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チラシ配りのうた 1

それはずいぶん前のこと。

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夏のおわりに50歳になった。ああ、年寄りになったのだと思った。自意識が過剰気味の自分にとっては、なにかが取っ払われたような、肩のあたりがふっと楽になるような感じでもあった。

ではあったが、同時にこころもとなくもあった。更年期のこころは振り子のように振れるのだ。

思いがけずよい出会いに恵まれながら、それを生かしきれず、何者にもなれず、ただ漫然とこのまま、実らない稲穂のままでよいのか、という感じは、病気をしてから10年という時間のなかで、いつも浮かんでは消えた思いだ。

そんな思いがいったりきたりする9月のはじめに郵便受けにはいっていたチラシが家人の目に止まった。不動産会社の売り家募集とかいうものだ。

その裏に、チラシ配り募集中とあった。「やってみたら?」と家人が言う。わたしは専業主婦歴27年である。今更という感じもあったが、ここでなにかを始めないと、どこにもいけないような気がした。ずっと家にいる息子1と距離を取るのもいいかもしれない、とも思った。

チラシの裏にはこんなふうに書いてあった。

「ジョギングや散歩の時間など有効利用してみませんか?」
そんなふうに言われると、うん、それも悪くないわね、と思う。年齢と正比例して増加する体重をなんとかせねばと思っていたところだ。

「☆主婦、ご年配、学生のかた大歓迎」
そうかあ、大歓迎されるのかあ。主婦だし、年配だし。いいんだわ。

「☆出社していただくのは最初の面接のみ。チラシはご自宅へ郵送します」
ああ、それもいいね。わたし、人見知りするし。

「お好きな時間にお好きな枚数配布できます」
つまり、ノルマなしってことね。いいな。わたし体力ないし。

「未経験者のかた大歓迎!!※経験者の方はお断りしております」
全然働いたことないわたしでもいいのね。この近所を配るわけでしょ? 引っ越してきたわたしは土地勘もないんだけど、いいのね。

「限定5名」
これって、早いもん勝ちかなあ。面接して落っこちるのってつらいよねえ。親子してそれじゃあ、せつないわあ。

「真面目にやっていただける方にお願いします」

よし!わかった!合点承知のすけでえ!

文面読んだだけでやる気になってしまっていたのだった。広告文はかくあるべしだと、後になって感心したりする。

思い立ったが吉日である。時間がたつとまた思いの振り子が舞い戻ってきて、やーめた!になるかもしれないから。

受話器を取る。財閥系の不動産やさんだから、と自分に言い聞かせつつも、ちょっとどきどきする。実家が不動産やになったとき、ちょっとこわいひとも垣間見たからだ。

おねえさんが出た。感じのよい声。そりゃあ客商売だもん、最初からこわくはない。

「チラシ配布の件で・・・」とごにょごにょ言う。
「担当者の誰でしょう?」と聞かれてあわててチラシを見直す。
「山崎さんです」
「今ちょっと席をはずしておりますので後ほどこちらからご連絡させていただきます。お電話番号お願いします」

はー、気負った分肩透かし。それでもちょっと仕切りなおしでほっとする。しばらくして電話があった。

「今はマンションを配る人は足りておりますので、一戸建てのほうをお願いすることになるのですが、できますか?」

「できると思いますが、あの、それは違法ではないですよね」と、われながらお間抜けなことを聞いてしまう。でも、それは気になっていることでもあったのだ。

「むろんです」と苦笑気味の答えだった。

「18日に面接を行いますので、簡単な履歴書と、ご自分名義の銀行通帳と三文判をお持ちください」

さても、履歴書。息子のは何度も見たが、自分が書くのははじめてのような気がする。いや一回あったかも・・・いずれにしろ新鮮なかんじだ。

学歴のところ、自分が何年に卒業したとか書かねばならない。最終学歴かあ。遠い昔のことだ。結婚した年と同じだから、とか指をおる。

職歴なんてない。専業主婦とか書きたくなる。

資格、免許。うーん、つらいね。運転免許と中学1級英語教員かな。茶道や華道のお免状ではなんの役にもたたんね。精神対話師つうのもあったけどなあ。

性格?うーん。パス!

特技?パッチワークとも書けんしなあ。作文なんて書いても困るよね。

志望の動機?運動不足解消のため、じゃだめ?

どう書いていいのかわからない項目ばかりで、ほとんど白紙のままだ。こんなの関係ないもんな。

写真もいる。運転免許更新のときの残りがあったので、それを貼る。

貼ったはいいが、どうも印象が悪い。

極悪人には見えないが、小心ものが切羽詰ってしでかした罪で捕まって、なんでこんなことになったのだろう、と思っている中年女みたいな顔である。

きっと何回録ってもこんな顔になるに違いない。

履歴書を書き終えるとなんだかため息が出てくるのだった。

山崎さんてどんなひとだろう。若そうな声だったけどなあ。面接ってどんなこと聞かれるんだろう。

一戸建てのポストにチラシを入れる。それは途方もなく大変なことのようにも思えてきたりした。

そこで、かつて千鶴子さんが言った言葉を思い出す。新しいカルチャーに通おうかどうか決めかねているときに言った言葉だ。

「ダメならやめればいいのよ。やってみなきゃわからないじゃない。ひょっとしたらおもしろいことがあるかもしれないじゃない」

うんうんうん。そうだそうだ。ダメならやめればいい。そう思うとちょっと気が楽になる。

ひょっとしたら、おもしろいこともあるかもしれない。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️