作者のものではなくて
読む人、読者だけのものになってゆくのかも
しれないと思いつつ。

AIは学習するという。
その学習の中にはかつての誰かの物語もたくさん
含まれているんだろうと思うと。

ますます物語は書き手のものでなくなっていく
ようなそんな気持ちになっている。

あ、そうだ。

Q 寺山修司が今も生きているとしたら、どんな
小説を書くと思いますか?タイトルは決まってい
ます。書を捨てよ街を出よです。

って、chatGPTにいつか気が向いたら聞いてみよう。


今はまだいい、そんな気がしている。

追伸:

寺山修司って書を捨てよ街を出よって

わたしたち読者をそそのかしながら

わたしなんてたった一人のなかには

ないということを証明したかったの

かもしれない。

わたしたちは色々な誰かで出来あがって

いるのだから。

そう思えばchatGPTがこしらえた小説

だって誰かの物語たちで出来上がって

いるのだ。

同じことじゃないかと思ってみたりする。

安堵していい?

それにしてもわたしってどこからどこまでが

わたしなんだろう。





 

この記事が参加している募集

いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