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チラシ配りのうた 4

9月23日午後2時からチラシを配りはじめた。

記念すべき一枚目は公園の向こうの一軒家「柘植」さん。手入れの行き届いた庭の植木が門からのぞいている。それにしてもカッコいい名前だなあ。自衛隊員の敬礼とかが似合いそうな苗字、なんて勝手なものおもい。おおむねこんなことを思いながら配っている。

そこいらは門に郵便受けが備え付けてある。道なりにスイスイと何軒か入れていって、おっと、と立ち止まる。一軒家に見えたが、これは小さなアパートだ。ここは入れてはいけないと自分に言い聞かせる。

チラシ配り、一戸建ては1枚5円だが、集合住宅だと1枚2円だ。うーん、はかが行くということだろうな。でも管理人がいる時間帯には入れられないから、土日とか夜に配ることになるらしい。それもたいへんだな。

うちのマンションには郵便受けのそばにゴミ箱が備え付けてあって、みなさん要らないものはそこで棄てていかれる。チラシ哀歌だなあ。

地図を見てみると、マンションが立ち並ぶエリアにはポツンポツンとしか一軒家がない。わたしなどはその家にも入れに行くわけだから、ちょっと効率が悪いな。


配っていると、家の建て方もいろいろあって、郵便受けがなかなか見つからないお宅もあって、まごまごすることもある。植木の陰に隠れていたり、背伸びしないと届かないようなところにあったりするのだ。

もともとは赤かったのだろうけれど、錆び色に変わってしまってるものもある。

家の古さと比例して郵便受けも古くなっている。それはそこに住むひとと世の中との関わりあいの象徴のようにも見えてくる。時を経て、打ち棄てられた家の前で、胸がいたくなったりする。

新築の建売住宅には同じ郵便受けが並ぶ。家族全員の名前が並ぶ。これから新しく始まっていくのだという予感。

がっちりとした大きな郵便受けにはすんなり入るが、細長い郵便受けには半分に折らないと入らない。新聞や郵便物でふさがっているときもぐいぐいと押し込む。

入れ口を押す感触もいろいろある。重いと片方の手で押さえつけて入れる。雨ざらしで手が汚れたりする。

アメリカ風のかまぼこ型の郵便受けは入れ口を開かなければならない。それを開けるのに抵抗があった。その家の郵便物を覗き見するような感じがいやだなと思った。

担当の山崎さんに聞くと「開けていいです。ちゃんと入れてください」と言われた。ほんとにいいんですね!とこころのなかで念を押した。

もうひとつ困ったのが、門に郵便受けがなくて、閉まった門扉のなかにあるお家だ。無断で門扉を開けてその敷地内に入ってチラシを入れる。うーん、これはいかがなもんだろう。

これも山崎さんに聞くと、「いいんです」という答えだった。「し、しかし」と口ごもると「無理ならいいです」と言われた。

うーん、と考え、門扉をあけるときは「失礼いたします、こちらはただのチラシ配りです。あやしいもんではござんせん」と唱えることにした。

だれも聞いてないのにそんなこと言うなんてヘンかな、と思うが、わたしはこれで落ち着く。

卑屈になってるかな、とちょっと苦笑したりもする。正直なところ、それもあるかな。迷惑かけてなければいいが、という思いがふっとわいてくる。

山崎さんは「空き家にも入れてください。売りたいはずですから。二世帯住宅で二つ郵便受けがあったら両方に入れてください。喧嘩して売りにだすことがあるかもしれませんから」と言った。

そうかあ、家にはドラマが絡むなあとか思いつつ、配り続ける。すると、「配達ごくろうさま」というシールが張ってある郵便受けに出会う。

150枚配って、3軒ほど、その言葉に出合った。郵便屋さんや新聞配達のひとへのねぎらいだろうけれど、わたしもふっとなごんでいた。

「青少年に有害なチラシおことわり」と書いてある郵便受けがある。ああ、そうだ。チラシという語感のなかにはそういうイメージもある。相手の都合などおかまいなしに無遠慮に舞い込んでくる毒素のようなもの。

