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ラルフのためいき 11「テルⅡ」

それからまもなくのことさ。きいっちゃんが剣道を始めたのは。テルみたいになりたいっておもっちゃったわけだな。ノートに鉛筆で書かれた「けんどうがしたい」っていう字を見たときのじいさんのうれしそうな顔、オイラ、今でも思い出すよ。ちょっと泣きそうだったと思うな。ま、じいさんも、いろいろあって、ちょっと涙腺弱くなったからな。

前にも言ったけど、じいさんの子供のきいっちゃんのお母さんだけで、でも、嫁に行っちゃって、孫のきいっちゃんが苗字を継ぐことになってたんだけど、きいっちゃんが剣道をやれば、道場だった継いでもらえるってことだもんな。

じいさんがそこまで考えていたかどうかはわからないよ。たぶんさ、じいさん、自分の愛する剣道を、孫のきいっちゃんといっしょにできるだけでも、うれしかったんだろうな。

最初は素振りの練習さ。きいっちゃん、道場じゃなくてオイラのそばで練習してた。オイラに見ててほしいみたいだったな。きっとオイラがいると安心なんだろうな。

でもさ、いつも道場のみんなの脳天に突き抜けるような掛け声を聞き慣れてるオイラには、きいっちゃんの静かな素振りはありがたかったけど、でも、なんだか物足りなかった。ただ、聞こえてくるのはすり足の音と振り下ろす竹刀の音だけなんだ。

イルカとかコウモリが音波を出してその跳ね返りで距離を計るように、剣道の掛け声もさ、あの声で自分と相手との間合いみたいなもんを計ってるのかもしれなくて、沈黙の剣士は、どうやってそれを計るんだろうなあ、なんて、オイラ、土門みたいなこと考えちゃったよ。

ときどきじいさんもきいっちゃんと並んで素振りしてた。最初は気がつかなかったけどふたりが調子を合わせて振り下ろす竹刀の音の強弱が、だんだん音楽のように聞こえて来るんだ。それはなんだか、幸せな音楽のように思えた。

ふたりのこんな姿、朱鷺さんに見せたかった。この音楽も聞かせたかった。朱鷺さん、きっと喜んだだろうなあ。いい笑顔になっただろうなあ。

稽古中の道場の中へオイラは入れないからさ、よくはわからなかったけど、きいっちゃんはテルと並んで練習するようになって、色々教えてもらってたみたいだ。打ち込みのコツとか、相手のスキを見抜くとかさ。

きいっちゃんが話すことはなかったけど、テルはそんなこと気にならないふうだった。気が合うってのはそういうことなんだよな。そばにいるだけで分かり合えるんだな。

みんなでスイカの種の飛ばしっこしながらも、面がどうだとか、コテがどうだとか、そんなことをテルがきっちゃんに教えるんだ。そんなときはきいっちゃん、目を輝かして、うんうん、って首を縦に振りながら聞き入ってたな。

稽古が終わってからもさ、ふたりは夏休み中ずっとお神酒徳利みたいにいっしょに過ごしてたな。道場で並んで昼寝して、起きたらオイラをお供にして、海岸を走ったり、江ノ島にいったりもしたな。そうそう、テルの宿題をきいっちゃんが手伝ったりもしてた。

鵠沼にきてきいっちゃんはずいぶん背が伸びた。着てる服が窮屈そうにみえるくらいだった。どんどん陽に焼けて、どんどん体がしまってきて、そりゃもう男の子らしくなってきた。センセイも奥さんも週末に来るたびに驚いて、うれしそうな顔してた。

前に、きいっちゃんって吸い取り紙みたいにひとの気持ちを吸い取っちゃう、って言ったと思うけど、気持ちだけじゃなくて、剣道の技もどんどん吸い取っていったんだ。なにしろ、テルみたいになりたいって思ってるからさ、テルの言うことなら何でも聞くし、その通りにして見せるもんだからさ、めきめき腕をあげちゃうんだよ。

もともと筋もよかったんだろうね。じいさんの孫だからさ。まあ、犬のオイラにわかるくらいだからさ、じいさんや土門はその上達ぶりにびっくりし、誇らしく思ったと思うよ。

土門も「喜市、足が違う! 腕が下がってる!」なんて厳しい声で注意してたけど、他の誰よりきいっちゃんのことを気づかって、
きいっちゃんの息遣いみたいなもんまで意識してるみたいな感じだった。なによりきいっちゃんが怪我をしないようにって気遣ってたみたいだ。

樹菜ちゃんに話してるのを聞いたんだけどさ、土門はほんとは三人兄弟なんだけどさ、小さいときに一番下の弟を亡くしてるんだ。その子はさ、五つ違いの愛くるしい子でさ「にいたん、にいたん」って土門ともうひとりの弟の後をくっついてんだってさ。

けど、小学校に入ってすぐ、波にさらわれて溺死したらしい。そのときは親もいっしょだったらしいけど、にいさんである自分たちがその子のことをもっと気にかけてたら、弟は死ぬことはなかったんじゃないか、自分たちにはもっとすべきことがあったんじゃないか、ってずっと自分たちのことを責めてたって言ってたな。

「信じないだろうと思うけど、いまでも道歩いているときに、ふっと、自分のあとからアイツが『にいたん、まってー』って言いながら駈けて来るような気がするときがあるんだ。立ち止まって振り返ると誰もいないんだけど、それでも俺、しばらくじっと待ってるんだ。笑うかもしれないけど、俺、見えないアイツが追いつくのを待ってるんだ。すると、気のせいかもしれないけど、背中が一瞬だけ暖かくなるんだ。ほんとだよ」

樹菜ちゃんは「へー、不思議ねえ」って驚くんだけど、半分以上は信じてる顔だったな。樹菜ちゃんはその打ち明け話を聞いてますます土門のことが気になって行ったと思う。

だからね、土門ってさ、自分より弱い人のことをいつも背中にかんじてるんじゃないかなってオイラは思うんだ。朱鷺さんのこともそんなふうに感じてたんだろうし、だから、あんなに泣いたんだろうなって思う。

きっときいっちゃんはもっと弟に近い感じで、土門の気持ちに迫ってきてんたんじゃないかな。今度こそちゃんと守り抜かなくっちゃってね。きいっちゃん自身がその気持ちに気づくとまたしんどくなっちゃうってわかってるから、土門は知らん顔して、口では厳しいこと言って、実は影に日向にきいっちゃんを案じてたんだよ。ほんといいやつさ、あいつは。

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