見出し画像

チラシ配りのうた 6

郵便受けから郵便受けへと歩を進めていると、おなじみちを行くひとがいる。

夕方配るときは新聞配達のひとに出会う。エリアや新聞ごとに人は違うが、バイクや自転車に乗ったひとがわたしを追い抜いていく。追い抜かれたと思っていたらまた違うところで出会ったりする。

おにいさんだったり、おじいさんたっだりする新聞配達のひとはどのひとも、慣れた手順で家から家へと進んでいく。

地図と家を見比べて、ブツブツ言いながら郵便受けを探すわたしを、自転車にまたがったおじいさんが案じるような顔で見ていたこともあった。その顔は、わからんとこがあるならワシに聞け、とでも言っているようだった。

昼間に配る時は郵便配達のひとに出会う。赤い箱をのせたバイクの後をついていくと郵便受けのありかが即座にわかる。

飲み屋の店舗には郵便受けがなくて諦めていると、その横の路地から郵便屋さんが出てきたことがあった。あっという顔をしていると、表情を緩めて「裏の奥に水色の郵便受けがありますよ」と教えてくれた。

我が家によく来る宅配便のヒゲのおじさんのトラックにもよく出会う。大きなトラックを広い道に止め、そこからながい路地の奥まで重い荷物を運ぶ。

チラシは一枚5円だが宅配便は一個100円だと聞いたことがある。路地の奥の奥まで行って留守だったら、何度も足を運ぶことになる。

わたしと同じようにチラシを配るひとに出会ったこともある。眼鏡をかけたまじめな主婦という感じだ。

わたしより少し若そうに見えるそのひとはわたしよりかなり有能そうでもある。PTAの役員にこういう感じのひとが多かったなとか思う。

大きな麦藁帽子をかぶり長袖ジーンズスニーカーというわたしと同じようないでたちで、同じく財閥系の不動産会社のチラシを手にしていた。

わたしとちがうのは地図をもっていないことと、進んでいく速さ、そして、なんといっていいのかわからないが淡々と仕事をこなすその無表情な感じだ。

へえ、でかいうちだなあ、古いうちだなあ、家族が多そうだなあ、なんて感心しているわたしとはどんどん距離が離れていく。

常にわたしの先を行く。門を回って、そのひとを見つけたかと思うと、こちらに気づいたふうもなく、どんどん進んで行ってしまう。慣れた道筋なのだろう。迷い無くすっすっとチラシを突っ込んでいく。

行く先々で、先回りしてそのチラシが入っているのがわかる。ああ、ここももう回ったんだと感心する。

新しい建売住宅のかまぼこ型の郵便受けを開けるとそのひとが入れたチラシがあった。わたしが配るチラシよりもサイズが大きいらしく、幅の狭いその郵便受けのなかに、クシャっという感じで突っ込んであった。

そのクシャっという感じが頭を離れなかった。

その日は土曜日の午後だったが、まだ小さい子供がいるから急いでいるのだろうか。そのひとも一枚5円で配っているのだろうか。この仕事をしなければ生活が苦しいのだろうかなどと思ってしまう。

そのひとを見るわたしの視線はつまり、わたしを見るまわりのひとの視線だと気づく。それは郵便屋さんを見る視線とは違うものだ。

わたしの場合は手術で無くした左顎の部分にテーピングテープを貼っているから、それが気になるひとの視線も重なっているのだろうなとも思う。ひとの視線はどこまでもぶしつけになれるものなのだと知っている。

わたしの先を行くあの女性の無表情な顔やそそくさと歩を進めていくさまは、そういう視線を跳ね返すすべのようにも思えてくる。

わたしも慣れていったら、あのひとのように歩くのだろうか。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️