見出し画像

ふびんや 2「あずとひなⅡ」

「おとなりの摂おばさん、大丈夫かなあ」
バスを降り、光徳院へむかう線路ぞいの道を歩きながらひなが不安げに言う。

「ああ、そうやったなあ。夕べ遅うに救急車が来てたな。摂さん、なにがあったんやろな」

「朝、むかいのおばあちゃんから聞いたんだけど、戸締りしに行って帰ってこないから気になっておじさんが見にいったら、摂おばさん、玄関で倒れちゃってたんだって」

「倒れたはったんか? えらいことやないの」

「そうだよね。父もそうだったらしいもんね。それで、おじさんは動転しちゃってたから、あかねちゃんが救急車呼んだらしいよ。前から眩暈とかがひどかったからわたしも心配だったんだけどね。」

十年前、見知らぬ土地で右往左往していた訳ありの母娘の事情を察して、こまかなことまで気にかけ、助けてくれたご夫婦である。四人も子どもがいるのに、「四人も五人も一緒だよ」と言って、なにかにつけひなを仲間に入れてくれた摂を、ひなが案じるのも無理はない。

十年前、「ふびんや」が開店してからも暮らしはたいへんだった。あずの京都弁が響く店は、商店街のなかでは少々異質なのか、当初はなかなか客足が伸びなかった。一点ものの商品はてまひまがかかるぶん割高になる。今晩のおかずを買いにくる主婦が買って帰る額ではない。

店の引き戸が引かれることはめったになかったが、それでも興味は引かれるらしく、道行くひとは遠巻きにながめたり、店の中をうかがうような視線を投げていくのだった。

月末になるたびにため息混じりにあずが差し出す帳簿をながめながら「ぼちぼちやるさ」と恵吾は笑っていたが、なかなか売り上げは伸びなかった。

どうしたものかと思案するあずに、見かねた摂がアドバイスしてくれた。

「あずさん、あんたは京美人なんだから、自分自身が広告搭になって大島紬のベストでもちりめんのブラウスでも着て商店街を歩けばいいじゃない。ここいらのみんなはあんたのこと気にはなってるんだけど、とっかかりがなくてちかづきにくいのよ。簡単な小物でも作って配って宣伝してらっしゃい」

摂に言われたとおりに、売り物のジャケットを着て、ひなが古布で作ったポケットティッシュのケースを持ってあずは商店街を歩いた。

最初は無反応だったけれど、次第に店番をするおかみさんたちにあらっと呼び止めるられるようになり、あずはその都度、ゆったりした京都弁で、商品に使っている布地や手入れの方法を丁寧に説明した。そして最後にいつもこう言った。

「せっかくお蚕さんが作ってくりゃはった絹やねんし、最後までちゃんときてあげんと、不憫やし……」

「ふびんや」の名前はそんなふうにひろがり、店を訪れるひとが増えてきた。おやつ持参でお茶のみをしにくるながっちりのお年寄りもいたが、あずの仕立てのていねいさや色重ねのセンス、着易いデザインにほれ込む客が次第に増えていった。摂はそれを我がことのように喜んでくれたのだった。

「摂さん、もう五十半ばやろ? そろそろ更年期やし、脳貧血でもおこさはったんやろか。統三さんも心配なことやなあ」

「脳貧血くらいだったらいいんだけどね。もともと血圧が高いひとだからってあかねちゃんいつも心配してたから」

「帰ったら、統三さんにきいてみよな」
「うん。……ねえ、母は大丈夫なの?」

母ひとり子ひとりの家庭である。この東京に係累はない。父親である恵吾は光徳院の墓の下だ。互いのほかに頼るひとはいない。

ありがたいことに「ふびんや」が写真入りで地域のミニコミ誌に紹介されて、旧東海道を歩く年配の女性がふらりと立ち寄って買ってくれるようになり、常連になって遠方から訪ねてくれるひとも現れた。 

小さく縫い付けたAZUというタグにファンが出来、少々割高の商品もシーズンを選ばず売れて行くようになった。そのおかげで恵吾が逝ったのちも、母娘ふたりの暮らしはなんとかたちいくようになったのだった。

「大丈夫やて。うちは血圧は低いさかいに。それに、うちらのことは父の霊がまもってくれてるから」
そんなあずの言葉にひなは苦笑する。

「母はほんとに父がすきだったのね」
「なにいうてんのん、今でもすきや」
「ふふ、ごちそうさま」
「なにいうてるのん、あんたかてそうやんか」
「うん。そうだけど」

ひなのはにかんだ笑顔が恵吾に似る。伏せた目のまつげの濃さが恵吾ゆずりだ。

「ふびんや」の一角にはひなのコーナーもある。ひなは指先の器用な子でなにをしてもそれなりにこなす。陶芸や編み籠、染物や織物、帽子や鞄と言ったひなの手作り品が、階段ダンスの上に彼女のセンスでならんでいる。

若い子の和のブームに乗って売れ行きはいい。しかし本人はどこか冷めていて、ものつくりに夢中になっているというふうではない。

「あんたは器用貧乏やな。どれかひとつを極めたらどうえ」というあずの言葉にうなづきながらも、ひなはなにをしても飽きたらず、自分をためすように次々にいろんなものを習い、作り続けてきたが、まだ納得するものに出会えていないようだとあずは内心案じている。

住宅街の道をくねくねと曲がって、ようやく光徳院の門をくぐると境内にそそりたつ銀杏の大木に度肝を抜かれる。

「ほーんといつみてもここの銀杏はおおきいわねえ。葉がしげると森みたいね」
真下から見上げながらひながあきれたようが声をあげる。

「八百年もいきてるんやもん、そらおおきなるわ」と答えるあずの声も少し弾む。

「ふー、そんなにながく生きてたら、生き疲れちゃうよね」
「生き疲れ、てかあ。おかしなこと。摂さんのことが心配でそんなこというのんか」

「ううん。そんなことない。たださ、この銀杏、どこにもいけないでここに八百年もじっとしてるんだと思うとなんかかわいそうになっちゃっただけ。枯れるまでずっとここにいなきゃならないなんて、ヤレヤレって気分になるんじゃない?」

「ヤレヤレやろかなあ」
「うんざりしてるってば」

「いやあ、そんなことやのうて……この木は自分のことなんか考えてへんと思うわ。ただ、これまで見てきたいろんなもんのことを思い出してるのんとちゃうやろかて思う」

「そうかなあ。いろんなもんていったってお寺とお墓しかないじゃない」

ひなの視線の先には灰色や黒の墓石が整然と並んでいる。たくさんの卒塔婆が立つ新しい御影石の墓が日の光を鋭く照り返している。

「考えてみ。ここで、この銀杏は人間の生き死ににまつわる場面をかぞえきれへんほど見てきたんや。墓に入るひととそれを見送るひとがこの木の下を通っていったんやで」

「ああ、そういえばそうね。この木はみんな見てたのね」

ふたりの会話に答えるようにびっしりと茂った銀杏の葉が風に小さく揺れた。

「そうや。父のお骨もこの木の下を通ってお墓へはこばれていったんや。うちらが見ることができひんかったその場面をこの銀杏は知ってるんや」

あずは銀杏の木肌に手のひらをあててそう言った。

「そういえばそうね」と言ってひなも木肌に頬を寄せた。まだらに黄ばんだ銀杏の葉がはらりと落ちる。

「ひな、なんか聞こえるか?」
「父の笑い声」
「ほんまに?」
「うっそー」
「もう、この子はー」


読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️