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ラルフのためいき 8「きいっちゃんⅡ」

日曜日の午前中に、きいっちゃんはセンセイといっしょにやってきた。梅雨の明けた空が青かったな。いっとくけど、まわりのみんながむりやりつれてきたわけじゃないよ。きいっちゃんがここへ来たいっていったからなんだよ。

その日は道場で稽古のある日だった。道場からは竹刀のぶつありあう音と独特の掛け声が聞こえてくる。鵠沼の家のまえで、剣道着をきたじいさんと土門が並んで、その横にオイラと樹菜ちゃんがいて、みんなできいっちゃんを迎えたんだ。

なのに、車からおりたきいっちゃんは、まっすぐオイラのところへ走ってきたんだ。そりゃあ、オイラもびっくりしたさ。おいおい、どうしたんだいって訊きたくなったさ。けど、オイラは鳴くしかないし、きいっちゃんは話せないから、答えられない。

きいっちゃんは地面に片膝ついて、オイラの首に抱きついた。そして頬をオイラの首にぺたんと寝かしてくっつけて、動かないんだ。じっと、静かにそのままなんだ。最初はみんなも驚いたみたいだったけど、きいっちゃんが自分の意思で動いたってことに気づくと、なんか納得したみたいだった。

そうなんだよ。自慢でいうんじゃないけど、きっとさ、きいっちゃん、オイラにあいたかったんだよ。オイラのそばでゆっくりしたかったんだ。オイラもじっときいっちゃんを感じていた。そうすることが一番いいことのように思えたから。

すると、とっくんとっくんって、きいっちゃんの鼓動が伝わってきた。とっくんとっくん、っていうのは生きてる証拠なんだぜ。

そうさ、どう思うかは勝手だけどさ、そのとき、オイラときいっちゃんは、言葉じゃなくて、鼓動で語り合ったんだ。朱鷺さんはこの世にいなくなってしまったけど、遺されたオイラもきいっちゃんもここでこうやって生きてるんだって、確認しあったんだ。

それがわかったから、オイラ、きいっちゃんの鼻をぺろって舐めたんだ。そしたら、きいっちゃん、鼻こすりながら、ちょっと唇の端をあげたんだ。

「よくきたな、喜市」って言うじいさんの声がきこえると、きいっちゃんは顔をあげて、ぺこんと頭を下げた。

「樹菜ちゃんは覚えてるよな。こっちは土門だ」

「ひさしぶりね、きいっちゃん」と樹菜ちゃんが笑顔で迎える。

「やあ、ようこそ。今日は剣道の練習日なんだ。あとで、ちょっと道場、のぞいてみるか?」土門がそういうと、きいっちゃんはためらいがちにセンセイを振り返る。

「喜市のすきにすればいいよ」とセンセイが答えるときいっちゃんはうつむく。

「まあ、いいさ。とりあえず、家にはいってくれ。樹菜ちゃんがうまいもん作ってくれたからな」

じいさんを先頭に、土門も樹菜ちゃんも家にはいった。そのあとをきいっちゃんが続いていったが、玄関のところで、オイラのほうを振り返った。たぶん、オイラもいっしょに来て欲しいって思ってたんだろうな。じいさんはそれに気づいて言った。

「ああ、あとで、レンを風呂に入れような。きれいにして、あいつを今日からいえいぬにしてやろう」

それを聞いたきいちゃんの目は輝いた。おおきく頷いて背筋をのばして家のなかに入っていった。最後に残ったセンセイがオイラのそばにきて、オイラをくしゃくしゃにして撫でてくれた。

「ヨシヨシヨシ。錬三郎君、元気だったか? ああ、元気そうだ。錬三郎君、すまんがまた喜市のこと、よろしく頼む。君にはほんとうに世話になるなあ」

動物好きのセンセイはいつもこんなふうに人に話しかけるように、オイラに話す。けど、そんな大役をオイラに押し付けられても、オイラはミックスの犬だし、ひとのこころの襞なんてわかりようがないのになあ。

このまえ、逃げ出してしまって悪かったかなって思ったりもしてるんだけど、まあ、オイラはオイラなりに、自然にきいっちゃんといっしょにいればいいんだと思う。オイラに出来ることって、それしかないよね。



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