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#小説
ふびんや 41 「闇坂 くらやみざか Ⅴ」
ーーー実は、これは僕の祖母の嫁入り道具だったものなんです。ええ、「ふびんや」さんに仕立て直しをお願いしたあの羽裏の持ち主が祖父で、その奥さんってことになりますね。
もう遠い昔の話ですから、僕も両親から聞いた話でしかないんですけれども、祖母は、遡ればやんごとない、けっこう家柄のよい家から嫁いてきたそうで、この人形は祖母が輿入れの際に持ってきた自分自身のものらしいです。
雛人形って娘が生まれたとき
ざつぼくりん 4 「古い本」
絹子と時生が暮らすアパートの窓から欅が見える。そのほっそりとした枝に猛烈な勢いで茂った葉が初夏の日差しを浴びて日に日にその色を濃くしている。
欅の葉擦れの音はどこか爽やかな感じがするなと絹子は思う。その音を聞きながらふたりで本の整理をしているところだ。
時生は本が好きだ。いろんな種類の本を手当たり次第に読む。絵本から小説、専門書、洋書に古書。絹子が道に迷うように、きっと時生は広大な本の森のなか
ざつぼくりん 3 「銀杏」
絹子はときどき道に迷う。もういい大人なのに迷子になってしまう。
地図を手にしながら行き先までたどり着けない絹子を見て、その迷い方はむしろ才能と言うべきかもしれないと時生は言う。
そんなときの時生の顔は若いくせにちょっと分別くさいなと絹子は思う。そして自分が道に迷うのは、なにかしらひとならぬものに呼ばれてしまうからだとこっそり思ってもいる。
時生が生まれ育った小さな海辺の町でふたりいっしょに住
ざつぼくりん 2 「雑木林Ⅱ」
この庭がまた野性的だ。ランダムに植えられた植木が野放図に育っている。さながら極小自然園といったふうだ。
この目で見なくても信じられることはある。今は見えないけれど、地の上、地の底、天井や影の中、薄闇にまぎれて生きるものは確かにいる。
彼らはほんとにいじらしいくらい健気に生きている。時折そうとはわからぬように彼らのサインが届く。そんないうにいわれぬとしかいいようのない不思議が漂うこの店もこの庭も
ふびんや 3「あずとひな Ⅲ」
母娘は藤村家の墓にむかった。お彼岸も過ぎた平日の午前中である。人影はない。あずが墓の敷石に紫の袱紗をひろげ、その上に持参した線香立てを置く。藤村家のひとに知られぬためにいつもそんな配慮をする。ひなが線香に火を付け、立てる。線香から細い煙がたちのぼり、ふたりの鼻腔をくすぐる。
ひなが懐紙を敷いてお供えの和菓子を置く。岡村栄泉の豆大福。花は矢車草。どちらも恵吾が好んだものだ。ふたりがお彼岸や祥月命日
ふびんや 2「あずとひなⅡ」
「おとなりの摂おばさん、大丈夫かなあ」
バスを降り、光徳院へむかう線路ぞいの道を歩きながらひなが不安げに言う。
「ああ、そうやったなあ。夕べ遅うに救急車が来てたな。摂さん、なにがあったんやろな」
「朝、むかいのおばあちゃんから聞いたんだけど、戸締りしに行って帰ってこないから気になっておじさんが見にいったら、摂おばさん、玄関で倒れちゃってたんだって」
「倒れたはったんか? えらいことやないの」
ラルフのためいき 13「ラルフのためいき」
そこでテルはしばらく動けなかった。足からは血が流れていた。きいっちゃんの顔も蒼ざめていた。たぶん、自分が声を出したことさえ、気づいてなかったんじゃないかなあ。
「おい、大丈夫か」おとこのひとの心配そうな声が聞こえてきた。見上げると髭を生やしたひとだった。白髪交じりの長い髪を後ろでひとつに束ねていた。
そのひとはテルのそばにかがんで、顔を覗き込み「頭、打ったのか?」と聞いた。テルはかすかにうなず
ラルフのためいき 12「テルⅢ」
テルは道場に自転車で通ってきてた。運動神経がいい奴だから、小学校一年生でも補助輪なしでスイスイどこへもいっちまう。体のバランスがいいんだろうな。両手放しだって出来ちまうんだ、あいつ。
でも、きいっちゃんは、過保護だからさ、そうはいかない。あぶないあぶないって家のひとに言われちゃうからな。だから、世田谷から持ってきたにいさんからのおさがりの自転車にはゴロゴロと大きな音をたてる補助輪がついていた。
ラルフのためいき 11「テルⅡ」
それからまもなくのことさ。きいっちゃんが剣道を始めたのは。テルみたいになりたいっておもっちゃったわけだな。ノートに鉛筆で書かれた「けんどうがしたい」っていう字を見たときのじいさんのうれしそうな顔、オイラ、今でも思い出すよ。ちょっと泣きそうだったと思うな。ま、じいさんも、いろいろあって、ちょっと涙腺弱くなったからな。
前にも言ったけど、じいさんの子供のきいっちゃんのお母さんだけで、でも、嫁に行っち
ラルフのためいき 10「テルⅠ」
きいっちゃんが道場に入るようになったのは、最初は拭き掃除のためだった。道場にかよってる子供たちと並んで、道場の端から端までいっせいに雑巾掛けしたんだ。
あれは圧巻さ。何人くらいだったかなあ。十人あまりの子がさヨーイドンで拭き掃除するのさ。みんな勝ちたいからさ、必死でスピード上げて道場をすべるように雑巾掛けするんだもん。あわてすぎて、ぺたんってのびちゃう子もいたな。きいっちゃんも何回かやってた。て
ラルフのためいき 9「きいっちゃんⅢ」
「ひやー、もうー、やだー、レンちゃんたらー」と樹菜ちゃんの黄色い声が風呂場に響く。「こらこら、レン、おとなしくしてろ」とじいさんも文句を垂れる
あのね、オイラだって好きで洗われてるわけじゃないんだからさ、フルフルってふるっちゃうさ。知らないだろうけど、濡れた毛ってのは気持ちの悪いもんなんだぜ。まったく石鹸まみれになるわ、お湯かけられるわ、「いえいぬ」になるのも大変さ。そういえば、朱鷺さんにもよく
ラルフのためいき 8「きいっちゃんⅡ」
日曜日の午前中に、きいっちゃんはセンセイといっしょにやってきた。梅雨の明けた空が青かったな。いっとくけど、まわりのみんながむりやりつれてきたわけじゃないよ。きいっちゃんがここへ来たいっていったからなんだよ。
その日は道場で稽古のある日だった。道場からは竹刀のぶつありあう音と独特の掛け声が聞こえてくる。鵠沼の家のまえで、剣道着をきたじいさんと土門が並んで、その横にオイラと樹菜ちゃんがいて、みんなで
ラルフのためいき 7「きいっちゃんⅠ」
だけど、朱鷺さんがいなくなったことをそんなふうに乗り越えられなかったのは、センセイの奥さんと、きいっちゃんなんだ。朱鷺さんがこの世に残したたったひとりの娘である奥さんは、おかあさんをなくしたわけだし、それはものすごく悲しいことで、無理もないことなんだ。
しかも奥さんの場合は、反対されながらセンセイと結婚して家を出たわけだからさ、自分が朱鷺さんを寂しがらせてしまって、それが原因で朱鷺さんのこころの