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文の文 1

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文というハンドルネーム、さわむら蛍というペンネームで書いていた作文をブラッシュアップしてまとめています。
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#アーカイブ

思い出すこと〜手紙

思い出すこと〜手紙

その日、横浜へむかう京浜東北線にのると、車内は少々混みあっていた。つり革に手を伸ばしながらなにげなく座席に目をやると、前に座る女性が手紙を読んでいた。

20歳代後半か、あるいは、30歳をいくつかこえているかもしれない。地味な感じの装いだが、どこか世なれたような勝気そうな顔にみえる。

彼女は便箋を手にしているのだが、ひとところをずっとみつめていて、いっこうに読み進んでいかないようにみえた。

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白洲正子のカケラ〜お能〜

白洲正子のカケラ〜お能〜

実を言うと、白洲正子さんの「お能」は5週間近く抱えていた。

読み進めば進むほど、正子さんてすげえなあと思うし、決しておもしろくなくはないのだけれど、なかなか先へ進めない。

まるっきりの門外漢は用語の一つ一つに躓く。へーなるほどそういう世界なんだなあ、と思いつつも、実感が湧かない。わかったようなわからんような妙な感じで、また元にもどってみたりするから、いよいよ先へ進めない。
 
なにより文章のリ

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救われんな。

救われんな。

たとえば、世の中のことを好きと嫌いに分けてみる。「いやや!」と「ええなあ!」。

自分のなかの振り子は、いつだってその間をいったりきたりしているのだけれど、ここのところ「いやや!」の方に大きく振れて、なかなか戻ってこない。

学級委員とか生徒会役員とかPTA役員とか町内会役員とか、まあ、これまでの人生のなかで、そんなふうな役回りがよく回ってきたわけで、

それは自分の利益より全体の利益を考えるよう

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そんな日のアーカイブ 毒杯

そんな日のアーカイブ 毒杯

人間ドッグのなにがいやって、あのバリウム。なんとも気持ち悪くて。その前に飲まされる発泡剤もいやで。うっ!

台にのって横を向いてごくごくとゆっくりと飲んでください、といわれて、野上弥生子さんが言ってた「地獄の飲み物」を口にする。

ああ、この姿はソクラテスが毒杯をあおった姿に似てはいまいか、

という弥生子さんの言葉を実感した。

で、台の上で、七転八倒。あっち向け、とまれ!もうちょっと左。いきと

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チラシ配りのうた 8

チラシ配りのうた 8

チラシ配りをはじめて一ヶ月が過ぎる。

配り始めたころは、あまりに陽射しの強さに日傘をさしていたが、陽射しはだんだんに優しい光に変わっていった。昼間の時間は徐々に縮まっていき、街は路地の奥から暮れていくのだった。

この一ヶ月、なんだか早かったなあと思う。

まあ、それもそのはずなのだ。宅配された最初の千枚がなくなる頃合を連絡をしなかったものだから、次のチラシがなかなか来なかったのである。

わた

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チラシ配りのうた 7

チラシ配りのうた 7

今日もおなじようにチラシを配るひとと出くわした。今日のひとはちょっと若い小柄なひとだ。一瞬目があったがそのあとは見ない。なぜだか視線を合わせてはいけないような気分になる。

そのひとも動きがきびきびとしている。スタスタスタと歩を進め、サッサッサッとチラシを突っ込んでいく。そのひとが立ち去ったあとの郵便受けの蓋はその勢いが余ってゆらゆら揺れていた。

地図を片手に郵便受けはどこじゃどこじゃときょろき

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チラシ配りのうた 6

チラシ配りのうた 6

郵便受けから郵便受けへと歩を進めていると、おなじみちを行くひとがいる。

夕方配るときは新聞配達のひとに出会う。エリアや新聞ごとに人は違うが、バイクや自転車に乗ったひとがわたしを追い抜いていく。追い抜かれたと思っていたらまた違うところで出会ったりする。

おにいさんだったり、おじいさんたっだりする新聞配達のひとはどのひとも、慣れた手順で家から家へと進んでいく。

地図と家を見比べて、ブツブツ言いな

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チラシ配りのうた 5

チラシ配りのうた 5

大きな通りから横道へ入り、なおも細い路地から路地へと歩いていくと、だんだん家が小ぶりになっていく。足元の土の上には導くように飛び石が敷かれている。夏の名残の雑草がはびこる。

長く曲がりくねった路地には崩れ落ちそうな木造の家がこっそり建っていたりする。

剥がれかけた板塀が細い長方形に切り落とされている。そこが郵便受けだ。裏側はどうなっているのかわからないが、そこにチラシを入れる。煤けたガラス戸の

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チラシ配りのうた 4

チラシ配りのうた 4

9月23日午後2時からチラシを配りはじめた。

記念すべき一枚目は公園の向こうの一軒家「柘植」さん。手入れの行き届いた庭の植木が門からのぞいている。それにしてもカッコいい名前だなあ。自衛隊員の敬礼とかが似合いそうな苗字、なんて勝手なものおもい。おおむねこんなことを思いながら配っている。

そこいらは門に郵便受けが備え付けてある。道なりにスイスイと何軒か入れていって、おっと、と立ち止まる。一軒家に見

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チラシ配りのうた 3

チラシ配りのうた 3

宅配便で配るべきチラシが届いた。その包みを手に取って、まあ重いこと!と驚く。千枚はあるな、きっと。こりゃあ、たいへんだあとちょっと血が引く。

ぺりぺりぺりとあけてみると、なかからB5サイズの黄緑色の紙が山ほど出てくる。うわあ、やっぱり、千枚だあ。

その紙には、赤やら濃い緑の字で、こう書いてある。

「売り家探しています。○○○3丁目から6丁目」

これくらいの土地で、とか古家があってもいいとか

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チラシ配りのうた 2

チラシ配りのうた 2

おばさんはどんな恰好でチラシ配りの面接にいけばいいのだろう。

まさかスーツではいけないしな。まだまだ暑いしな。汗かくしな。でもちょっとは決めとかんとな。落ちたらカッコ悪いしな。

こういうところが我ながら困るところである。思案し始めるときりがない。白と黒でいこう。髪はきっちり縛って。ちょっときりりとした顔で。チラシ配りの面接に行こう。

面接を受けるのは、こわい松浦教授に泣かされ、ハンカチを貸し

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チラシ配りのうた 1

チラシ配りのうた 1

それはずいぶん前のこと。

*****

夏のおわりに50歳になった。ああ、年寄りになったのだと思った。自意識が過剰気味の自分にとっては、なにかが取っ払われたような、肩のあたりがふっと楽になるような感じでもあった。

ではあったが、同時にこころもとなくもあった。更年期のこころは振り子のように振れるのだ。

思いがけずよい出会いに恵まれながら、それを生かしきれず、何者にもなれず、ただ漫然とこのまま、

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