でも、これはそういうものではないのよ、と胸を張っていうことはできるけれど、それでも「広告チラシお断り」とチラシの紙の裏にマジックで手書きされた貼り紙に出くわすと、ああ、このお宅にとってはいやなもんだな、と思ってしまう。

犬にも吠えられる。ドキンとする。お前は誰だ?誰だ?誰なんだ?と問うように執拗に吠える。小型犬ほどよく吠える。犬は決して嫌いではないが、どうも具合が悪い。

「あやしいもんじゃないってば」と言って通じる相手じゃない。さっさと通り過ぎるしかない。まあ、あやしいひとは「はい、わたしはあやしいおばさんです」なんて言わないよね。

ちょっと高台の一軒屋があり、10段ほどの石段を上がって入れに行く。郵便受けに手を伸ばしかけたところで、後ろから「なにか?」と声をかけられた。これまたドキンとする。

だから、あやしいものではありません、という言葉を飲み込んで、「失礼いたします。チラシを配ってます。よろしければ」と差し出す。

しっかりしたおばさんなのだろう。こちらを値踏みしているのがわかる。チラシを一瞥して「あ、いらない」と突っ返してきた。「失礼しました」と言い、背中に視線を感じながら階段を下りた。

散歩中のアフガン犬を並びながらチラシを配ったこともある。毛足も足も顔も長い優美な犬がゆったりゆったり歩く。ぷんとけもの臭がする。煙草を吸い過ぎたような声の中年女性がリードをひいている。

「もういいの?気がすんだ?帰るわよ」と言いながら自宅らしい家のドアを空けた。そこも一軒家なのでチラシを入れる。

「あのチラシなんですが」
「あ、いらない。もったいないから持ってって」とドスのきいた声で言われる。
「失礼しました」

なんだか失礼ばっかりしてるなあ。

一階がガレージで二階に住まいがある家があった。チラシを入れようとすると向かいの家の奥さんが出てきて、「そこは今は住んでないから入れないで」と言った。

空き家は入れろといわれているのだけれどなあ、と思い、ためらっていると、「そこ寮かなんかだったのよ。引っ越しちゃったみたいよ」と奥さんは言葉を継いだ。

寮なら入れなくていいや、と安心する。でもその奥さんは「うちもいらないわ」と言う。そう言いながら「ご苦労さんね」と言う。気分が上がったり下がったりする。


関電工とかの電気工事のひとが道に何人もいた。おおきな重機を避けながらチラシを配る。路地を出たり入ったりするもので、何度も出くわす。そのたびにちらちらと見られているような感じがする。

深い路地の先の先までいってまた舞い戻ってきたら、そのひとたちがお弁当を開いていた。地べたにペタンを腰を下ろして、黙々と食べている。それがちょうど門の郵便受けの前だったりする。うーん。また目があってしまう。こまったなあと思いながら「失礼します」とその後ろに回る。

がっしりとしたからだの実直そうなおじさんのおおきなお弁当には、ぎっしりとご飯が詰まっているように見えた。ご飯をほおばった顎が大きく動いていた。ああ、お腹空いた。

路地の先から別の道を行くと、だんだん自分がいまどこにいるのかわからなくなってしまう。地図を取り出して斜めにしたりさかさまにしたりして、来た道を探す。

と、そのとき、油断したのか、手にしていた40枚ほどのチラシを落っことしてしまう。

おおーいかんいかん、と慌てる。かがんで拾おうとすると風が吹いてふわりと飛ぶ。待て待て待てよ、と追いかける。

晴れた日でよかったなあ。雨の日に配ってこんなふうに落として濡らしてしまったらどうしたらいいんだろうなあ。考えるとドキドキする。

ちっともドキドキしなくなって、うつむくことも天を仰ぐこともなくなって、当たり前の顔でこの道を歩くようになるまでには、きっと、もっと、いろいろあるんだろうなあ。


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️