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白洲正子のカケラ〜お能〜

実を言うと、白洲正子さんの「お能」は5週間近く抱えていた。

読み進めば進むほど、正子さんてすげえなあと思うし、決しておもしろくなくはないのだけれど、なかなか先へ進めない。

まるっきりの門外漢は用語の一つ一つに躓く。へーなるほどそういう世界なんだなあ、と思いつつも、実感が湧かない。わかったようなわからんような妙な感じで、また元にもどってみたりするから、いよいよ先へ進めない。
 
なにより文章のリズムがどうも自分のと合わなくて、ととととと、とたたらを踏むような居心地の悪さがある。

つっかえつっかえ、「お能」の言葉が脳みその戸を叩く。どっこいしょ、という感じでその難くて重たい言葉を押し込む。だんだん頭が重くなって、白旗を揚げる。まぶたが重くなって、居眠りをしてしまう。

ほんと、頭悪いよなあ、と情けないこときわまりのないのだけれど、正子さんの本の活字を追うことがだんだんストレスになってきて、本を開こうとすると、目がいやいやをする。

で、まあ、えーい!と放り出してみたりして、かってのエッセイの先生、関川夏央さんの昔の文庫「貧民夜想会」を読んでみた。

するとこれが、目が喜んでいるとしか思えないくらい、すらすらと読み進んで、うんうん、そうそう、いいないいないいな、なんてわくわくしながら、くやしいけど、うまいよなあ、なんちゅう斬新な比喩!とか、ああ、この言葉はこんなふうにも使えるのかとか、いつも不機嫌そうな先生だったけど、文章は別物だなあ、などと思いながらあらがいがたく次ぎ次ぎにページをめくっていた。

これって重たい鉛入りリストバンドをはずしたヒーローみたいなもんかなあ。読書が作者とバトルだとしたら、私はとても脆弱なファイターであるなあ、と自覚する。

知識の海では舵取りがままならず、おぼれてしまう。小林秀雄は歯が立たなかったし、フォークナーにはこてんぱんにノックアウトされたし、長編は体力が持たないし・・・。

それにしても、関川さんの文章のここちよいこと。そのここちよさの向こう側にはきっと数え切れないほどの文章の素振りのような時間があったのだろう、と推測する。

そんなこんなで白洲正子さんの「お能」を読了したときはなんだかため息がでた。こういう読書もある。

白洲正子というひと、前々から只者ではないとは思っていたのだけれど、読めば読むほど、スサマジイおひとだと感じ入る。

ハンサムでハイカラで筋の通った、ちょっと口うるさいけど上等で、なにしろすこぶるいい男である白洲次郎氏の夫人であるだけでも、すごいなあと思うのに、このひと自身として、次郎さんにひけを取らない人物なのだ。

北大路魯山人を殴っただとか、次郎さんが薩摩を馬鹿にしたので思いっきり横っ面をひっぱたいただとか、さすがおじいさんが薩摩示現流の使い手だったというだけある。なべてこの心意気で生きておられたように思われる。

そんな正子さんが「お能についての独り言だ」と自ら言われる文章を追いながら、ある種容赦のない文明批評に、そういう生来の潔さとかごまかしのなさとか凛とした佇まいが感じられてならなかった。

正子さんは、お能は女には向かないということがわかるまでに50年かかったのだという。50年やって、百番も舞ってあれは骨格といい、精神といい、これはすべて男のためにできていると納得して、ぱっとやめてしまう。

お能の魅力はロックなどそばによれないほどのノリのよさだと正子さんは言う。舞ったあとは別の国へ行ってこの世に還ってきたような夢のような気持ちになり、ぼーっとした感じが一週間続くのだそうだ。

そんな境地になるまで、の修業はなまなかのことではなかっただろう。「物真似」というか、型というか、なにしろお能は型の連続なのだと知った。「型ツケ」というものがあるのだそうだ。

サシ、右足一足 左足カケ 三ノ松ヲ見、扇オロシ、面ニテ正下ヲ見、正へ二足フミ込ミ・・・・

つまりこれが「お能」の道順である。これが積み重なって一連の動きになってお能の型になる。そこへ笛、囃子、謡が重なって総合芸術となっていく。

「お能」の筋書きとは別のところで、分解写真の絵解きのようにそういう型が繰り返し修練されるのだ。それは何百年もかかって何千回何万回と舞われたなかで、ついにこれ以上理想的な表現法はないとまで定められた「能の型」である。

正子さんはこんな風に書く。


「お能という大きなひとつの絵画を絵であらしめるためにその小部分であるひとつひとつの模様は正確でなければなりません。型はそれゆえに方眼紙の上にでもうつしたくなるほど正確であります。

若冲の方眼の絵や印象派の点描が浮かんでくる。退屈な作業が鮮やかに生み出す広く深い世界。一枚のセル画がやがてアニメになるようでもある。

お能の型をするためには、人間はひとつの機械となるよりほかありません。円は完全にまるくなくては、角はつねに直角でなければなりません。お能の型はこれほど厳しく、かつつまらないものであります」

そして


「お能のたましいは美しい幽玄のなかにも花のなかにもあるものではなく、こんな殺風景な技法のなかに見出せます」

と続く。おお、そうなのかあ。

お能には自分の心持など入れる余地はなく、次から次へ数々の型を無心に演じるとき自然に重なっていくものらしい。

そうして正子さんはこう書く。


「お能の専門家に必要とするものは、創造する力ではなくて、つきることのない忍耐と、お能に対する絶対の信頼と、技術家の位置にあまんずるだけの謙遜と、それから体力であります」

白洲正子さんはお能をやめた。なんとなく納得する。

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